仕事納め、門松準備

今日は公務職場での仕事納めの日。

この日が近づくと、役場庁舎内は、保存の必要ない書類やモノ片付けなどに動く職員の姿が所々でみられます。

こちらも、門松用のヒメマツ(キタゴヨウマツ)を準備したりで、少しずつ年越しにむけた動きに入っています。我が家の門松用の松は、代々の「マキ・家系」の慣例で樹種はヒメマツとされています。

この松は、アカマツと違い標高のある程度高い尾根筋や急斜面に多く植生し、里山ではごく一部にしか見られません。そのため、雪を踏んでの毎年の「松むげぇ(松採り)」がなかなか大変。それで自宅の敷地などに庭木を兼ねて松の苗木を植え育てる方が多く、昔から多くの家がヒメマツを門松に用いていた大字椿川地区では、例年記すように自宅そばに植えられたヒメマツが目につきます。

わが集落は、採取しやすいアカマツを門松にする「マギ(家系)」が圧倒的に多いのですが、どうした訳か、私の「マギ」はヒメマツだったのです。門松の樹種へのこだわりは、地区でも「マギ」でも年々薄れているのかもしれませんが、どうでしょうか。

そういうこともあって、我が家も、門松を準備をしやすいようにとヒメマツ苗木を自宅近くに植えてかれこれ20数年。今ではその植えた松から枝をいただき、身内の家にも分けてやれるほどに樹は生長しました。

▼きのうまでの天気予報どおりとはならず、スキー場待望の雪になるどころか、昨夜から今朝にかけては雪ではなく雨。朝には陽射しもあるほどのおだやかさです。ゲレンデにかろうじて残っている新雪の層がどんどん薄くなっていて、「寒気よ、早く来てくれ」の雪乞いが続きます。

今日は年の瀬恒例の朝市の日。役場前の会場では、甘酒がふるまわれ、お正月準備の品々がならべられています。

今日でこのブログも今年の「書き納め」です。1年間のおつきあいに感謝を申し上げつつ、よき新年をむかえられますことをご祈念して結びといたします。ありがとうございました。

首都圏なるせ会の創立30周年に寄せて

今年は、令和元年、村創立130周年、県と全国町村議会議長会創立70周年など、いろんな意味で節目の年でした。

村を出て関東圏域に暮らす人々によってつくられた「首都圏なるせ会」も創立30周年を刻んだ節目の年でした。その際に刷られた記念会報に私も一言「お祝いの言葉」を寄せました。以下はその全文です。

過ぎた30年は、首都圏なるせ会に集うみなさんと同じように、私にとっても深く印象にきざまれることの多い年月でした。そういうこともあって、自分史の一端をふりかえる意味も込めて今日はその「お祝いの言葉」を載せておきます。
創立30周年に寄せて
会がつくられて30周年をむかえられたこと、心からのお祝いを申し上げます。

皆様の多くは、中学あるいは高校卒業すぐになじみの土地を出て見知らぬ環境ではたらき、まったく新たな人と人との関係を職場や地域などでつくりあげ、今の立つ位置を築き上げられた方々です。そのご努力にはほんとうに頭が下がります。なるせ会設立、運営、ご参加へのご尽力、ご協力ともあわせて、長年にわたる皆様のご活躍にまずもって深い敬意をはらわせていただきます。

さて、首都圏など(以下、関東圏以外の方々もふくめて)で暮らしておられる皆様お一人お一人が、ふるさとをはなれた理由にはそれぞれちがいがあると思われます。

戦後の国情は首都圏での多くの働き手をもとめていて、一方の地方には戦中後半から戦後生まれの多くの若者たちがおりました。地方にはその若者たちを引きうける働き場所があのとおり不足していたなか、後継ぎ以外は仕事のある都会に向かわざるをえなかったという大きな時代背景が当時はありました。

ために、学校卒業時(とりわけ中卒時)にはじっくりと職業を選択するなどという余裕もなく「とにかく、まずは東京へ、神奈川へ、千葉へ、愛知へ……、」などと、ふるさとを離れて都会に向かった方々が多かったことを、私は首都圏に暮らす親戚の方々からよくお聞きします。もちろん、積極的に「俺は、私は、東京(首都圏)で、こんなことをしたいから行く」という道を若い頃からよく考え選ばれて向かった方もおられたでしょう。

時々の上京で十文字駅のホームに立つことが私もあります。その時にお盆や正月に迎えの家族も帰省のみなさんも心をウキウキさせて待つ駅に列車が入る下り線ホームと、あっという間の休暇を過ごし、別れの悲しさをいやというほど抱かされたでしょう上り線ホームをながめます。あゝ上野駅の歌ではありませんが、十文字駅は皆様の心のひだに刻まれた「笑顔と涙のシーンが忘れられないホーム」だったということを折にふれて見つめます。

私は、都内ではたらいた体験のある3人の子(今はみな帰県しすぐそばで暮らしています)の親として、また1年間相模原で農家への住み込み研修をした自身の体験もあり、ふるさとをはなれた人々の気持ち、苦労が、わずかながら理解できるつもりでおります。

東成瀬村という狭い範囲で同郷の人々が、そのふるさととは対局の地にある首都圏で同じ時代を長く生きてこられたのですから、心の通い合う多くのものがたりが首都圏なるせ会には積み重ねられているのだと思われます。

首都圏なるせ会は、ふるさとが同じに加えて、そうして体にしみこんだ悲喜こもごもの共通の思いをもつ方々の集いですから絆もよけい強いのでしょう。会のメインは総会と懇親会ですが、「ふるさと料理での集いをよくやれるもの」と来賓などのみなさんからもよく驚かれます。これも創立以来130年間、市町村合併の荒波を冷静な判断でのりこえ、東成瀬村の名をまもり通したからこそできる、住民、行政、議会の自治の力だと思います。あわせてそういうふるさとを応援していただいているなるせ会のみなさんのおかげです。

総会会場の砂町文化センターは首都圏なるせ会の拠り所ともいえます。なるせ会の今後のためにも、自立の村の自治を一定規模を保ちながら発展させ、あるいは首都圏の自治体がもつ多様な時代の要請に応えるためにも、みなさんが暮らしておられる都市とのお互いを尊重し合った交流の縁をもつことが大切と思われます。そういうことで、お膝元でお世話になり続けております江東区の行政のみなさんとはなんらかのつながりをもてればということをここに希望し、貴会の益々のご発展をお祈りして祝辞の結びといたします。

▼以上が会報に寄せたお祝いの言葉です。最後の段落部分でとりあげた「都市とのお互いを尊重し合った交流の縁」のことは、村の自治を発展させるうえでも、国が新たに打ち出した、あるいは掲げるであろう政策との関係でも重視すべきと考え触れたものです。

▼先日は、歴史の道百選・仙北街道のことを記しましたが、村と岩手胆沢地方の縁は街道後の車道交通時代も深いものがあります。その一つの象徴が、昭和10年に竣工した大橋場の田子内橋です。その年に、奥州水沢のやはり3偉人の一人斉藤實元首相が首相退任後に村を訪れ田子内橋を視察されています。その翌年、斉藤氏は陸軍将校らによるクーデター2.26事件で48発の機関銃弾などを撃たれ暗殺されています。日本が大陸の侵略戦争へすすむ直前のことです。

歴史を刻む田子内橋は補修されて現在に至っております。橋は、県内ではめずらしいとされる特徴あるアーチ橋の原型は保たれていて、「日本で最も美しい村」の象徴の一つとなっています。その歴史の橋が、きのう、成瀬川と遠くの大日向山を背景に、ひとときの間新雪と陽射しに映えました。大日向山の写真に収まるブナ林の範囲には、私が知るだけでクマの越冬穴が2つあり、うち1つには今年も確実にクマが入ってお休み中でしょう。橋の近くにある渋柿も今年は例年以上に実数が多く、雪の白、空の青によく映えます。明日からは連続の荒れ空が予報されるようになりました。もしかしたら、これが今年最後の村で拝めた青い空となるのかもしれません。

温故知新、先人の歩みを知る議事録

今年は、村創立130周年を祝う年でした。

そうしたこともあって、村の歴史をたどることへの関心が深くなり、私が座右の書としている「村郷土誌」をひらく機会がいつもの年よりずいぶんと多くなった年でした。

なかでも、東成瀬村として出発した明治なかば頃と、終戦の昭和20年を前後する頃の議会と村の様子、とりわけ新憲法に地方自治がもり込まれたもとで「新制の村・新制の村議会」として出発した昭和22年5月の初議会当時の様子には私の関心が集中します。加えて、昭和の市町村合併があった昭和30年代はじめ頃の村と議会のうごきを記した頁にも目通しがどうしても多くなります。

創立時の村の様子をさらにくわしく知るひとつの大切な資料は、いつかもここで記しましたが「議会の会議録」です。市町村制によって田子内村、岩井川村、椿川村が合併して東成瀬村が誕生した明治22年の議会の議事録らしきものは見あたらず、議会の記録として確かめられる最初の会議録は明治24年の「村會議事録」です。最初の5枚の写真は、その表紙と中味の一部です。

次に載せた中の5枚の写真は、戦後すぐ昭和21年の「議事録」です。まだ旧制度のもとで村長と議長を同じ人物が兼ねていた当時の議会の記録です。

終わりの2枚の写真は戦後の昭和22年、新しい憲法のもとで自治の方針をかかげ再出発した時の初村議会の記録です。新公選法のもとで選ばれた議員22名によって新たな議会を構成し、5月10日に開かれた選挙後の初議会で新体制を決めた様子がわかります。

当時の議事録はすべて手書きであり、したがって歴史をさかのぼるほどに記述は極端ともとれる要点筆記です。現在のような録音機器による一言も漏らさずの全発言記録ではないので、交わされた議論から議決の経緯をくわしく知ることはできません。でも、村の政治史をめぐる激動期の様子、あるいは時々の最大課題について、村と議会、村民がどうむきあったかのおおよそは、要点書きの重厚な一字一字、一行一行からうかがうことができます。議論の経緯がほとんど記されず、結論・議決だけの記録も多いのですが。

いずれ、これらの「議事録」や付随する重要な会議の記録は村の歴史がつまっている大切な宝ものです。議事録そのものの保全もふくめ、保存管理に特別な視点をむけなければと、ここ数年考えているところです。その一環として数年前にはとりあえず「村議会だより」の縮刷版が発行されてはいますが、肝心カナメ、議事録の完全保存にも意をそそぐ必要があると考える昨今です。

広域市町村圏組合の定例議会

湯沢雄勝広域市町村圏組合の12月定例議会がきのう開かれました。

議案は、12月の各地方議会にも提案された会計年度任用職員(いわゆる短期契約の臨時職員などに関わる手当支給)についての条例案や補正予算案などで、すべて全会一致で可決されました。

これで予定された今年の公務の会議はすべて終わり。大晦日までは、いつもの年末と同じように所用で村内をかけめぐり、また、年始の公務諸行事への準備や様々な原稿書き・整理などで明け暮れすることになります。

おだやかな日和は昨日も続いていて、我が家の土手では遅咲きのたんぽぽがいったん1㍍をこえる雪の下になっていましたが、きのうなど、花びら満開で暖かな陽射しを受けていました。

風除室のさざんかも、陽ざしを受けるとまた違った趣の美しさを見せてくれます。

今朝も除雪車の出動はなし。除雪なしの日が続いていますが、朝になったら久しぶりに雪国らしい降雪が一時みられました。ただその雪もほんのわずか。雪が少なくて営業できないスキー場はいよいよもって心配の度を増しています。同じように、国内各地のそんなスキー場の「困った」様子が今朝も報道されました。

「降るべき時になったら、雪は降る」自然があたりまえにまわってくれないと人のくらしは狂います。強い寒波襲来はまだのようなので、雪と関わる仕事の分野では、もうしばらく深刻な「雪乞い」が続く年末となりそうです。

仙北街道「歴史の道百選」を祝う会

今年、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた仙北街道。その選定顕彰を記念しての「祝う会」が、21日、ホテルブランを会場に開かれました。

仙北街道は、歴史に残る文献では平安時代(前九年の合戦以前)からの古道として伝えられる陸奥と出羽を結んできた文字通りの歴史の道。津軽の藩主や、蓑虫山人も通り、また奥州水沢の偉人・高野長英も通ったのではないかと語られる話題多き道でもあります。

さらに、源義経が弁慶とともに日本海側を経て平泉に逃れ来るときにも、おそらく通ったであろうと識者たちにも類推されたロマン深き古道でもあります。なにしろ街道は、東成瀬村側からの山越えを終えてすぐの衣川を経て、平泉はもう目と鼻の先なのですから。

古道は、幕藩体制までは街道としての役割を果たしていましたが、交通機関の発達とともに利用は敬遠され、やがて県境の核心部はごく一部をのぞきほぼ廃道となっていました。

それが、岩手の旧胆沢町とわが東成瀬村の両公民館、両町村民の有志たちの努力で復元され、来年は「復元30周年」をむかえることになります。その記念すべき節目を前に、熊野参詣道や高野山参詣道、旧箱根街道などとならぶ「歴史の道百選」の仲間入りをすることになったものです。

「祝う会」には、奥州市胆沢愛宕地区センター長をはじめとする奥州市の方々4氏も出席。奥州市教育長のお祝いメッセージのご紹介もあり、みなさんは、村の関係者、「仙北道を考える会」の会員さんたちとともに懇談を深め合いました。お互いに、古道を復元させて以後の交流や街道歩きの過去を振り返り、歴史の道の今後の保存(奥州市側の系統的な保全策が喫緊の課題)と活用の大切さを熱く語り合いました。

今回百選に選定されたのは仙北街道のうちの山越え部分の全長約24㌔㍍。その核心部の秋田側県境の十里峠から岩手側の大胡桃山までのほぼ10㌔区間のほとんどは千古斧の入らぬブナを主とした林で、世界遺産の知床や白神山地、屋久島などとならぶ森林生態系保護地域(核心部はその保存地区)でもあります。

この森は、昭和30年代からの国有林伐採急加速となった国策のなか、栗駒国定公園の範囲でなかったにもかかわらずめずらしく人の手が入らなかった地域です。材としては最高級の質をもつ大径の天然広葉樹の森であったのに、搬出が容易にはできない渓谷条件や、環境という面から森林の役割が見直される世論と政策が深まるなか、伐り遅れたためにかろうじて残った森ともいえます。東北日本内陸部豪雪地帯固有の見事な原生林が奥羽脊梁の広大な地域にそのまま残されている、そこの核心部を歴史の道は通っているのです。

春、夏、秋、冬といずれの季節も魅力にあふれる原始の林と渓流の瀬音心地よき森の街道。とりわけ眺望のきく4月半ばからの雪上歩きでは、私の大好きなコースのひとつです。栗駒連山や東山、焼石連峰を左右前方すべてにしばらく望みながらの素敵な尾根歩き、時には街道から逸れてのブナ林歩き、沢筋歩きができるところなのです。「来春には、ぜひ雪上歩きで、00まで」と、山仲間のFさん(街道復元に尽力した中心の一人)や会員の方々と懇談の席で語り合ったところです。

門松むかえ

月初めのあの大雪があったことなど、少し大げさにいえば「信じられない」ほどの寒気の緩みがつづいています。

きのうも、師走が末に入ろうとしているのに「小春日和」といえるほどの陽射しあり。縁側では冬ごもりのアネコムシ(カメムシ)がどこかから出てきて、窓越しに差し込む暖かな陽を受けて気持ちよさそうにしていました。

ただ、標高の高い県境の山々は、人里は雨でもそこは雪降りという日々となります。なので、集落からのぞむ焼石連峰の名峰サンサゲェ(三界山)などは、麓のブナがまっ白な新雪に覆われていて、きのうのような晴天時にはそれらの山々がひときわ輝きを増します。

先日は、集落のKさんが、今の季節にはめずらしく自転車のペダルを勢いよくこいでゆきました。背には松の枝をいっぱい負うています。お正月用につかう門松を採って来たらしく「松、むげぇで、したな(門松を、迎えに、行って、きたのですね)」と声かけたら「おゥ」と手をあげてこたえてくれました。

門松用の枝を採りに行くときは「松、迎えィ、行ぐ」とわが集落ではいうのです。今年も「松むげぇ」の人々の姿をみかける季節といよいよなりました。

▼きのうは商工会の年末懇談会へ。こうした集いは、経営のこと、人事管理のこと、働き手確保のことをふくめ、事業者としてのみなさんのご苦労をお聞きするよい機会でもあります。

こちらもそういう小さな事業者(父親が木材業で元商工会員)の家で長く生きてきた体験があるだけに、みなさんとの語り合いではうなずくことが多くあります。「経営」をする、あるいは従業員をかかえ「給与を支給する」というのは、ほんとに大変なことですからね。

とくに、冬の仕事が限定される雪国で、常時従業員数の多い経営体のみなさんの努力というのは並のものではないはずで、頭が下がります。語り合いでは村づくりにむけた提言も出されることがあり、この懇談会は学びの機会ともなります。

居間の障子を張り替え

師走も早半分を過ぎました。世の中のうごきは、今年やったことを整理・精算しふりかえりながら、新年にむけた計画や準備に追われる文字通り気ぜわしい日々でしょう。

師走といえばおさだまりは大掃除。わが家では、掃除のはじめにまず居間の障子の張り替えがされました。

薪ストーブを置き、こたつもある15畳ほどの居間の四方は障子戸。障子戸が規格より広く、上げ下ろしの障子(猫間障子、雪見障子ともいう)もあるためにこの張り替えは大変な作業。それはすべて妻の手でおこなわれます。今回の張り替えは居間のほかに少々のところだけ。ほかもやるとなると大小あわせて都合80枚ほどの障子戸になるので、とりかかりには相当な覚悟が必要のようです。

我が家は昔風の造りなので、居間と客間の障子戸をはずして人集まりができるようにしてあり、そこは70人ほどの小演説会をひらいたほどに間取りが必要以上に広いときます。ために、冬など、障子戸特有の隙間風もスースー入り込み、暖房に要する燃料も気密がよく整った家に比べ倍近くになります。

もっと先のことを思案して建てればよかったと今頃思っても、およそ半世紀近く前の村ではそういう住宅造りが普通でしたので「あとのまつり」というわけです。雪下ろしを要する屋根構造にそれほどの気を留めなかったこと、障子張り替えの難儀、部屋の隙間の多さ、突出したノンバリアフリー構造も含め、やがてくる我が家の「高齢化時代」を予見できなかったのですね。当事はみんな元気で、若かったですから。世の中全体も、我が家も。

さて、我が家の今は3人の子たち夫婦も含めたばこを吸う人はゼロ。喫煙のお客さんも室内ではご遠慮していただくので以前のようなたばこの煙による障子の汚れはなし。でも、薪ストーブの煙などにより障子の煤け具合はほかの家より進みが早し。なので、煤けて暗くなっていたその居間全体が、新しい障子に張り替えられたらパァッと明るくなりました。

公私、しごともふくめ人のくらしには時に少々の変化も必要なもの。張り替えられた真っ白な障子は、部屋を明るくしてくれるだけでなく、新たな年にむかおうとする人の心をリフレッシュしてくれます。「新しい」というのは、何かにつけていいものですね。

いったん1㍍以上になった積雪も、後の雨天や暖気でずいぶん深さが減ってきました。屋根など雪の消えやすいところは、雪下ろしをしなかった家もした家もほぼ同じになりつつあり「下ろさないでもよかったなァ」とつい思ってしまいます。でもそれは結果論。冬はとかく運動不足、体を動かした分プラスと思うことにします。年末年始に大きな寒波が来ないことを願うばかりですが、スキー場だけには雪が欲しいし、今しばらく例年と同じように心境複雑な日々が続くでしょう。

心ぬぐだまるさざんかの花

外の視界はみんなモノトーンとなった雪国。そんな季節にありがたいのは鉢植えの「さざんか」です。

さざんかは、雪国でも屋内で冬をこせる場所に置けばしばらくの間花を楽しむことができます。我が家でも、秋に外から風除室に移されたさざんかがずうっと花を咲かせ続けています。

玄関に咲くさざんかは、寒気に凍える体と心をほっこりと温め(ぬぐだめ)てくれる「心ぬくめの花」といえます。寒さのなかでこそ花開くさざんか。緑と花景色からはしばらく遠ざかる冬の雪国人にとって、なんともありがたい花です。

またうれしい陽射し

きのうはひさしぶりの晴天。「今度はいつになるのかな」と思っていた陽射しを案外早く浴びることができて快適な一日となりました。

そのお日様は冬至にむかって南へ大きく片寄り、我が家周辺は午後3時頃になると向かいの大きな山に早々と陽が隠されてしまいます。まわりはまだ明るいのでお日様が「沈む」ではなく「隠される」です。

貴重なその陽射しのあるうちに自宅前河川敷で緑濃いクレソンを摘み、わざとカンジキを着けずに膝近くまでの深さの雪を踏み抜きながら「運動」のための散策をしました。先日も、いったんは1㍍を越えた積雪が半分ほどになったやはり同じ場所を散策。雪の中からユギノシタキノゴ(エノキタケ)を掘り出し、久しぶりにキノコ味のおつゆをいただきました。

河川敷の雪原にあるウルシの木には房実がゆっさりと着いています。これはいつの年も冬のヤマドリの大切な食べ物。今年はヤマドリの大好物となるヤマブドウの実が不作。あてがはずれたであろうヤマドリは、ウメボドゲ(ツルウメモドキ)とともにこのウルシの実をこれからの季節の大切な食とします。

昔の狩人たちは「ヤマドリぶぢでば、ウルシの木さ、えげ(ヤマドリを撃ちたければ、ウルシの木に、行け)」と言ったもの。私の世代で狩人の経験のある者は、ウルシの木と実を見ると、夏場にうるし液を掻き取っていた漆掻き職人(近くに川連漆器の町あり)の姿を想うし、冬に房実を食べているヤマドリを撃ち落とした瞬間をも思い出すのです。みんなはるかに遠い日の、いかにも山の村らしい暮らしをしていた頃のほんのりした思い出です。

各地で12月議会がありまた師走ということもあって、ほかの月にくらべて12月は公的行事は比較的少なめです。こちらは23日の広域議会定例会で今年の主な公務は終わり。きのうはその議会に提出される議案の説明を、広域職員のみなさんから役場でうけました。

通年議会を閉じる

12月定例会議は13日で追加提案をふくむ全議案を可決し終了。春に村議会が改選された年でしたので、5月からの会期で進められた通年議会。「散会」ではなく久しぶりで「閉会」の言葉を告げることになりました。来期の議会は新年1月6日に招集される予定です。

前任期中の1月から4月、そして改選後の5月から12月と、この時期は1年間の活動を通して「自己点検・啓発」で議会活動全体をふり返るのによい機会です。

その振り返りでとらえられた議会活動における教訓は、次年度からの活動、改革にすばやく活かさねばと考えております。何よりも、行政の監視役、提言・提案役、そして要となる議決機関として、二元代表の一翼を担う役割をしっかりと果たすためにです。

▼議会閉会後の13日午後は、ジュネス栗駒スキー場の安全祈願祭へ。6日までに1㍍を越える積雪となったゲレンデも、後の雨天続きで雪が消え進みました。ゲレンデ整備の「圧雪車を動かされない状態」にまで積雪層が薄くなっているようです。「子どもたちの冬休みまでに、あるいは年末までに営業ができますように」という願いがお天道様に届いてくれればよいのですが。

▼14日は、東北中央自動車道「真室川雄勝道路」の起工式で副村長とともに湯沢市院内地区の県境へ。御法川国土交通副大臣や秋田、山形両県副知事、両県議会代表、両県関係市町村長と市町村議会議長などの出席で式典が挙行されました。

式典では、院内番楽や湯沢高校書道部のみなさんのアトラクションも披露され、起工行事に華を添えました。