思い出の男鹿・加茂青砂の海

このほど男鹿市を訪れる機会がありました。途中、アジサイで名の通るお寺さんに立ち寄り、「ここまで来たなら」と加茂青砂の海岸に下りて久しぶりに海の水に触れてきました。

加茂青砂を訪れるのは何十年ぶりのこと。そばはすべて切り立つ崖の海岸のなかで、ここだけはめずらしく砂利(丸い石粒)の浜で名の通るところ。その砂利が青いので「青砂」という地名となったのでしょうか。名のごとく、とにかく水清らかで石が美しい浜です。

今から半世紀ほど前のこと。仕事のうえでの先輩に、ちょうどこの浜の漁師の家出身の方がおられました。その先輩の実家がこの浜で漁をしながら民宿を営んでいたことから誘われ始め、以後、何度もここへ通ったものです。今ならそんなことはできないでしょうが、地元の漁師さんの小舟に乗せてもらい、少し沖に出て岩礁に棲みつくサザエやカキ、アワビなどを潜って獲る様子を船上から見学し、時にはその方の指導で10㍍近くも潜水してサザエや岩に群棲しているカキなどを見る体験をさせてもらったことがあります。

夜は、岸に寄せた流木を集めて火を焚き、買い求めた獲りたてのサザエやカキ、ニタリガイ?、魚などをその熾火で焼き、食べ、熱く語り、呑み、歌ったのがこの浜です。

その後も、仕事仲間や友人達と、あるいはそれぞれ子ども達を連れ合って、時には家族だけでと、男鹿の温泉や民宿をめざしてよく通い続けた加茂青砂。この磯浜は、若い頃ともに過ごした方々や家族との思い出がいっぱい詰まっている海岸です。

その浜が、日本海中部地震の津波により、遠足に来ていた旧合川南小学校4・5年生たち13人の命を奪う場になったことは今でもほんとうに信じられず無念でなりません。あの地震の日は、ちょうど私の身内が秋田大学付属病院で心臓手術をしていた時で、手術の真っ最中に地震が発生、手術室そばで私たちが待っていた時に病院が大きく揺れ、まわりの木々や電線などの揺れる様子も目に入りました。手術は続行され無事終わりました。

後に、深刻・悲惨な被害状況が次々と報道され、とくに加茂青砂の状況が克明に何度も何度もテレビで報道され「あの、加茂青砂で」と、その海岸と防波堤をよく知っていただけに「何でこんなことに」との思いが途切れずに湧いてきたことを鮮明に思い起こします。

それから今年で37年。浜には、命を奪われた13人の子たちの霊を鎮め慰める碑が建立されています。この日はその碑に手を合わせご冥福をお祈りしてきました。私にとっての加茂青砂は、およそ半世紀近く前の青春、友人、家族、仕事仲間との楽しい思い出がいっぱい積もっている場であるとともに、そういう悲しい歴史を振り返る場でもあるのです。

この日の海はよく凪いで、磯には小さな貝たちが動いていました。津波の日の児童たちもおだやかできれいな磯浜と貝を目にし心が躍ったはず。いつか、童たちを連れてここを訪れ、遠い日のこの美しい砂利浜の思い出と、津波のことを語り聞かせようと思っています。

2日続けて共同の草刈り作業

土曜日は田んぼ用水路の共同草刈り、日曜日は幹線生活用水路や村管理の公園、国道沿いのいっせい草刈りと、それぞれ朝5時からの共同作業に繰り出しました。

ほとんどの集落や水利組合、そして個々の農家がこの季節に道路や水路、畦の草刈りを行いますので、村全体が一時の間すっきりした感じになります。

▼度々紹介しているモミジイチゴは熟れ続けていて。作業の合間にも熟れ盛りの実をいっぱいつけて見えます。今年は、ほんとに実のつきがよいようです。

それに続いて里のクマイチゴの仲間も熟れ始め、いよいよ甘さ真っ盛りのカンゴの実(桑の実)をふくめ、山里は初夏の木の実をいっぱいいただける季節入りです。

桑の葉っぱには、小さなジャゴムシ・アネコムシ(カメムシ)が集団で羽化したのでしょうか、まとまって留まっているのが目に入りました。クマさんだけでなくカメムシもこの実が大好き。われわれがガキの頃は、カンゴの実についているカメムシをよく見ないで口に入れ噛みつぶしてしまい、口中にあの苦々しい体液がよくひろがったもの。「赤とんぼ」に叙情豊かに歌われ当時を思い出すのも桑の実、ジャゴムシを噛んだ思い出が口と記憶に刻まれているのも桑の実です。

梅雨時なので、刈り作業をする草木には時々カタツムリさんも見られます。これ、昔は、せっせと集めて塩を振り壺焼きのようにしておいしくごちそうになったものですが、今では「カタツムリを、あぶって食べる」などと言ったら、童たちは「エーッ」とびっくりしてしまいます。フランス料理では、養殖カタツムリが人気のようですが、それはどんな味がするのでしょうね。

▼朝はこうして共同作業、日中は薪割り作業で、やっと5立方㍍の薪を割り終えました。割り終えたら、今度は野積みの作業に入ります。

先日、私がずっと前から視つづけている「イタリアの小さな村」というテレビ番組で、薪づくりをしているある小さな村の住人が、生前の父親の言葉を引きながら「薪は、煙を出すまで、なかなか大変。いつか、(おまえにも)それをわかる時がくる」という旨の言葉を亡き父にいわれたことを語っておりました。

薪は、ほんと「煙を出すまで」なかなか手間がかかります。世界のどこでも、みんな、おんなじことを考え感じているものだと思い、笑いながら「んだ、んだ(そうだ、そうだ)」とうなづいてしまいました。

例年とはちがう集団検診

村の集団検診がはじまっています。

きのうはわが集落の検診日。世帯数200を少し越える集落ですが、いつもの年だと集落全体が同じ日に行われ、さらにほかの集落の方々も都合によって加わるので人数が多く時間もかかります。

しかし、きのうは、新型コロナ禍のなかでの検診なので、集落を2つに分けて別々の日に検診が行われ、さらにほかの集落の方々は受診できないという枠組を決めて実施されました。受付時間も地区によって分けられ、検診会場のなかも、検診部門ごとに部屋ができるだけ細分化されていました。いずれも、コロナ予防対応で3密を避けるための工夫のようです。おかげでとても円滑に検診は終わりました。

こちらの体は、腰や膝をはじめ衰えガタがきていることは自覚していますが、今のところ食欲は旺盛で血圧も常に正常。医者に通うほどの痛みなど自覚症状はなく、たまに歯石除去で通う歯医者さんは半ば冗談で「歯だけでみれば、100まで長生きできる」という旨を笑いながら語ってくれます。常時服薬はもちろん何十年も前から無しです。ピロリ菌もすでに除去しています。ですが、果たして今年はどんな検査結果が送られてくるか。

検診会場では、若い頃に横手で仕事をしていた当時お世話になった方が偶然二人もおられました。互いにマスク姿ですからよくはわからなかったのですが、名前を書いたこちらの受診票を見て「オッ、あら、久しぶり」にはじまり挨拶を交わし合うひとときも。世の中、いつ、どこで、どんな方との出会いがあるかわからないものですね。

▼ところで、全国的に集団検診が行われていて、ほとんどの受診者が検査に必要な血液の採取をしてもらいます。その血液を、新型コロナの感染有無(抗体検査でしたか?)を調べることと結びつけたら、全国的な感染状況の把握ができると素人には思えるのですが、なぜこういう機会にそういうことが活かされないのでしょうか。結果公表の可否や方法、内容とかは別に考慮するとしても、今後のコロナ対策のうえでも集団検診での血液検査を活用したほうがよいと思うのですが、なにか特別に不都合なことがあるのでしょうか。

▼里山で木イチゴや桑の実が熟れ始める頃は、県南の湯沢や横手(十文字、増田)でさくらんぼの女王様ともいえる美味さピカイチの「佐藤錦」も収穫真っ盛りとなります。

贈答用として買い求めることの多いさくらんぼ。梅雨入りの頃からしばらくの間、秋田県南特産の味覚が都会などに向けて運ばれ続けるでしょう。

都市近郊農業を営んでいた若い頃お世話になった相模原市のSさん宅からは、初夏の定期便トウモロコシが今年も贈り届けられました。南から北へ、北から南へと、それぞれの地で獲れた特産の贈り物が往き来する梅雨時の列島です。

岡山さんから新著届く

先日この欄でご紹介した我が家の隣ご出身で、現在は名古屋市に住んでおられる岡山ミサ子さんが、5月に新著を出されました。

医療や介護、とくに看護・介護職に従事される方々むけの教本のような著書ですが、伝えたいと思われる内容は様々な職場や生活にも通ずるもので、円滑な人間関係を保つのに参考となる啓発書ともいえるものです。岡山さんは、愛知自殺防止センターの電話相談員も長くつとめられており、その体験を通じて心と命のつながりについての洞察にも注目される内容をのべております。

著書は、岡山さんの健筆ぶりがひしと伝わる内容です。村ご出身の多くの方々が首都圏をはじめ全国各地で活躍されております。この機会に、岡山さんをふくめみなさんのご活躍にあらためて敬意と感謝をあらわし、さらなる頑張りを願うものです。

カンゴ(桑の実)も黒く

田んぼ見回りに朝4時半頃出かけますが、6月に入ってから今朝までほぼ毎朝のように「キョロロロロ~ン」とアカショウビンの鳴き声が聞こえます。先日などは自宅すぐ脇の小さな社の林からも鳴き声が聞こえ、「朱い(火の鳥)をとらえたい」と急いでカメラを取り出し駆け寄りましたが、「声は聞こえど姿は見えず」です。

そんな季節入りのなかで、きのうは木イチゴ、今日はカンゴ(桑の実)の熟れ便りです。

真夏日のような晴天が続いているためか、木の実の熟れる進みが早く、モミジイチゴも桑の実も、たった一日経つだけで「もう、こんなに」と思うほど熟した実をたくさんつけています。

きのうは田んぼの草取りをひとまず終え(土用干しの水抜き前には、もう一度ビッキの鼻通し取りを行います)、甘酸っぱい木の実を摘み取って口にふくみ一休みです。

人里の桑の実が熟れ始めると、それに喜んで集まるのはクマ公たち。彼らはこの実が大好きです。これからは、散歩やジョギング、山菜採り、農作業、草刈りなどで藪の近くを通る時に桑の実が多くあるところは要注意。とくに早朝や夕方はクマ公たちも動きが活発ですから、声をあげたり、ラジオを鳴らすなど念入りな備えが必要です。

野イチゴ熟れる

田植えからほぼ一月も経つと、水稲は生長の勢いを増し株も増えます。そうなると、田んぼはだんだんと水面が見えにくくなり緑がいっそう深くなります。

稲作農家は、穂が出そろい傾き始める8月の田んぼもめんこい(可愛い)ですが、同じように、株が勢いを増してくる梅雨入りの頃からの深緑の田んぼもめんこく(可愛く)なるものです。

ちょうどその田んぼがめんこくなりはじめる夏至の頃に熟れるのがモミジイチゴです。里山の木イチゴのなかでもっとも早く熟れるのがモミジイチゴ。我が家田んぼわきの道沿いにはイチゴの木がならんであり、どことなく気品のある甘~い実がいっぱい熟れ始めています。今年は花の着きが多かったので実も多く生るだろうと期待した通りで、ここ数年の間では最も多くの稔りとなっています。

イチゴのそばではアザミの花も咲き始め、ナルコユリの仲間も可愛い花を連なりで咲かせ、クワの実も熟れ出しています。これからは、亜高山帯のエシャガエヂゴ(胆沢川イチゴ・ノウゴウイチゴのこと)が熟れ、続いてやはり亜高山帯のエゾノクサイチゴ、深山のクマイチゴ、里のバライチゴ(ナワシロイチゴ)、モヂエヂゴ(餅イチゴ・エビカライチゴのこと)と、野でも草木の実の熟し続ける季節入りです。

ビッキの鼻通し取り

過ぎた週末~日曜は、燃料用の薪割り作業や、田んぼの雑草「ビッキの鼻通し(クログワイ)」取りをはじめました。

田植え直後の除草剤散布でも効果のないクログワイは、害虫のカメムシとともに我が家の稲作りの最強の敵。この雑草駆除ではこれから除草剤を散布する方法がもっとも効果があるようです。でも、我が家は「春以降は除草剤を使わぬ」が方針。手作業でこの雑草を毎年抜き取り続けています。

薪割は3年ほど前から機械割りですから、時代劇のようにマサカリを振り下ろすことはなくなりました。でもその代わりにかがめる腰はずいぶん痛みます。草取りはそれよりなお腰の痛いしごとで、これを何日も続けてやった昔をしのびながらの作業となります。昔の草取りは、私の体験でいえば田んぼ仕事のなかでももっともつらく嫌な仕事でした。腰が痛む、手首が痛む、指が痛む、眼が痛むの四重苦のその作業を知るのは、我々の世代あたりが境目でしょうか。

そういうつらい作業だったので、家々が作業を手伝い合う「結いっこ」があり、その共同作業時にはひとつの楽しみもありました。それは、作業をする方の中にとりわけ話題が豊富の方、あるいは話術に長けた方が必ずおられて、その方の漫談のような語りや、政治などを風刺した話、男女や夫婦のことを脚色した話がなんともおもしろく、愉快で、そのおかげで、つらい「痛み」が一時の間どこかに失せ、あるいは和らいだりしたものです。草取り仕事の田んぼに時折聞こえる男や女たちの笑い声。私のビッキの鼻通し取りは、そういう当時をしのぶ作業の日でもあります。

▼そんな作業の合間に、「終わり初モノ」のタケノコを食べたくなり夕刻近くなってから1時間ほどブナの森へ出かけました。

ブナの森では、まだヒメアオキの実が真っ赤っかで健在。マイズルソウ(舞鶴草)が花盛りとなり、そばのブナの幹にはにぎやかな鳴き声が聞こえるエゾハルゼミでしょうか、脱け殻があちこちに。

森の地面には、「これが、植物?」とみんなに不思議がられるギンリョウソウ(銀竜草)がいっせいに顔を出し始めました。

6月定例会議終える

村議会6月定例会議はきのうですべての議案審議を終え、通年議会はいったん休会です。

提出議案はすべて全会一致で原案通り可決となり、議会散会後には全員協議会が開かれました。協議会では、新型コロナ対応で最も新しい状況下での村の対応策や今後の方針などであらためて詳しい説明を受け意見交換もなされました。

新型コロナ禍における事業体などの状況把握とは別に、村民の生活状況の把握についても、すでに5月の村広報配布の際に職員が各戸を訪れ聴き取り調査を行っており、その内容も説明されました。6月の広報配布時にも、村の新たな対応策のひとつである応援クーポン券事業(村指定の宿泊業・飲食店・食品加工販売所に使用限定の村民一人当たり1万円のクーポン券)などを職員が直接手渡しをし、その際にもあらためて状況調査が行なわれます。

なお、国の特別定額給付金は、対象のすべての世帯に6月15日で給付を終え、そのことがこの日散会前の村長の発言で報告されました。100㌫の給付をこれだけ迅速に行えたことは、村の自治の特徴を活かしたとりくみであり、住民はとても喜んでいます。

6月定例会議はきのうで終わりましたが、その定例会議全体の振り返りを行い、今後の活動に向けた協議をするために今月末には議会運営委員会が予定されています。

▼おとといで今年2度目の畦草刈りを終えました。床屋さんに通った後のようにこれで畦まわりはとてもすっきり。田んぼのなかでは、オタマジャクシが何千、何万と育ち、イモリ、ドジョウ、カエルたちとともに小さな命を躍動させています。畦にはシオカラトンボやオニヤンマを小さくしたようなトンボも見られる季節入りです。

▼タケノコ採りで須川高原に入山し遭難された山形市の男性(72)は、昨日朝に入山地点から1㌔以上離れたと推定される地点で地上からの捜索隊が発見し、死亡されたという報がはいりました。なんとも無念なことで、心からのご冥福とお悔やみを申し上げます。

地上から、空からと、連日の捜索にあたられた警察、消防、消防団、村、遭難救助隊員の皆さんにも、ご苦労をおかけしたことにお礼を申し上げたいと思います。

「歴史の道百選」仙北街道の保全で朗報

昨年、「歴史の道百選」にならんだ仙北街道。その選定を祝う会が奥州市側からも出席いただき村で開催されたことはこのコーナーでもご紹介しました。

そういう動きのなかで、今年の3月に街道に関係する「胆沢古道の会」が発足し活動を開始しているという情報に触れました。なんとうれしいことでしょうか。

この歴史の道は延暦21年(802年)にひらかれたという古道で、藩政時代の終わりまで奥羽山脈を越えて往来する交通の要衝としての役割を果たしました。(村ホームページ・村の教育施設・まるごと自然館・仙北街道の欄参照を)

廃藩置県以後、ほかの交通機関の発達とともに要衝としての役割はなくなり、それでも「明治15年(1882年)頃までは栄えた(村郷土誌記)」という古道はやがて一部から荒れはじめ、大正時代にはわずかの踏査交流があったようですが、以後全体を通じての通行はまったく出来なくなりました。100年ほどの間荒れていたその道を復元させようと最初にとりくんだのが岩手県胆沢町愛宕公民館踏査隊のみなさんで、それは平成2年(1990年)10月21~22日のことだったようです。(このことは現地踏査の際のパンフレットにも記されています。)翌年にはそれに呼応して村側からの踏査活動も始められました。

以後、胆沢と東成瀬村のそれぞれに公民館活動と一体の「街道を考える会」が組織され、古道の踏査と復元が本格化。その組織を軸に行政と連携しての古道復元・整備、交流が継続してはかられました。双方のその長年の努力が「歴史の道百選」選定に結びついたといえます。

ところが、何年か前に胆沢側の「考える会」が事情あって解散されたため、毎年刈り払いなどをふくめ整備にあたってきた作業が進められなくなり、東成瀬村側の古道は引き続きよく整備されていましたが、平成29年度以降、胆沢側のとりわけ古道の中心部は年々荒れが進んできていました。

「古道の維持のためには、岩手側の以前のようなとりくみがどうしても欠かせない」ということで、村側でもつよくそれを望み期待していたところ、前述のように新たに「胆沢古道の会」が発足したというのです。村側にとっても、いちばん強くのぞんでいたかたちでの朗報が届いたのですから、みんなとても喜んでいます。「これで、安心して、また古道がまもり続けられる」ということなのですから、その期待と喜びは大きいのです。

岩手側では、雪解けを待ったのでしょう、早速5月25日に現地調査を実施したようで、今後も中心部もふくめ状況調査も行うらしく、今年度の保全活動も計画されているようです。

今年も、例年どおり諸々の仙北街道踏査活動が行われる計画です。新型コロナ禍の関係で今後も予期しない制約等が生じるかもしれませんが、それぞれの組織が連絡をとりあいながら踏査の具体化がなされるようです。必要な情報は村のホームページや村教育委員会などからお取り寄せ願います。

(写真の左中程に遠く見えるのが、焼石岳頂上から望む仙北街道方面の尾根と山並みです。)

▼15日から村の国有林(須川高原)に入山(タケノコ採りでしょうか?)した山形市の男性(72歳)が遭難したとみられ、地上や空からなどをふくめ捜索活動が行われていました。今朝までまだ行方はわからず、今日は遭難救助隊の規模をひろげて捜索が続けられます。

昨夕に遭難救助への出動要請がありましたが、今日は議会の最終日と重なり参加は無理なことを伝えました。ヘリからの捜索でも発見されないということですから、遭難された方は視界が樹木に遮られる場所などに居る可能性が高く、こういう場合は地上からの捜索が大きなカギをにぎります。なんとか、無事で早く発見されることを願うばかりです。

花の百名山・焼石岳、シーズン初めの百花繚乱(その4)

泉水沼から先はもう右も左も前もとハクサンイチゲの大群落がひろがります。咲き始めの花盛りですから花を終えた株はなく、同じお花畑でも、この日の花はみんな若くいきいきした美しさにあふれています。

登山道沿いにはミヤマキンバイが相変わらず多く、イチゲの白花とキンバイの黄色がお互いをひきたてています。時折ユキワリコザクラやこれから見頃となるミヤマシオガマも咲き始めていて、それにヒナザクラも加わりますから飽きることのない花観賞が延々と続きます。

姥石平を周り、権四郎森(南本内岳)や南本内川のカッチ(最上流部)に多い雪渓や雪田を抜け、再度、新緑と雪渓が織りなす春紅葉をながめ、この日お目当ての花観賞は満足すぎるほど充たされて終りました。

いつものように妻への山からのお土産として、タゲのすず(焼石沼そばの湧水)をペットボトル4本に詰め、午後の陽射しを受けるキヌガサソウを未練いっぱいにまた眺め下山です。

往く時に所々の登山路で雪に押さえられた柴木がありましたが、真夏日の下でその雪解けがすすみ、はじけて起き上がった柴木に雪が着いたまま下がっている光景もありました。

後にこの日の歩数計を見たら31,144歩とありました。この数は器具によってずいぶんちがいがあるようですが、これほんとうでしょうか。