いっきに積雪2㍍越え

金曜日からきのう日曜日にかけて村の積雪はいっきに増しました。

先日までは、ごく普通の雪の村で「今年は、楽だァ」などと記しましたが、この3日間のまとめ降りで我が家は5回目の雪下ろしとなり「楽だァ冬」の言葉はもうつかえなくなりました。一部では下ろした雪が高くなり、2階から出入りできるほどに。

わが家周りでは積雪深が2㍍を越え、村内各集落もすべて今冬の最深積雪となったはず。5回目の雪下ろしが強いられるようになると、軒の低い落雪構造の農機具格納庫や農作業小屋などは屋根からの雪がつかえるようになります。

そうなると、雪下ろしとともに「軒の雪掘り、排雪」作業が加わります。雪は「下ろす」よりも「掘る」作業が難儀。この先一週間は雪予報の連続なので、言葉通りの豪雪の村となりそうです。

この雪降り状態が続けば、豪雪対策本部設置(役場前で2㍍)も頭に入れなければならなくなるでしょう。本部が設置されるかどうかは別にして、これだけの積雪になれば雪とむきあう作業すべてをはじめ、いつものように、見通しの悪くなった交差点などの安全確認、歩道の安全確保、落雪、雪崩などに万全の備え、注意、警戒を強めることが必要です。

1月末、積雪はごく普通の村

1月も早終わろうとしています。

昨日は、寒さはそれほどでなかったものの降り止まぬ雪で積雪はいっきに増しました。おそらく我が家前では今朝で今冬でいちばんの積雪深となったでしょう。

村の雪害警戒部は早々と設置されましたが、その後はごく普通、というより平年よりやや少なめの降積雪で推移し、1月に入っても豪雪対策本部を設置することなく過ぎてきました。所用で村内の家々をまわれば「こどしなば、楽だァ!(今年は、楽です)」の声がきのうまではまだ聞かれました。

季節はまもなく節分、そして立春。積雪はこれからも少しずつ増すでしょうが、「2月に入れば、雪はたいしたことない」が、体験をもとに季節をとらえる村人の感覚です。その体験どおり、このまま、たいしたことなく春になってくれればよいのですが、明日にかけての雪雲襲来で積雪はさらに増すようですから果たしてどうなるか。

写真は、今冬最高積雪深といっても「去年に比べれば今年は楽だァ」村の様子です。集落は入道地区、お寺は了翁禅師が若い頃に得度した岩井川の龍泉寺、そして同じ集落の山神社です。

「恩師を囲む会」開催も新型コロナで断念

「第6波」といえる新型コロナの感染再拡大が急速に進んでいます。

このため、来月7日から9日までの日程で予定されていた北海道・東北町村議会議長会、全国町村議会議長会、豪雪地帯町村議会議長会など、一連の会議や総会が集会としては中止で、書面表決として行われることになりました。首都圏や大都市部をはじめとして全国に市中感染が拡大しているオミクロン株を主とする感染症防止のための措置です。

ところで、感染再拡大のもと、わが母校、増田高校定時制課程東成瀬分校の同窓生たちが令和元年から計画していた「恩師を囲む会」も、やむなく開催断念を月初め(7日)の実行委員会で決めました。

「恩師を囲む会」は、令和元年11月に初の会合をもち、「お世話になった先生方へ卒業生一同で感謝の気持ちをあらわしたい」ということで令和2年8月の開催として計画されました。ところが、新型コロナでこの年の開催を中止、会場を予約していたホテルブランもキャンセル、次年度へ延期しました。しかし、昨年もコロナ第5波で感染の勢いはおとろえずまたまた中止・再延期としていました。

この間、連絡可能な先生方すべてへ開催予告のご連絡を差し上げ、先生方からも「集いを心待ちにしている」旨のお便りなどもいただきました。実行委員一同(12名)も呼びかけ人代表4人も何度もの集まりをもちながら準備をすすめ、150人をこえる方々の参加を見込んでホテルも予約「あとは開催通知を出すだけ」というところまできていてのこの結果です。

それだけに、開催断念を決めざるを得なかったことはほんとうに残念無念で、ご期待をもたせた先生方にも、卒業生のみなさんにも申し訳ない気持ちでいっぱいです。しかし、この集いは「三密」のなかでの開催だからこそ意義があるもの。

「囲む会」へおこしいただく先生方はもちろんほとんどがご高齢。そしてむかえる我々もすでに還暦を過ぎたり70歳以上が多数という年齢構成の集いで、大人数で寄り添い親交を深め、むかしを偲びながら語り合いを楽しむのが集いの目的です。ですから、「三密を避ける」となれば「囲む会」の意義が大きく損なわれてしまうのは必定。そのため、みなさんの健康保持を考えればこれはとても開催できるものではないと判断したのでした。

分校は1984年(昭和59年)3月に閉校となっていますが、村、地域づくりをはじめとしてこの学校の果たした大きな役割が、最後の実行委員会でもみなさんから口々に語られました。そのため、「囲む会」は開催できなくなったものの、先生方へは「学び教えていただいたことへの感謝」の心を込めた言葉を記し、実行委員全員が名前を自著してのお便りを去る20日付けでお届けしたところです。

ここ2~3日の間に、その言葉を受け取られた先生方から「楽しみにしていたのに残念」という旨のご一報が再びいくつか寄せられております。ほんとうに無念ですがこればっかりはどうしようもありません。今は、先生方も、同窓生のみなさんも、コロナ禍に耐えられて健康で過ごされますことを何よりも願っているところです。

多くのみなさんもそうでしょうが、こちらは古稀を祝う小・中学校同級会も中止でした。新型コロナに翻弄される日々、というよりも年月が、こんなに長く続くのはほんとに予想外です。

▼東成瀬分校が閉校となった昭和59年3月に、閉校行事実行委員会が記念誌を編集しました。記念誌には先生方や同窓生の「回想記」がたくさん載せられており、こちらも第19期生として写真のような拙文を寄せておりました。およそ38年前の若い時のことでもあり、今読み返してみると表現上「ちょっとなァ?」と感ずる言葉づかいもありますが、分校の果たした役割の一端は推測していただけるのではないかと思います。

町村議会議長会の正副会長会議

2月10日の町村議会議長会理事会を前にして、きのう正副会長会議を開きました。

今年度は、全県議員研修会をはじめ予定した行事の多くが新型コロナ禍で中止や規模縮小での開催となり、予算案の減額補正も必要となっています。

来年度に向けた事業計画と予算案については、コロナ禍が一定の落ち着きをみせるという予測のもと、コロナウィルスが存在するもとでも通常の活動をとりもどせるという前提で計画も予算案もたてられました。

今後また、新たな変異株の出現などがあるかもしれません。が、これからは、ウィズコロナの時代というとらえかたで新たな活動スタイルをつくりあげることが求められているということでしょう。

今冬は、秋田市など県中央部、北部の市町村で「平年の2倍から3倍の積雪」と報道されていましたが、久しぶりに秋田市内を通って「なるほど、今年の市内は雪が多い」と思いました。小路や駐車場などは除排雪がされないまま踏み固められた場所が随所にみられます。「除雪費を何度も追加補正、住民から要望殺到」という状況が、この道路の様子をみればよくわかります。

会議の前後、村の積雪の様子を「我が家前で積雪150㌢をこえるが、いつもの年よりあまりに楽」とお知らせしたら「ほーッ」とやや驚きの声が返ってきました。同じ県内でも雪下ろしなどほとんど必要のない積雪50㌢前後でいろんな支障の出るところと村では、覚悟の尺度があまりにもちがうのです。

時ならぬ「大雪」に見舞われた中央部のある女性の方がテレビの取材にたいして「横手のほうの方々の苦労が、これでよくわかりました。」と語っていました。その横手よりもはるかに豪雪のわが村、わが集落は「150㌢~2㍍の積雪ならごく当たり前の冬」「役場前で2㍍、わが集落で3㍍になれば、これは大変」ということなのです。

▼今朝はヒロッコの初モノをごちそうになりました。ヒロッコといっても野生のそれではなく湯沢市の須川や三関地区などで特産物として永く栽培されている太いヒロッコです。

今日は父の月命日。供物のお膳にはヒロッコのヌタが初モノとしてあげられました。

愛しく美しい森の生きものたち

一週間前には雪が深くて上がれなかった自宅北側のブナの森へ、23日の日曜日に今年初めて上がりました。

この日は予想に反しておだやかな一日となり、サングラスがほしいほどの陽射しも時折ありました。

そんな好天に誘われ、「よし、生活用水の取水源を見回りながらの山歩きだ!」と告げ、念のため昼食を持参。カンジキを履いて八卦沢への歩きを開始したのは8時。

積雪2㍍近い山中は足が雪に20㌢ほど沈むだけで比較的歩きやすく、どんどん高度を上げることができます。雪上にはノウサギ、リス、テン、タヌキ、キツネ、カモシカ、ヤマドリなど生きものたちの足跡がいっぱいついています。

村の里山にあるミズナラはいずこもナラ枯れ病におかされ、この日上がった山も所々で被害樹が目立ちます。被害樹のなかでも枯れ葉をつけたまま立っているのは昨年病原菌に侵されたばかりの幹です。正常に生きている幹は秋になると枯れ葉が落ちるのですが、病にかかった幹は紅葉することなく夏に葉が枯れてしまい、その葉っぱは秋になっても冬になっても落葉できずにこうして残っているわけです。

植物もふくめあらゆる生態系にとって自然の循環がいかに大事なのかということを、不自然に残っている枯れ葉を見て思わされます。一昨年より前に枯れた幹には、ここでもナメコやムキタケなどキノコの発生した様子が冬にも見られます。もちろん、食べられる状態で自然冷凍していたキノコは、早速お土産としていただきリュックに詰めました。

さて、その後のことです。ミズナラよりもブナが多くなる地点まで上がった時、70~80㍍ほど先のブナ林の中に、黄金色をして雪原をひらひらと動く生きものが林に見え隠れしながら目に入りました。「うんッ、キツネかな、テンかな?」と目を凝らしたらそれは金色に輝き「まばゆい」と言いたいほどに美しいテンです。

まだこちらに気づいていないようで、だんだん私に近づき、眼前にあった尾根雪の陰に姿が一瞬隠れました。こちらは「めったにないシャッターチャンス!」と急いで雪の尾根に駆け上がったら、今度はテンがこちらに気づき全速で走り出しました。その間のわずかにあったチャンスにシャッターを押したのが金色に輝くテンの姿です。成獣のテンで大きいですからオスでしょうか。毛の光沢も申し分のない1等級の美しさをもった個体です。

この日は、テンとの出会いの前にリスともご対面。時々雪を顔や体にまぶしてのすばしこい動きをしばらく眺めながら、少し遠かったのですがそれも写真に収めることができました。シジュウカラの仲間の小鳥が虫を食べようとしてでしょう、忙しそうに枝をつついている様子も飽きることなく眺め続けました。

生きものたちとのうれしい出会いの後、尾根の8分目ほどまで上がれば、毎年一休みするブナの大樹があります。幹がここまで太くなるには樹齢300年近くは要するでしょう、集落や村の様子を江戸の昔から見下ろしてきたここらあたりの里山では屈指の大木です。

一休みしてブナ林をしばらく眺め、いよいよ横手市山内三又と境を接する分水嶺の尾根に到着。この尾根は多くのクマの通り道で、ブナの幹には毎年つけられたクマの爪跡がたくさん重なっています。

ここまで上がれば気温はぐっと下がり、手袋をしていても親指と人差し指が寒さでかじかむほどです。おだやかな日和でしたが遠望は利かず、岩手山などは臨むことができませんでした。

ノウサギとの出会いも期待しての歩きでしたが、意外にもそれは無し。でも、美しさと愛しさいっぱいのテンとリスに出会えて満足。帰路はいつものように直角近い一部の尾根を跳ね下りて岩井沢を辿りました。歩きやすかったので帰宅は11時少し過ぎ。およそ3時間ちょっとのうれしい里山歩きでした。

今冬4回目の雪下ろし

週末から休日にかけては、予想通り今冬4回目の雪下ろしに動きました。また、きのう午前は自宅北側の里山へ上がり、横手市山内三又境のブナ林を歩きました。

積雪が2㍍近くなり4回目の雪下ろしをしたにもかかわらず「これは、ごく普通の冬」と我々は思っていますが、同じ県内でも秋田市や北部の市町村では平年の2倍から3倍の積雪となりくらしへの影響が大きいようです。

県内の自治体によっては1㍍以下の積雪でも「豪雪対策本部」を設けたところもあるようですから、わが村とは雪とむきあう「基準」がはるかにちがうことに関心を引かれました。

雪国といっても、豪雪対策本部設置が積雪2㍍を基準とするわが村。同じ県内でも一方には50㌢前後の積雪で「悲鳴があがる」と報道されるほどにくらしに大きな差し障りが生ずる地域もあります。

そういう所と村を比べてみれば、わが村は雪とのむきあいではケタがひとつちがう環境下にあり、冬のくらしでは一定の覚悟をもたねばならぬところです。しかしそれでも、人口減少率や高齢化率などをふくめなんとか県全体の「均し」近くのところで村はふんばれています。

県内一雪深い村ではあるものの、ほかの町や村とまずまずならんで今の立ち位置を保てているのは、自立の村づくりのなかで、村民、議会、執行当局など村全体が、暮らしやすい土台づくりにともに力をたずさえ励んできたからでしょう。

村の雪対策は、産業振興から生活環境整備などあらゆる面で今後もひきつづき大きな課題です。集落の維持や一定の人口を保つ計画、村の環境を活かした再生可能エネルギーへの探究、村の条件に適合したいっそうの農業、商工業、観光振興策なども今後の村発展のカナメとなります。そんなことを屋根上で思いながらの4回目の雪下ろしでした。

ブナ林の雪上歩きでは、森の生きものたちとのうれしい出会いも久しぶりにありました。それは明日に載せます。

2羽のクマタカを目に

おだやかな天気だった19日午前のこと。

朝に役場でいつもの用務を済ませての帰り、地元集落まできて、先日雪上歩きをしたムゲ山(向かいの山)に目をやったら、一羽の大きな鳥が水平に飛んで杉の梢に留まりました。

見てすぐに「あれはタカ、クマタカかな?」と道路からカメラを向けました。双眼鏡もなく遠いので姿はよくわかりませんがまちがいなくタカで、大きさと羽の色や姿全体をみればやはりクマタカのようです。

なかなか同じところに長くとどまらずすぐに飛び立ち、東にむかっては梢に留まり、また西に向かっては梢に留まりを繰り返していますが、そのうちにタカが1羽ではなく2羽であることに気づきました。

しばらくしたら、その2羽が同じ杉の木に一時並んで羽を休めました。2羽はつがいなのでしょうか。お天気が良く見通しがよく利く日なので、雪原がひろがる成瀬川筋の河川敷やシロデ(雪崩斜面)そばの立木に留まり、ノウサギやカケス、ヤマドリなどを捕らえようと待っているようにも見えます。

数年前の雪解けの春、ここのシロデで山菜採りをしていたら、2匹のノウサギが何ものかに襲われ食べられた跡の骨や皮がありました。このシロデ付近は、きっと、冬の季節のタカにとって獲物を捕らえやすい絶好の狩り場なのでしょう。

いったいどこに巣をもっているタカの一家なのかと興味が湧きましたが、いつまでもウォッチングをしていることはできずその場を離れました。この2羽は、おそらく10数年前から時々目にしているクマタカの一族で、集落からそれほど遠くないところに巣があるのでしょう。なので今後もかれらとの偶然の出会いがまたあると思います。

写真はブレたりボヤけたりしていますが、鳥の世界の頂点に立つクマタカらしい姿がなんとか確認できます。

新春懇談会

村商工会と成瀬ダム振興事業共同組合の合同新春懇談会がきのう2年ぶりに開かれました。懇談会後段には、ブラボー中谷さんによる初笑いもふくめた楽しいマジックショーで会場は笑いにつつまれ拍手かっさいとなりました。

今回も、新型コロナの第6波が猛拡大するなかでの開催となり、参加が予定されていた来賓の方々の中には感染防止を考え急きょ出席を取りやめた方もおられたようです。

議会も4人がご案内をいただいておりましたが、第2部の会食をともなう懇親会には、はじめから欠席をご連絡しておりました。

ごあいさつでは、昨年湯沢市でおこなわれたあるフォーラムに参加したとき、パネリストをつとめられた女性経営者の方のご発言に注目、感心したことをとりあげました。その発言とは、経営者の方々ならよくご承知の「三方よし」についてです。

金言や格言としてはよくお聞きする言葉ですが、すぐ身近におられる女性経営者が、「三方よし」の姿勢で経営に当たりたいという旨を述べられたとき、私は「たいしたものだな」と思いました。

売り手よし、買い手よし、そして世間よしの「三方よし」どんな格言・金言でも、読むのも思うのも言うのも簡単ですが、口に出すだけでなく実行するというのはむずかしいこと。

ところが、その女性経営者の方は、大勢の人々の前でそれほど気負いもみせず坦々と「三方よし」をご発言し、そういう理念で「経営にあたっていきたい」と実行もしているのです。

いま世界の国々、とりわけ資本主義がより高度に発達した国々で、「格差問題」が顕著になっています。資本主義の発展にとってこの異常すぎる格差を是正することが大きな課題とされ、それはあらゆる側面で「資本主義のルールをまもった社会の構築を」という声となってそれぞれの国々でこだましているようです。

二宮尊徳(二宮金次郎)は、売る人だけでなく買う人も満足する社会を提唱した方とお聞きしたことがありますが、社会全体の発展も考えた三方よしは、近江商人によって徹底された経営理念といわれます。よく考えてみれば「三方よし」とは資本主義のルールをまもった事業行為、商い行為ともいえます。

どんなしくみの社会であれ、昔の方々は、社会発展の法則がどこにあるのかをしっかりと見据えていたのですね。社会全体の前進にこそ、人間のほんとうの幸せがあるということを。

歴史を振り返り

冬、とくに1月から2月にかけては普通の季節よりも本や書物などに目を通すことが多くなる。こちらの場合、雪寄せ以外は農作業などもなく屋内で過ごすことが多くなるからだ。

それらのなかで、いま繰り返し手にして読んでいるのは、昭和47年から議会独自の広報として発行してきた議会だよりを平成26年に「縮刷版」として発行した大冊と、それよりはるか以前の、明治から昭和、大戦前後などからの議会の議事録である。

写真は、昔の議会の様子をつたえる議事録の一部だが、戦後、議会が公選制となった時の昭和22年5月の村議会の初会の様子(議長や副議長選挙)が記されたものである。

また、昭和の「町村合併」の際に、村や村議会、隣の西成瀬地区の意向などが記された会議録も当然ながら写真のように遺されている。昭和の合併については、村の郷土誌にもやや詳しく記されているが、この会議録を読めば、当時の様子が臨場感をもって読む者に伝わってくる。

議会の縮刷版からも、戦後の公選制となった議会、そしてさらに遡って戦中、戦前、大正、明治の会議録からも、ただ単に議会の活動の記録というものを越えて、そこからはその時代に生きた議会人、村長をはじめとする執行当局、役場職員、そしてそれら全体をささえた村の人々の熱い血潮のようなものを深く感ずる。

温故知新とよくいう。古の人々のはたらいた様子をよく学び、そこから教訓をつかむことは今後の村づくりにとって大事なこと。とりわけ村の若い方々、村と関わってお仕事をされている方々には、今の村の立ち位置を知るうえでもぜひこうした近・現代の村の歴史も学んでほしいと思う。

私はまもなく71歳。だからこそ、日々を大切に、およそ27年近く構成員として自分も辿ってきた議会と村政の歴史を「議会だより縮刷版」や「会議録」で振り返り、「初心、忘れるなよ!」とその大冊に刻まれた一字一字から学ぼうとしている。

ところで、村制施行以後の村の様子を伝える議会の「会議録」「議事録」は、村の大切な「遺産」であり、ほかの貴重な古文書、文書類とあわせて大切に保管されている。が、もし万が一火災などがあれば焼却の可能性は大きい。村管理の大切な文書、そしてこうした会議録などもふくめ、文書、記録物保管のための安全な設備が村としても必要であろう。

いま平成版の村郷土誌が編集最中であるが、それらの編集過程でも、様々な「文化遺産」「記録物」保存の重要性があらためて認識されたようだ。ずっと将来にわたって、村の人々が「故きを温ねて新しきを知る」ためにも、文書遺産の完全な保全にも目をむける時なのである。

集落や県境の山々をのぞむ

16日の日曜日、降雪がなかったので、今冬2度目の里山の雪上歩きに向かいました。この日向かったのは、わが家真ん前の南側に位置する通称「ムゲ山・向かい山」です。

日中でも気温がそれほど上がらず、前日までに吹雪いた雪が枝にまとわりついたままで、杉からは雪がほとんど落ちない天候です。なので、杉の樹下を歩いても雪がドドドーッと落ちる先日とはちがい雪への心配はなし。

夜に降雪がなかったので雪上には生きものたちの足跡がいっぱい。ヤマブドウの蔦にわずかに残っている実をめざしてノウサギやテンが立ち寄った跡があります。ノウサギが笹の葉っぱを食べた跡も随所で見られます。ウサギの前葉で噛みきられた笹の茎はまるでナイフで切りとられたかのようです。尾根の樹には大きなサルノコシカケのキノコも悠然と。

雪がまだ少ないのでダシ(雪庇)の発達がそれほど大きくなく今冬の尾根越えは楽です。雪庇の越えどころは私よりも生きものたちがよく知っていて、カモシカ、ノウサギ、テンが越えた所をこちらも同じように辿って上がりました。

尾根の頂点まで登れば、いつものように集落をよく見下ろせる「ムゲ山」のシロデ(林のない雪の斜面・雪崩のおきやすい箇所)へダシ(雪庇)の間を抜けて下ります。もちろん、上から雪庇も雪崩も来ない箇所を選んでのことです。

この日はそれほどよいお天気ではありませんが、眼下のわが集落(集落のおよそ4分の1が視野に)はもちろんのこと、サンサゲェ(三界山)や権四郎森(南本内岳)など焼石連峰の一部もはっきりと目に入ります。成瀬川とここからながめる集落の景色が、私にとってはなんとも素敵に見えます。

尾根筋には、ナラ枯れ病におかされた幹にナメコやムキタケがまだ残っています。なかには遅く出たまま北西の冷気で凍ったままのキノコもあり、季節外れのキノコ採りも。北西の風が強く吹きつける尾根には、あまりの風の強さで雪が飛ばされ地面が見えるところも。

その後、いつものコースで尾根を東進し高度を上げ、今度はスキー場や椿川・大柳方面が見渡せる斜面に向かいました。ゲレンデには、スキーやスノーボードで滑り降りる人々の姿が多く見られます。ここまで上がったら、東には、焼石連峰の南の森(西焼石岳)や横岳、獅子ヶ鼻岳も望めます。それらより南には東山、栗駒山、秣岳と、親しまれる村の山々がくっきり。尾根筋には、秋にクマがドングリを食べようと樹上で枝を折ったクマ棚も何ヵ所かで目につきました。足跡はたくさん見られたものの、残念ながら、森の生きものたちの姿はヤマガラやシジュウカラ以外は出会いがありませんでした。

帰って、天然冷凍で縮んでいたキノコを水につけたら、ナメコは大きさが2倍以上になりました。思わぬ山の冷凍物お土産はとっても味が濃く、味噌汁でおいしくいただきました。