50年ほど前の春山仕事コースを歩いて

過ぎた10日、仙北道筋の胆沢川流域から県境の尾根と支流域のブナの森を歩きました。

今回は、先に記していた50年ほど前の春山仕事で雪上を岩井川馬場から胆沢川の大森沢に通ったコースを意識して歩きました。当時最短で歩いたコースは、なるべく県境の尾根までまっすぐに上がることで、この日の一歩一歩は、むかしを振り返る歩みとなります。

パークゴルフ場の早期開業にむけて国道の除雪が途中まで進められています。こちらはスキー場分かれの交差点から国道を歩き開始。竹まるぎっぱ(竹まるき場)という、昔は大雪崩のあった箇所からは国道をそれて坂を上り、また舗装道路に移って荒沼へ。そこからはまた最短コースで、ほぼ直線でトンネル口に向かい県境の尾根へ上がりました。

その尾根が、エシャガ(胆沢川)のアゲの頂点です。ここは尾根のブナも途切れ、昔から展望の良いところ。先日掲載の写真でも馬などがいて、木材が並んでいた尾根で、この広場に大森沢からブナ材を架線で上げ、そこから下の林道までは馬で材を搬出したのです。(1枚目の写真)

眼下には、50年ほど前、春(伐採・搬出とナメコの種菌打ち)、夏(集材架線)、晩秋(ナメコ採り)と働いた大森沢の原生林が遠く大森山まで見えます。林に一直線にのびる真っ白な線は、集材架線の親線を張るときに支障木伐採をした痕跡です。(2枚目の写真)

国道がまだ完成せずトンネルもない当時、春には雪上を上り下りし、秋から初冬にはナメコ栽培組合のアバさんたちとナメコをどっしりと背にして大森沢入り口から上がったハッピャクヤアゴのアゲも写しておきました。(3枚目の写真)

組合で栽培したナメコは、伐倒した切り株などに種菌を春に植え、秋に組合総出で採取し組合で一括販売を繰り返しました。眼下の森の奥深くまで入って採取し、この坂をむらのアバさんたちは荷をでったり(いっぱい)背負い上がったのです。タケノコ採り人もです。

天気はよいものの、この日の尾根は木の枝を揺らすほどに冷たい風が吹くので、冬山を歩く装備と同じにしました。尾根のダシ(西風に運ばれた大量の雪)にはひび割れが随所に。

ブナの森では、昨年晩秋に発生後、樹上で凍りついてしまったカノガ(ブナハリタケ)やブナシメジらしきキノコもあり、一部はちょうどノギウヂ(エゾハリタケ)のように雪上に落ち春の陽射しで解凍されています。これらは持ち帰って、早速ごちそうになりました。

大森沢とちがって、仙北街道筋の胆沢川上流とその大きな支流域は、古来から一度も斧の入らないブナ原生林の宝庫で、見ほれるような幹が林立しています。往きと帰り、県境をはさんだ岩手と秋田両側の木肌にカメラを幾度もむけました。これら成木、老木、枯木や、もう土にかえろうとしている倒木は、50年前から私らを見つめていた木々たちです。

味噌仕込みの春

県南3箇町村議会連絡協議会の議長3名が集い、羽後町役場の議会執務の一室で今後にむけた打ち合わせなどをきのう行いました。

県南でも平野部は積雪ゼロとなって久しいですが、帰りに西から奥羽山脈にむかい村の入り口あたりまでくるとたんぼはまだ雪。高台にある羽後町の田代仙道地区もまだ雪があるそうですが、我が家のまわりもまだまだ白が支配する雪消の遅さです。きのうは一年に一度、春にやってくる自家用味噌仕込みで、妻に手伝い大きな木桶に味噌を詰めました。むかし、家族が多くて、また狩猟仲間たちと野ウサギやクマをはじめとする獣肉の鍋物をしょっちゅうつついた頃は、味噌を多くつかい、この桶も上までいっぱいになるほどだったのですが、今はこのように桶の半分にもならないほどの量で間に合います。

「毎日食べる味噌の原料は国産大豆で」ということにこだわります。もちろん麹も村の多くの農家がそうであるように自家産のお米が原料。

 

この味噌仕込みを機会に、我が家では塩漬けしていた野菜(主にナスとキュゥリ)やキノコなどが大きな桶にうつされ、今度は味噌漬けとして発酵がすすめられます。

キノコの味噌漬けで多いのは熟成すれば飴色に光り、食通には高級扱いされるノギウヂ(エゾハリタケ)と、黒みがかったトビダゲ(トンビマイタケ)の幼菌で、この二つは我が家のご飯のおかずに欠くことができない漬け物です。写真は昨年漬けた野菜やキノコの味噌漬けを桶から出したばかりの                                                                         ものです。

寒いながらもきのう午後のつかの間の陽射しで花開いていたチヂザグラ(イワウチワ)です。その後夕方からは雪となりましたから、花はつぼみを閉じて今朝はうすい新雪をのせています。冬眠明けをはじめたクマたちも、今朝の新雪をみて「こりゃぁ、まだ、穴の中がいい」とおもっているかもしれません。

広域行政のクリーンセンター竣工式

湯沢雄勝クリーンセンター(ごみ焼却場)の竣工式がきのう行われました。

総事業費約40億1100万円が投じられた施設は、施設紹介のパンフレットにあるように一日当たり74㌧のごみ処理が可能です。

県内の統一地方選ともいわれる知事選、首長選、議員補欠選が終わり、ここでもそれぞれ新たなスタートがきられました。

湯沢雄勝管内も、湯沢と羽後の首長改選、市議の補欠選がありました。広域組合と議会もあり、こちらも改選にともない管理者が代わります。勇退なされる管理者の斎藤湯沢市長さんが竣工式の式辞をのべられましたが、公務で私がいっしょになるのはこれが最後ですので、労いを申し上げました。

小さいながら何度も投票をともなう選挙をたたかった体験からして、選挙は気力を充実させるうえでも「とにかく体力がなければ」がこちらの実感です。しかも、今はまだ底冷えのする時期の選挙、候補者はともかく、アナウンサーなど選挙カーに同乗する方々の体調管理も苦労する時です。

みなさんご苦労様でした、というのが、すべての候補者とその陣営の方々への率直な想いです。結果は出ました。それぞれ多方面の意見・主張があり、それを堂々と論じ合えたのは民主主義社会が正常にまわっている証でしょう。

外国の大統領選挙などで一部陣営に特にみられたような誹謗や中傷、真実でない主張羅列の選挙戦は別にして、民主政治の選挙では、お互い、戦った相手を尊重しあい、違う意見にも謙虚に耳を傾けそこからも学ぶ度量をもちながら、それぞれの住民の期待にこたえる地方自治をしっかりと展開してほしいと思います。

政治、会社をはじめどんな組織でもリーダーにもとめられるのは「是々非々、己に真っ当な意見をいう者の重視」と私は考えます。追従や迎合の者(社員、職員)だけで己をかこえば、公でも民でも行き着く先は世界と日本の歴史がよく教えています。是は是、非は非とはっきり上にものをいえる人々を多くもち、その意見を聞く耳をもつリーダーがいる、こういう両為の組織は強いですね。

昔の山仕事の追録

先日、胆沢川上流部での木材搬出のことを記したら、「山仕事でつかう「ガンタ」とはどんな道具なの?」というおたずねをいただきました。

先の写真の中にも、「ガンタ」という道具をつかってブナ材を転がしている場面を載せましたが、道具の現物がすぐ手元にないので、そのガンタをつかって作業している様子の写真をもう一度載せてみました。1枚目の写真がそれで、3人で長さ約2㍍のブナ材を「せ~の」の声とともにガンタで担ぎあげ、バチゾリに片方の端を載せようとしている光景です。今の林業は究極の機械化となり、道具のいくつかは「古物」なのかもしれません。

バヂゾリの雪道は人力ではなく木材の自重で滑り下るために、適度な角度の坂道を林の中につけます。ただ、時にはどうしても緩い傾斜しか造れない箇所もあります。そういうところでは木材をひきずっているわけですから、操作をするバヂ乗り手はソリからすばやく降り渾身の力をこめて引かなければソリが止まってしまいます。そんな時にも、後ろにいる助手がガンタを肩にして押すというこの道具の使い方もあるのです。ただし、それは「助手がいた場合だけ」の話ですが。

ところで、余話です。胆沢川上流部の国有林大森沢でブナ材の払い下げを受けた当時は国道もトンネルも完成していません。そのため、雪上で伐り集められた木材は夏場に集材架線で空中を運び県境の尾根に上げたことも先に記しました。岩手側から県境の尾根を越して秋田側に大量の木材を搬入したというのは村の歴史ではおそらく最初のことで、それは昭和39年、こちらがまだ中学生の頃です。

エシャガ(胆沢川)上流部の大森沢に沿った県境の尾根には、私の知るところでは秋田側へ越える3箇所のアゲ(峠越えの急坂)と名のつく地名がありました。それは、夏道もふくめ昔から仙北道とならんで胆沢川流域の上下流部へ通ずる主要な山道としてつかわれたハッピャクヤァゴ(八百八歩)のアゲ、ほかは山菜採りや狩人たちが冬場に雪崩の危険のないところということで林のある斜面を上り下りしただろうナガ(中)ノアゲ、シャガヂアゲの以上3つのアゲです。

最初に木材を上げたハッピャクヤアゴは、車の着く焼石林道まで秋田側の距離が長く、県境の尾根からは馬を利用して土の道をいわゆる地引きさせたのです。使役の「馬は7頭」と亡き父の記録にあります。馬方たちはススコヤの小屋で寝泊まりし日々勤しみ、後年には村の冬山木材搬出でも我が家に宿泊しはたらきました。後にこちらが働くようになった大森沢の上流部から材を越した時は、ナガノアゲの県境から焼石林道までの距離が長くはなく、集材架線を二段にしてすべて運ぶことができたので馬方は必要なくなったのです。

ユギ担ぎなど、当時の山林労働や山のくらしでは記録にとどめておかねばと思うことがまだまだあります。最も印象に残るバヂジョリ引きとガンタ使い、胆沢川の県境を越えた架線ケーブルと馬による木材搬出、それらの一端を先の余話として昔の写真からご紹介です。

連日の雪解け濁流へ

これからは、所用で村内をめぐれば、なんらかの花たちと出会え、その種数も増えます。

週末に出会えたのはショウジョウバカマの蕾。少し寒めでしたのでこんな状態ですが、今日あたりは満開となるでしょう。

先週から村は本格的な雪解けシーズンとなりました。その証がよく表れるのは成瀬川の様子で、川面はもう連日の濁流渦巻く流れへと変わっています。

仕事部屋の障子張り替えで戸をはずしたら、成瀬川は冬の清流とは比べものにならないほどに流れの幅が広がり、瀬は波立ち暴れています。カジカたちもタマゴをかかえておなかをパンパンに膨らませ産卵にそなえているころでしょう。

きのうは、一年つとめた部落神社別当役の慰労会へ。すべてはじめての別当役で勉強になったことがたくさんありました。そして初めてだけに「これは改善しなければ、これは担い手をつくらねば」という気づきもいくつかあった一年でした。

どんな組織体も、新鮮な改革への気づきがなければ、よくいわれる「前例踏襲」ということになりがちです。いい前例はつづけるべきですが、変革すべきこと、着手すべきことはすぐに改革にとりかかることが必要ということを感じた初役柄の一年でもありました。

雪解け、春の農作業はじまりとともに、村の祭りの春が今年もやってきます。村のほとんどの部落神社のお祭りは春。秋祭りではなく春に祭りが集中したのはどんないわれがあってでしょう。豪雪の土地は全国的に春祭りが多いのでしょうか。祭りの歴史を知らないだけに、これも私の不思議のうちの一つです。

小学校18名、中学校16名の入学式

晴天3日続きのきのう、小中学校の入学式がおだやかな日和の下で行われました。

今年の入学は小学校18名、中学校16名。その結果、小学校は全校児童が101名、中学校生徒は70名と報告されました。

卒園式と卒業式で先輩として送られた子供たちがわずか一月ほどで、今度は一番の初々しさで入学です。その新鮮な姿も希望いっぱい。最上級生になった6年生と3年生をはじめとする進級した子供たちが、ちょっぴり先輩らしいまなざしで新入生をむかえる表情も希望いっぱい。「ふるさとの歌・悠久の風にのせて」は、いつお聴きしてもなんといい響きでした。

みなさん、とにかく楽しい学校生活の6年間、3年間でありますよう願うところです。

▼春らしい日々が少し続き、きのうは外気温が21℃まで上がりました。雪解けがすすんで人里がだんだんと土色に変わるこれからは、焼石連峰の名峰三界山や、それに隣り合わせる権四郎森(南本内岳)の白さがきわだちます。

土手のチヂザグラ(土桜・イワウチワ)のつぼみが赤みを増しふくらんでいます。きのう午後の成瀬川は、今年はじめての本格的な雪解け水となり、夕方には流れの勢いを朝の倍近くに変えていました。

今朝は一転して昨夜からのしとしと雨が本降りに。仕事部屋からのぞむ川は朝から濁流が水かさを増しています。今日は保育園の入園式。新しい生活へのスタートが村でもいっせいにはじまります。

新たな出会いの日々が続く

きのうは村へ転入となった小中の先生方との合同挨拶会がありました。

小学校の新教頭先生は昨年まで同じ職場に勤められそこで昇格された方ですが、ほかの皆さんは文字通りの転入です。それで、まずは明治の市町村制施行以来、昭和、平成と二つの市町村合併の激動を経てなお、自立を保ち続けている村の自治の特徴と、そのためにも地方自治では100年の計とされる人づくりが大事であることに少し触れてあいさつとしました。

きのうは、今春役場に新採用となった若者諸君4人(3人は村出身の方、1人は横手市大雄出身の方)のごあいさつも受けました。身の丈にあった職員数となりますから、当然、少数精鋭でしごとを切り盛りすることが求められ、一人の職員にかかる責務が大きいことを自覚しなければならないでしょう。全体の奉仕者という憲法の定めをはなさず、村づくりの要として成長・活躍されることを願いながら激励をしました。

▼水稲の育苗に備えて、ハウス設置箇所の雪消しが方々で真っ最中です。豪雪対策本部の設置もなくそれほど雪の多い冬ではなかったのですが、相変わらず雪解けの進みは鈍しです。大型ブルドーザーでの作業でも、小型ロータリー除雪機での作業でも、動かす雪の量は豪雪の年とそれほど変わらぬ多さになってみえます。

きのう、おとといと晴れの天気でしたが、本格的な堅雪続きはまだで、きのう朝の雪原でも雪に足がやや沈みました。飛び上がってもぬからないほどに雪が完全に締まるまでには果たしてもう何日を要するのでしょうか。

緑も、花も、少しずつ種類を増やして

久しぶりに晴れ渡ったきのうは、朝一番で、異動となって新たな任務に就かれた広域消防本部の消防長や次長さん、課長さんなど幹部のみなさんがそろってあいさつに来庁され、後には村の新消防分署長さんたちも見えられました。

消防団長をつとめている副議長と席を共にしながら、村の無火災記録を伸ばし続けることや、やがて始まる山菜(タケノコ)採り遭難対策など、村の特徴を話題にしてあいさつを交わし合いました。

分署には、村内五里台出身の若いTさんもよその署から転勤で配属となり同行されました。役場には、もう少しの間「転勤」や「新採用」にともなう新鮮な気が漂い続けるでしょう。
やる気にあふれた新鮮さに触れると、こちらも年が若返るような気分になります。

▼朝から夕までの久しぶりの長い陽射しに野の花たちも満開。冬眠から醒めた虫たちが、蜜をもとめて忙しく動き回っていました。

フクジュソウに続いてチャワンバナコ(イチゲ花の仲間たち)もようやく咲き始め、よく食べられる野草の仲間としてはバッケに次いで出の早いヘリザグ(シャク)やヒロッコ(ノビル)も雪ととなりあわせでおいしそうな芽をいっぱい出しています。

村内の様子をみながら椿川地区に上がり、これも久しぶりに明通沢や柏峠、そして東山をながめ、「ようし、今年も、春の雪山シーズン、きたぞ」と期待をふくらませました。

50年~100年の体験だけでは判断できぬことも

多くの若い命が一瞬にして奪われ負傷者も出た那須の雪崩事故。事故のニュースが流れる都度、ご家族や関係される方々の悔しさ、亡くなられた方々の無念を思うと、なんともいわれぬ悼みがこみあげてきます。

雪崩事故では、とくにこの季節におきるヒラ(底雪崩)をはじめ、過去に村人が幾度か犠牲になっていて、よそごととは思えぬ注意をはらって関連のニュースを視聴しています。

事故を起こした雪崩はどんな構造の雪崩かまだ確定はできないようですが、状況によればワス(表層雪崩)の可能性が高いとみられているようです。ヒラだけでなくワスでも、わが集落の人々の事故遭遇が過去にはあります。入道から県境の峠を越えた岩手和賀川支流・南本内川流域の国有林内で、3月はじめ大きなワスによる惨事がおきているのです。

それは、昭和38年、営林署の作業員としてはたらく方々の宿舎がワスの直撃を受けたもの。やはり積雪面がある程度締まった後に時ならぬ大雪が新雪として降り、ワスが予想もしない距離を猛スピードで滑り下り、夕食後だったのでしょう7時40分頃、くつろいでいた宿舎の人々を直撃した事故です。私の母の従兄弟二人もこの事故で亡くなりました。

国有林に何十年も入山している方々も、「まさか、そこにワスがくる」などとは思えないから宿舎を建てたのでしょう。山のそういうベテランの方々の判断範囲をこえたワスがおきたのですから、自然災害は、50年から100年の直接体験だけでなく、もっと長く広い体験や歴史から学ぶことが大事ということをあらためて感じます。東日本大震災も、千年という長い歴史刻みで注意を払わなければならなかったといわれることと同じです。

実は、「狭い(50年~100年)体験だけをたよりに行動すれば危ない」ということを、昨日の朝、自宅向かいの山の雪崩をみて再度痛感したためこんなことを記しています。

同じ斜面を前日に写真で載せています(左の写真)。雪崩止めのないところのヒラ(底雪崩)の跡を紹介しようと載せたのですが、その時はまだ左の大きな斜面のヒラは落ちていません。ここには下に雪崩止めがあり、その上部で大きな割れ目ができていますが滑りはまだとどまっています。

私はいつもの体験から「割れ目の下はそのうち崩れるだろう」程度に思っていました。ところがなんと、昨日朝見たら、割れ目の上部全体の膨大な量の雪がすべて雪崩止めをこえて落ちたのです(右の写真)。こういうことは数年に一度はありますが、「まさか、今、割れ目の上が落ちるとは」と、狭い体験から来る自分の判断の甘さを知らされました。

4月、いよいよヒラが本格化します。道路の春山除雪や春山登山も始まります。100年の間何もなかったから大丈夫ではなく、山と雪の状態をよく見て、皆、危険を察知することに怠りがないよう今後もつとめねば、です。

清水の生きものたちとご対面

土曜日、集落まわりの山々で本格化したヒラ(底雪崩)が各所に見られるなか、ズブズブと雪に足がとられるほどぬかる雪原を、童とともに清水の湧き口へ向かいました。

目的は、ここに棲むセモリ(サンショウウオの仲間)とサワガニを目にすること。

今年は、サンショウウオもカニもいつもの年よりはるかに数が多く、石を起こす度に「あっ、いる、いる」の声が続いてあがるほど。おまけに今年はなんといまの季節にカエルも石の下の流水にじっとしていて3匹。さらにおまけに名を知らぬ昆虫の幼虫や石の下で冬を越していたクモ(メキリグモとかの仲間かな?)も童は見つけ大喜び。加えて、秋にそばの木からでも落ちたのでしょう長~い芽が出ている栗の実も石を動かしていて発見。驚きと喜びがいくつも重なった石起こしでした。

サンショウウオはこの時期になると動きが夏場とほぼ変わらぬほど。さすがにカニはまだ動きがまったく鈍し。でも、種によって違いはあるでしょうが石の下にじっとしていたこのカエル(アカガエルの仲間で冬から繁殖活動するというタゴガエルでしょうか)は予想外に動きが活発でした。

あいかわらず雪解けの早くない春ですが、清水に生きるミズバショウも新芽をわずかに見せるようになりました。雪解け箇所にはどんどん数が増えているバッケ(フキノトウ)を「かっか(母)におみやげ」「こうやれば、採れるんだね」といいながら童はだんだんと手際よくなり摘み採ります。

成瀬川はやや雪解け水を加え始め、ほんの少し笹濁りの瀬色となっています。帰宅して我が家前からその川をはさんだ向山を肉眼でながめたら、二匹のカモシカが雪崩跡にいます。双眼鏡でのぞいたら、冬の間は常食としている柴木の小枝やまだ堅く閉じている木の芽を食べています。

雪崩のあった急斜面は雪がなくなり低木類や多年草が出ていてそこはカモシカにとってこの季節としては食の宝庫。しかし斜面にはまだ崩れやすい雪が方々に見られます。雪崩跡でカモシカの死体を見ることが時々ありますが、命をつなぐ食と危険な雪崩が隣り合わせる場にくらすカモシカ、こんな光景が自宅前で見られるのも豪雪の村ならではのことです。