首都圏なるせ会の創立30周年に寄せて

今年は、令和元年、村創立130周年、県と全国町村議会議長会創立70周年など、いろんな意味で節目の年でした。

村を出て関東圏域に暮らす人々によってつくられた「首都圏なるせ会」も創立30周年を刻んだ節目の年でした。その際に刷られた記念会報に私も一言「お祝いの言葉」を寄せました。以下はその全文です。

過ぎた30年は、首都圏なるせ会に集うみなさんと同じように、私にとっても深く印象にきざまれることの多い年月でした。そういうこともあって、自分史の一端をふりかえる意味も込めて今日はその「お祝いの言葉」を載せておきます。
創立30周年に寄せて
会がつくられて30周年をむかえられたこと、心からのお祝いを申し上げます。

皆様の多くは、中学あるいは高校卒業すぐになじみの土地を出て見知らぬ環境ではたらき、まったく新たな人と人との関係を職場や地域などでつくりあげ、今の立つ位置を築き上げられた方々です。そのご努力にはほんとうに頭が下がります。なるせ会設立、運営、ご参加へのご尽力、ご協力ともあわせて、長年にわたる皆様のご活躍にまずもって深い敬意をはらわせていただきます。

さて、首都圏など(以下、関東圏以外の方々もふくめて)で暮らしておられる皆様お一人お一人が、ふるさとをはなれた理由にはそれぞれちがいがあると思われます。

戦後の国情は首都圏での多くの働き手をもとめていて、一方の地方には戦中後半から戦後生まれの多くの若者たちがおりました。地方にはその若者たちを引きうける働き場所があのとおり不足していたなか、後継ぎ以外は仕事のある都会に向かわざるをえなかったという大きな時代背景が当時はありました。

ために、学校卒業時(とりわけ中卒時)にはじっくりと職業を選択するなどという余裕もなく「とにかく、まずは東京へ、神奈川へ、千葉へ、愛知へ……、」などと、ふるさとを離れて都会に向かった方々が多かったことを、私は首都圏に暮らす親戚の方々からよくお聞きします。もちろん、積極的に「俺は、私は、東京(首都圏)で、こんなことをしたいから行く」という道を若い頃からよく考え選ばれて向かった方もおられたでしょう。

時々の上京で十文字駅のホームに立つことが私もあります。その時にお盆や正月に迎えの家族も帰省のみなさんも心をウキウキさせて待つ駅に列車が入る下り線ホームと、あっという間の休暇を過ごし、別れの悲しさをいやというほど抱かされたでしょう上り線ホームをながめます。あゝ上野駅の歌ではありませんが、十文字駅は皆様の心のひだに刻まれた「笑顔と涙のシーンが忘れられないホーム」だったということを折にふれて見つめます。

私は、都内ではたらいた体験のある3人の子(今はみな帰県しすぐそばで暮らしています)の親として、また1年間相模原で農家への住み込み研修をした自身の体験もあり、ふるさとをはなれた人々の気持ち、苦労が、わずかながら理解できるつもりでおります。

東成瀬村という狭い範囲で同郷の人々が、そのふるさととは対局の地にある首都圏で同じ時代を長く生きてこられたのですから、心の通い合う多くのものがたりが首都圏なるせ会には積み重ねられているのだと思われます。

首都圏なるせ会は、ふるさとが同じに加えて、そうして体にしみこんだ悲喜こもごもの共通の思いをもつ方々の集いですから絆もよけい強いのでしょう。会のメインは総会と懇親会ですが、「ふるさと料理での集いをよくやれるもの」と来賓などのみなさんからもよく驚かれます。これも創立以来130年間、市町村合併の荒波を冷静な判断でのりこえ、東成瀬村の名をまもり通したからこそできる、住民、行政、議会の自治の力だと思います。あわせてそういうふるさとを応援していただいているなるせ会のみなさんのおかげです。

総会会場の砂町文化センターは首都圏なるせ会の拠り所ともいえます。なるせ会の今後のためにも、自立の村の自治を一定規模を保ちながら発展させ、あるいは首都圏の自治体がもつ多様な時代の要請に応えるためにも、みなさんが暮らしておられる都市とのお互いを尊重し合った交流の縁をもつことが大切と思われます。そういうことで、お膝元でお世話になり続けております江東区の行政のみなさんとはなんらかのつながりをもてればということをここに希望し、貴会の益々のご発展をお祈りして祝辞の結びといたします。

▼以上が会報に寄せたお祝いの言葉です。最後の段落部分でとりあげた「都市とのお互いを尊重し合った交流の縁」のことは、村の自治を発展させるうえでも、国が新たに打ち出した、あるいは掲げるであろう政策との関係でも重視すべきと考え触れたものです。

▼先日は、歴史の道百選・仙北街道のことを記しましたが、村と岩手胆沢地方の縁は街道後の車道交通時代も深いものがあります。その一つの象徴が、昭和10年に竣工した大橋場の田子内橋です。その年に、奥州水沢のやはり3偉人の一人斉藤實元首相が首相退任後に村を訪れ田子内橋を視察されています。その翌年、斉藤氏は陸軍将校らによるクーデター2.26事件で48発の機関銃弾などを撃たれ暗殺されています。日本が大陸の侵略戦争へすすむ直前のことです。

歴史を刻む田子内橋は補修されて現在に至っております。橋は、県内ではめずらしいとされる特徴あるアーチ橋の原型は保たれていて、「日本で最も美しい村」の象徴の一つとなっています。その歴史の橋が、きのう、成瀬川と遠くの大日向山を背景に、ひとときの間新雪と陽射しに映えました。大日向山の写真に収まるブナ林の範囲には、私が知るだけでクマの越冬穴が2つあり、うち1つには今年も確実にクマが入ってお休み中でしょう。橋の近くにある渋柿も今年は例年以上に実数が多く、雪の白、空の青によく映えます。明日からは連続の荒れ空が予報されるようになりました。もしかしたら、これが今年最後の村で拝めた青い空となるのかもしれません。