山のアワビかホタテか

私が好んで食べる夏キノコのひとつに、地元でナラトビと呼ぶオオミヤマトンビマイタケがあります。

同じ頃、半枯れブナの根元や倒れたブナの根株に発生するトビダゲ(トンビマイタケ)は県南地方でよく利用される食茸です。それに比べこちらミズナラ大樹の根元に発生するナラトビは発生箇所がごく限られ、それに、たまに見かけられても姿があんまり巨大、お化けキノコのようでもあってか敬遠され、ごく一部の方にしか利用されていないキノコです。

7月のはじめから顔を出すキノコですが、私が通うのは7月下旬から8月半ばにかけて。写真はもっとも食べ頃の幼菌で、これが生長すると大きさで名が通るトンビマイタケの老菌よりなお大きくなり、80㌢前後から時には1㍍近くにもなります。

食べられるキノコとしては最大級で、トンビマイタケとちがい生長しても軟らかな部位が多く、堅い根元のごく一部をのぞいておいしく食べられるのが特徴です。肉厚なので、軟らかいうちなら炒め物、煮物、一夜漬けなどあらゆる料理にむき、まるでホタテかアワビを食べるような食感を楽しめます。運良く大きな株に当たったら、一本の木で背負いきれないほどに収穫できることもあります。とにもかくにもスケールの大きなキノコです。

▼田んぼまわりの土手にはヤマユリやカンゾウの花が真っ盛り。真夏日が続くなかでも季節はまもなく立秋、我が家のミンジャ(台所)裏手の土手にはオミナエシも花を見せはじめました。

新じゃが芋の季節

新じゃが芋が食べられるようになってしばらくたちました。

子供の頃の暑い夏の思い出には、農家出身のみなさんなら「じゃが芋掘り」もきっとあるでしょう。

じゃが芋栽培にはそれぞれの家によって品種選びに特徴があり、それは大きく二つに分かれるようです。一つは芋が丸い形の男爵系、もう一つは細長い形のメークイン系。

我が家は昔からメークイン派。今年はそれに赤く長い芋(メークインの仲間のさつまい芋のような芋)も加わりました。今年の芋の出来はまずまずのようです。種を蒔き手入れをし、味噌汁をはじめ毎日の食卓に必ずつかう妻は、まずまずの作況にうれしそうです。

遠くアンデス、ペルーの高原からヨーロッパを通じて江戸の時代に伝来したといわれるじゃが芋。これがもっと早くに伝わり栽培が国内にもっと広く普及していたら、藩政時代のあの飢饉による被害などもより軽減できたかもしれません。

このじゃが芋、秋田や村ではいつ頃から栽培がはじまったのでしょうか。とても貧しかった子供時代の我が家、じゃが芋で空いたおなかを補った思い出や、母の実家で火棚と※弁慶のある囲炉裏のアグ(灰)を掘って焼いた時のじゃが芋の思い出もあり、お米と同じようにじゃが芋にはほかの作物とはまた別の深い愛着が湧きます。

ヨーロッパやロシアなどでは麦とともにじゃが芋を主食としている国もあるようです。芋は、麦、とうもろこし、大豆と同じで、人間にとってなんともありがたい必須の作物なのですね。

※弁慶(カジカやウグイ、イワナなど串焼きの魚を突き刺し燻しておいた藁の道具)串を刺した形が、立ち往生の弁慶の姿に似ていることから名付けられたらしい)

ガキ仲間たちとの昔を想うバライチゴ

家周りのバラエヂゴ(ナワシロイチゴ)が熟れどき盛りとなっています。

子供の頃の私の夏休みといえば、宿題や勉強とは縁がなし。めざしたのはこのイチゴの実と家周りの成瀬川や合居川などでの魚獲り、カジカ突きでした。

イチゴの多かった堤防の蛇籠(じゃかご)にはアシナガバチの巣も多く、イチゴ摘みは巣をまもろうとする蜂の群れとの「たたかい」でもありました。このイチゴを見ると、蜂に顔を刺された翌日、目を閉じられるほどに顔を大きく腫らし、互いのゆがんだ顔かたちを笑い合った日々を思い出します。真紅のバラエヂゴの実は、当時のガキ仲間たちにとって桑の実に続く真夏の自然からいただく最高のおやつだったのです。

▼26日頃から水稲の穂が出始めました。高温が続いたためか例年よりいくぶん早い出穂の始まりです。

茎のなかで穂の源がつくられるとき低温に遭うと北東北地方特有の冷害となるのですが、今年はその心配はなし。むしろ逆に、高温障害の懸念がされる晴天続きの夏です。

穂が出て、穂に花が咲いて、穂が膨らんで傾いて、穂が黄金色に実るこれからは、これまで以上に田んぼに通うときの心が弾みます。ただしそれは、稲が病害虫に冒されず、風で倒伏もせず、健全な田んぼであればのことですが。

台風18号が宮城に上陸し秋田方向へ進んでいます。1951年に統計をとりはじめて以来宮城に台風が上陸するのははじめてといいます。その台風の中心が県南内陸部あたりを直撃の方向で向かってくる様子です。風よりも雨の心配が大きいといわれる今回の台風ですが、果樹では、モモが収穫期をむかえる頃ですので農家の心配を察します。風、雨ともに被害を起こさず通り過ぎてくれるよう願いたいものです。

ブナの森深山の滝壺は最高の涼み場

23日、夏休みに入った湯沢市に住む童らとともに「涼みに行こう」と合居川渓谷の天正の滝へ向かいました。例年なら成瀬川本流の淵と瀬で水浴を楽しませるのですが、今年の夏の川は洪水でなくとも濁る時が多く、本来の清流のようではないため本流は避けました。

洪水時の川の濁りと違い、少々の雨でも工事のために露出した土肌が雨に打たれると泥水となって流れ、その濁り水が川に注ぐからでしょう。濁りが薄くなっても瀬の石がいつもの成瀬川のようではないと見たからです。支流の流れ込みで濁りが薄められる私の所でもこういう状態ですから、支流が少なくなり濁りの薄められる度合いが低い成瀬川の上流ほど濁りは濃くなると思われます。

さて、滝で涼をとるといっても、ツナギ・トシベ(小型の人刺しアブ)の発生時期にはあの場所に童たちを連れては行かれません。この日はぎりぎりセーフでアブの襲撃を受けることがなく清流で存分に涼むことができました。昨日あたりからそのツナギが発生し始めていますから、これからは滝での童たちの涼みはむりでしょう。

ここでは、滝壺で泳ぐもよし、瀑布のしぶきを浴びるもよし、泳ぐ前の釣りや好きならイワナ突きなども楽しめます。むかしの子供たちは、この滝壺でヤスを手にカジカやイワナ突きもよくやったもの。確かめはしませんが、今も生き残りのカジカがいるでしょう。この滝は、矢口高雄さんの漫画・釣りキチ三平が映画化されるときにロケが行われたところ。滝壺にはここの主のようなイワナがいっぱいいるはずです。

滝壺の脇に打ち上げられた流木にはキノコのワゲ(ウスヒラタケ)が発生していて、童は思わぬキノコ取りも体験できました。清流の脇に育つ山菜のミズ(ウワバミソウ)取りもこの季節ならではの楽しみです。

▼きのうは2回目の新型コロナワクチン接種を終えました。2回目の接種後に発熱やだるさなどの副作用が強く出て勤務を休んだ方がいたことを集落でも幾例か聞きます。我が家では今のところ注射した腕が痛むぐらいで体調に大きな変化はありません。

高速道路建設促進のフォーラム

21日は、県と高速道路関係期成同盟会共催の「高速道路ネットワークを利用した地域づくりフォーラムinあきた」が秋田市内のホテルで開かれ、県町村議会議長会から副会長(井川町議会議長)と私が出席。

フォーラムは別掲のような次第で進められ、来賓からは衆院議員の御法川信英氏と富樫博之氏などの挨拶がありました。

町村議会議長会の役員改選後、いつもならすぐに関係機関などへ就任のごあいさつにまわっていたのですが、5月以降、県内でもあのとおり、このとおりのコロナ禍がつづいているため「挨拶まわりは当分の間ひかえなければ」という判断でこの日に至っておりました。

幸い、この日は、新任の神部副知事さんや県市議会議長会の会長さんや副会長さんと会場でいっしょになりましたので、初めてごあいさつをいたしました。県の市議会議長会と町村議会議長会は、毎年共催で県知事との行政懇談会を行っている間柄でもあります。

▼フォーラムが始まるまで時間があったので、会場ホテルそばの「なかいち」を少し見てまわりました。そこでは物産展が催されていたようで、村の産物も販売されていました。

▼真夏日、猛暑日の続くなか、真っ赤な太陽に劣らぬ鮮やかな紅色のタマゴモダシ(タマゴタケ)がやっと顔を見せ始めました。

どうしたわけか今年はいつもの年よりかなり遅れての顔出しです。夏キノコのはしりはこのタマゴタケで、その顔を見られるようになってからもう少し経てば立秋(8月7日)です。

立秋になったら、今度はブナ帯を代表するトビダゲ(トンビマイタケ)がいっせいにクリーム色や真っ白な幼菌の顔を見せるようになるはずです。ブナ帯のキノコ取りの人々はこのトビダゲを「日照りトビ」と呼びます。トンビマイタケは日照りの環境でよく発生するからのようですが、それにも時期や程度があるのでしょう。

タマゴタケの発生は平年よりずいぶん遅れましたが、今年のトンビマイタケ菌はどんな成長過程をたどっているのでしょうか、注目です。

思い出深きヤビツグラウンドの今

村内全体の4つの小学校と一つの中学校(分校)が一同に会しての五校運動会など、当時を知る村民ならいろんな思い出がつまっているヤビツ(※矢櫃)グラウンド。

地元岩井川でも、小学校と中学分校(昭和48年からは分校ではなく校舎となった)の運動会や集落こぞっての住民運動会で人々の心に深く刻まれているグラウンドです。

グラウンドは廃止されて久しく、その土地は高台にあって位置の上から電波通信の中継地点として最適な箇所とされ、携帯電話やラジオ、防災用無線施設などで次々と鉄塔が建設されました。施設以外の地面には雑草が生い茂り、アカマツなど樹木もみられるようになっています。

1枚目の写真は西側100㍍走のスタート地点。2枚目は東側200㍍走のスタート地点、3枚目は東側ゴール方面、4枚目はグラウンドへの当時の入り口車道側で、手倉・椿川・大柳方面と成瀬川を見下ろした南方です。秋の5校運動会では、それぞれの地区からグラウンドまで遠い距離を歩いて矢櫃まで往き来したのでした。(地区によって、時によって選手などは別だったのかな?)

それぞれの地区の鉢巻きと旗の色は、大柳・桧山は黄色、椿台は白、岩井川は赤、田子内は緑。4色が集う真剣な競い合いはほんとにすごいものでした。運動が得意な方もそうでない方も、あの赤土のグラウンド、そして乾いたのどをうるおした林の中の水場や、時にはオオヘゲ(大堰・現在の遠藤堰)の水を汲み飲んだ、昭和の時代がなつかしいですね。みなさんには、ここのグラウンドでのどんな思い出が濃くのこっていますか。

※矢櫃(旧石器時代後期のグレーバー・彫刻刃類の出土がある。新石器時代の遺跡もあり、後三年合戦の際の義家・清衡連合軍と家衡軍の弓矢戦で矢を入れる容器・櫃にともなう伝説の地でもある。)

▼真夏、ユリ科の仲間たちが花の世界を豊かにしてくれます。早春に甘くおいしい山菜としていただいたカンゾウも、ヤマユリとともに猛暑日のなかで次々と花を開き始めています。

村の花ヤマユリ盛り

真夏の象徴ヤマユリが村でも花盛りとなりました。

我が家台所そばの土手でもヤマユリやキキョウが花盛りとなり、花をながめながら食事ができる夏の日々がつづきます。まもなくそれらの花見にはオミナエシも加わります。

「村の花」としてかかげられるヤマユリは、ある一時、ネズミの食害などをふくめ植生が激減したこともありました。

しかし、その後理由はわかりませんがいずこでも植生株の増加がみられ、現在ではまさに村の花にふさわしいほどの花姿があちこちで目に入ります。

ただし、そういう状態がいつまで続くかとなると不安な要素がいろいろあります。なかでも心配されるのはイノシシの食害。彼らのあのなみはずれて鋭敏な嗅覚と土を掘り起こす鼻と牙の威力は、栄養価が高くおいしいヤマユリの球根を見逃さないでしょう。おとといも記しましたが、クマに加えてイノシシ、ニホンジカ、予想をこえる、あるいは予想だにしなかった獣たちの襲来と(跋扈)は、農作物だけでなく大事な野の花にも影響が及びそうです。

▼この季節、虫たちの世界で圧倒的な生息数を見せるのはボンアゲズ(盆秋津・アカネトンボ)。体がほどほどの大きさで、とびぬけて数の多いトンボですから、動物たちの食物連鎖の環のなかでは、ほかの昆虫や鳥たちに食べられたり、ほかの虫たちを捕食するうえでこのボンアゲズはとても大きな存在と思われます。農作物の害虫退治でも大切な役割を果たしているかもしれません。

我が家まわりに棲むクモもトンボは願ってもないごちそう。巣にはたちまちのうちに数匹が絡め取られ、主の大きなクモが長い時間をかけ餌食を一匹ずつゆっくりと糧にしています。

稲を踏み倒すイノシシ

真夏日、猛暑日の毎日ですが、「夏に暑いのはあたりまえ。暑いなかでの仕事もあたりまえ」と3回目の畦草刈りを終えました。外で仕事をしている人々はみんな猛暑のなか頑張っています。もちろん、昔とちがって今は熱中症予防には注意しながらです。

林業で木材搬出や伐採の仕事をしてきた私は、農業だけでなく暑いなかでの山仕事の体験を数多くもっています。夏の暑さでいちばんきつかったのは、倒した杉の枝をはらい落とし、横倒しになった一本の木そのままの皮を剥ぐ作業でした。

切り倒した杉の幹は、皮が着いたままだと虫に取り付かれ材に虫食いがおき価値が下がります。皮むき(皮剥ぎ)はその虫食いを防ぐための作業です。作業は、伐倒直後でまだ材として丸太に切断される前、山に横たわる一本一本の長い木の枝をまずマサカリではらい落とし、その後に専用の皮むき(剥ぎ)道具で根元から梢にかけ次々と皮を剥いでゆくのです。写真は、我が家に残されている皮むきに使った道具です。

暑さのなかでの仕事は、ほかにもたくさんあるでしょう。山仕事でほかに暑さできついのは日影のない場所での伐倒作業、日影のない場所での植林のための地ごしらえや植林、それになんといってもきついのは植林してまもない樹齢が若くて日影のない山での刈り払い作業でしょう。そこは暑さに加えて人刺しアブの大群も襲撃し、時には蜂の攻撃もあるでしょうから、これも夏にはもっともきつい労働に数えられました。

道路工事現場などの車両誘導のガードマンさん、トタン屋根の上で仕事をされる方も暑さのなかでは大変な仕事と思います。猛暑のなかで、ほかにも様々な職種の方々がこうして日々励んでいます。暑くても、寒くても仕事は続けなければならないからです。そういう多くの方々の努力で社会が成り立っていることに、時には思いを寄せたいものです。

▼ところで、暑さのなかでの草刈り作業にはまいりましたが、それ以上にまいったのはイノシシの田んぼへの侵入です。

畦草刈りをしていたら、水を絶った田んぼの土を掘り返し、稲の根元を食いちぎった跡があります。よく見たら、土には蹄の跡があり、水がない田んぼの中を稲株を倒しながら自由に歩き回った跡もあります。カモシカはこんなことはしませんし、出没が見え始めたシカも土を堀るこんな行為はしないはずです。畦に重ねてある稲ワラも掘り返した跡があります。ミミズを捕食するためでしょう。とすれば、これはまちがいなくイノシシの仕業。

このイノシシはスキー場下部の林野に棲んでいるのでしょう。これからはジャガイモの収穫期、そして実りの秋となります。稲だけでなく、根菜類をはじめほかの農作物への被害が懸念されます。昨年までは、棲息が増え稲の籾を食べるクマまで出没しましたが、今度は田んぼがイノシシに荒らされる。シカが増えればそれも稲や農作物に向かうでしょう。時は2021年の夏、縄文や古代のような獣たちが生きる秋田になってしまいました。

ごみ処理場解体工事契約で広域臨時議会

今日は広域市町村圏組合議会の臨時議会が開かれます。案件は、羽後町貝沢にある広域組合の旧ごみ処理施設の解体工事の契約案件と、村分署へ配備される災害対応特殊消防ポンプ車(契約額4, 470万円)の契約案の2件です。

解体工事の契約金額は4億4,660万円で、契約の相手方は小野・大矢・柴田貝沢ごみ処理施設解体工事特定建設共同企業体です。代表者は羽後町新町の株式会社小野建設代表取締役です。

この工事については、湯沢雄勝の地元企業から入札への参加が各方面へ強くはたらきかけられていたもので、入札はそのはたらきかけに沿うものとなっています。

▼3回目の畦草刈りをきのうから始めました。

月の初めから田んぼの水を絶ち落水しているのですが、連日の雨でほ場の土は水を入れているのとそんなに変わらない状態でした。ここにきてようやく梅雨前線が消え、予報のお日様マークがずっと先まで並ぶようになったので、ぬるぬるの土も今度は乾いてくれるでしょう。

田んぼ土手のヤマユリはつぼみがどんどんふくらみ、開花はもうすぐ。同じ土手に咲くオカトラノオの群生もなかなかの見映えです。

宝モノ?の古書を入手

民俗を学ぶ者やそれに興味をもつ者にとって、遠く江戸時代に菅江真澄が著した「真澄遊覧記」はあらゆる意味で貴重な文献とされているようだ。

わが村の「郷土誌」が編纂される時もこの遊覧記の訳著書、「菅江真澄遊覧記」(平凡社・東洋文庫刊)は欠かせぬ参考文献のひとつとして引用もされている。菅江真澄が村を訪れ遊覧記に村の様子をとりあげているからだ。

遊覧記は単なる旅日記ではなく、訪れた土地の自然と人々の営みの背景を文と絵でとても細やかに記していて、天明(1780年代)から文政(1820年代後半)までの今から230年ほど前の人々の暮らしの様子が手にとるように偲べる。とりわけ生涯を閉じた第二の故郷ともいえる秋田については、藩主との結びつきが濃いためもあって、各郡を詳細に記した地誌としての内容をもつ書物ともなっている。それら花の出羽路、月の出羽路、雪の出羽路などは今でも遊覧記に関連する著書が県内でも度々刊行されている。

平凡社・東洋文庫刊の「菅江真澄遊覧記」は、我が国の秀でた民俗学者、内田武志氏(1909-1980、秋田県生まれ)と宮本常一氏(1907-1981、山口県生まれ)の共訳著として昭和40年(1965年)に全5巻として発行されている。

実は、数年前からほしいほしいと思っていたその書籍全5巻を、このほど思わぬ偶然で入手する機会に恵まれたのである。

古書が並んでいたのは都内八重洲のブックセンター。新幹線の待ち時間にここにはよく立ち寄る。たまたまその日は、センター地下の一画で神田神保町のある古書店が催している出前の古書市が開かれていたのだ。

「古書の老舗が多く並ぶ神保町まで行かなくても、もしかしたら、菅江真澄遊覧記があるかも?」と階段を下りいっぱいの古書をながめはじめてすぐ、なんと見上げる所の棚にその遊覧記5巻がきれいに並んでいるではないか。それは今から56年前、昭和40年発行の初版本で、当時の定価は1巻450円、5巻セットだと2,250円。当時、わが村の山仕事賃金が一日およそ750円の時代に、3日分の賃金に相当する値の本だったわけである。

東洋文庫と名は文庫だが、本の大きさは今の新書版ほどで函入り、しかも表紙の装丁もわが村の郷土誌なみで立派なもの。それが発行から56年経った2021年7月、古書として並んだ時の値は1,500円。それを見てマルを一つ読み間違いしたのではと思ったが、間違いなく値は1,500円。こちらにとってはなかなか手に入れる機会がなく宝のような本だが、古書商いの世界ではそんなに数の少ない書籍ではないのかもしれない。

でも、こちらにしてみれば、格安の1,500円で宝モノのようなこんなに貴重な書籍を偶然と幸運が重なって入手でき、「えがった、えがった!」と一人で喜んだところである。

いま56年前に世に出たその訳書遊覧記を日々読みつつ、併せて自宅の書棚から、数年前に求め読んでいた赤坂憲雄氏が著した「東北学/忘れられた東北」(2009年講談社発行の文庫。原本は1996年に作品社より刊行)を再び取り出した。そこで赤坂氏が柳田国男や菅江真澄に触れた部分も読みながら、菅江真澄の遺してくれたものへの感謝と偉大さとともに、それを我々もわかりやすく読めるよう現代文に訳し、全5巻の著書に結びつないだ編訳者の内田氏と宮本氏のお仕事の大きさにも深い敬意を抱いたところである。