豪雪の村で最深積雪期にシカ生息

議会の予算委員会を午前に終えたきのう、「この春は、大日向山のクマに会いに行こうか」と思っていて、午後、雪の様子を下見に成瀬砕石場のある車道終点に向かいました。

実は、ここの現場で、去る2月28日にシカが突然姿を見せ、現場事務所ではたらいていたTさんがそのシカをカメラにおさめていたことをこの月初めにお聞きしていました。

写真に写っていたのは立派なニホンジカのオスで、事務所すぐ前の除雪した広場と車道を歩いている姿です。(掲載のシカが、Tさん撮影のそのオスジカの写真)2018年2月28日、午後2:02分に撮影されています。近年ならなおのこと、江戸以降もふくめてといってもよいかもしれませんが、わが村でニホンジカの生息が確認されたという「記録」はないと思うのですが、どうでしょうか。はるか昔の時代なら棲息していたでしょうが。

なるせ砕石場 T氏提供

しかも今度の確認は、雪のない夏期ならまだしも、豪雪の年の最深積雪期の2月末の生息。これは、狩猟などを通じて野の生きものたちをみてきた私にとっても小さくない驚き。

岩手県を主にして隣県からのシカの侵入がジワリジワリと増えていた秋田県南部でしたから、「いつかは、村への侵入(復興?)も」とは思っていました。ただ「同じ雪の地方でも、豪雪の村の、厳冬、しかも最深積雪期の山でニホンジカが冬を越すことはないだろう」と決めつけていたこちらの認識は、今度の生息確認で正しくないことがわかりました。

国内有数、世界有数の豪雪の地でも、ニホンジカは冬を越して生きていけることがわかりました。先年、厳冬期の雄勝でイノシシが捕獲されたように、豪雪の土地では生きることがむずかしいだろうと思われていた動物たちの姿が村でも確認されるようになったのですから、彼らの分布域が我々の思案をこえる規模で広がっていることは確かのようです。

ただし、クマとちがい、豪雪の村では半年間の雪深い季節がありますから、狩猟獣(場合によっては有害獣)とされているシカやイノシシが大きく繁殖できるということはほとんどないはず。雪の浅い地方とちがい、雪が深ければいとも簡単に捕獲されますから。しかし、最大の「天敵」その人間の手がもし及ばなくなれば、どうなるかはわかりません。

今回生息が確認されたのはオス一頭。それは「まだ、採石場周辺に生息しているようで、いまも足跡があるようだ」とTさんは語ります。ほかに、メスの群れがいるのかどうかわかりませんが、村で一個体でも発見されたということは、村より雪の少ない横手市や湯沢市周辺などでは、群れで生息しているという可能性はかなり大きいとみてもよさそうです。

同じ県内でも雪の量がはるかに少ない県央部や沿岸地方、県北部では、シカが猛烈に増え続けている岩手など東北各地と雪ということでは自然条件がほとんど同じです。秋田でもそれら雪の少ない地区では、「シカやイノシシの被害が深刻」という事態も近い将来は充分に予測されるのでは、そんなことを思わせられた、今回の豪雪の村のシカ生息でした。

 「ああ、ええなぁ!この景色」(その3)

空模様の変化にあわせた尾根と沢への上がり下りを終え、今度は帰りの道で尾根を北へ移ります。そこで空の青がさらに増してきたのでまた氷雪をまとう小さなブナたちにカメラを向け、下山を開始です。

途中、ウルヰのワス(表層雪崩)跡にもカメラを向けました。カントリーパークにもスキー場ゲレンデのリフト最終地点から圧雪車が下りていて、従業員のみなさんが施設を覆っている雪寄せ作業などにはたらく様子を見下ろしました。

村側のブナの林では、昨年はブナの実が大不作だったのに、例外のように実を結んだと思われる木もまれにあり、その木をみのがさずに登り実を食べたクマの食事跡が二箇所ほどにありました。太い枝のことごとくをへし折った跡と、新しい爪痕が無数につけられています。爪跡の大きさからしてどうやらこれは親子連れのクマのようです。

車に到着は2時頃。帰宅してすぐ、成瀬川の岸辺に向かい、この日半日滞在していた県境の尾根を下からまた眺めました。晴天なのに気温は夕方まで上がらず、尾根の木々をまとう白い輝きは朝からそのまんまの美しさでした。

それからウルヰの雪崩場所に向かい、ワス(表層雪崩)の跡を確認しました。少しの新雪量でもこの規模の雪崩ですから、新雪がもっと多かった時を想定もしました。

これから先、道路の春山除雪や栗駒山荘開業準備で人々の山行きが始まります。春先の新雪ドカ雪によるワスにも、そして何よりも豪雪の年ですからヒラ(底雪崩)には要特別警戒です。おととい記したように、ひび割れ前兆無しで、いっきに滑り落ちるヒラ(底雪崩)
も山では時々みかけますから、なおさらです。

▼きのうは予算特別委員会が開かれ、補正予算案と、一般会計当初予算案までの審査が行われました。

議会事務局提供

小学校でまたインフルエンザへの罹患児童が増え始め、1年生と4年生が学年閉鎖になる事態ということをお聞きしました。16日は待ちに待った卒業式。これ以上流行が広まらなければよいのですが、なんともこれは心配です。

「ああ、ええなぁ!この景色」(その2)

ここの県境尾根は特別に北西の風が強いためでしょう、背高の木々の植生が途切れていて、胆沢川上流部のほぼ全容と、西には横手盆地南部と村の一部がよくのぞめる所です。

昼近くなったら、主峰のタゲ(焼石岳)も含め連峰全体の姿が晴れ空に浮かびました。

尾根筋に大きなダシ(雪庇)をつくる強烈な季節風があたるため、ここの雪原はカチンカチンに凍っていて、カンジキの木製の爪では歯止めがききません。平坦な尾根だからと油断していたら転倒してしまいました。その氷の雪原をうむ強風は、雪とブナの枝にも見事な結晶と造形をつくり、それが陽射しや空の青に映えるとき、その景色はまるでブナの木に咲いた「雪の花」のように見えます。

この尾根に来ると決まってむかしを思います。子供の頃や若い頃、春から夏、そして秋、冬と、エシャガイチゴ(胆沢川イチゴ・ノウゴウイチゴのこと)を摘み、イワナやカジカを捕り、山菜(主にフキやタケノコ)を採り、切り株栽培のナメコ採りをしたり、ブナの伐り出しをしたり、冬山、春山歩きをした胆沢川の林や幾筋もの小沢を見下ろします。

いっぱいのキノコや山菜などを背にして、あるいは雪の上での春山伐採とソリ引きで大森沢入り口から県境の尾根にのぼった「はっひゃくやあご(八百八あご)」の峠越えの道筋を、ここに来るとみんな思い出します。この地は私にとって、少年、青年の頃の思い出がとても深く刻まれている「回想の尾根」ともいえるところです。

大森沢と胆沢川にかかる二つの橋上は、盛り上がるほどの積雪でその厚さは4㍍ほどはあるでしょうか。冬山歩きでこの橋の上を歩く時は、並の積雪の年でも「どこまでが橋か、雪か」と、橋の幅が見えずわからずで狭く感じ、渡るのに不気味でした。現場で橋の上に立ったら、豪雪の今年などその不気味さは尋常ではないでしょう。

雲の流れが速いこともあって、尾根に休んでいるとたちまちのうちに空模様が変わります。それにあわせて、青空が多くなったら岩ノ目沢に下り、また沢から上がり、またもっと青空が多くなるとまた沢に下りを繰り返しました。足腰の疲れへの心配よりも、「もっと、いい景色を」を優先、よりよい写しの対象をもとめて5回ほど尾根と沢の間の上がり下がりを続け、「ええなぁ、ええなぁ」とため息をつきながらシャッターを押しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつも申し上げるように撮影の技はまったくの未熟者を自覚しているこちら。ただ、ため息をつくほどに「ええなぁ」と感じた私の気持ちだけは、写真のいくらかでお伝えできればと思っているのですが、はたしてどうでしょうか。

▼11日の遅くなってからでしょうか、春告げのムゲの大ヒラ(向山の大底雪崩)が落ちました。目立つヒビ割れをほとんど視せないでいてのいきなりの大雪崩でした。こういうこともありますから、ほかの山々や道路沿いなどヒビ割れがない斜面でも、万全の警戒を。

巣立ちの春

9日は3月議会の本会議2日目で、一般質問が行われました。今回は佐々木正利議員一名だけによる質問。一般質問が1名のみというのは最近ではあまりなかったことです。

この後13,14日には予算特別委員会の審議が行われます。市町村の多くに共通する課題を巡っても、そして個別のわが村の政治についても、諸々の課題が山積しておりますので、特別委員会の審議にむけて議員各位の準備が入念にすすめられているでしょう。

9日の開会冒頭、東日本大震災で亡くなられた方々への追悼として黙祷を行いました。翌日の10日は東京大空襲の日で、これによる死者は10万人以上。東日本大震災の死者と行方不明者は1万8,434人。未曾有の自然災害と人災、尊い命が一瞬にして奪われる災害の恐ろしさを忘れられない日々となりました。平穏なくらしが奪われた原発事故による避難の方々の「今」にも心が痛みます。我が家では、テレビのニュースが流れる度に「普通のくらしが奪われて、ほんとうに、大変なことだ」と何度も何度も語り合っております。

▼10日は中学校の卒業式と祝賀会へ。「笑顔あふれる、まとまったクラス」ということをお聞きした今年の卒業生は21名。これまでは義務教育でしたが、これからはよりいっそう「自分から進んで学ぶ」心がけがもとめられる場に身をおくことになるみなさんです。持ち前の明るさを発揮されて、今後の大いなるご活躍を願いたいものです。

卒業生と在校生による全校合唱は、村の小中学生たちが歌詞を考え、県出身の橋本祥路先生作曲の、村をたたえる歌「ふるさとの歌~悠久の風にのせて~」。式典会場全体に響き渡る心こもる見事なハーモニーは胸にせまりました。この合唱曲はほんとにすばらしい、いつお聴きしてもいい歌ですね。インターネット、ラジオやテレビなどで全国のみなさんにお聴かせしたいほどです。

ところで、今年の卒業生の中には、村への特別な縁がまったくないなか埼玉から移住されたご両親のもと、この村で誕生となり、東成瀬中学校を卒業されたHさんがおられます。一定の人口を保つうえで村も移住や若者定住をことのほか重視していますが、今から18年前のご両親の突然移住には私も少々驚いたものですし、なによりも大歓迎、喜びでした。

豪雪の村へ移住、そして生をうけてからの10数年、ご両親と、Hさんのこの日にのぞむ心境は又格別のものがあったと思われます。すべての卒業生と保護者のみなさんおめでとう。そして、Hさんとご両親へもそういうことで格別の思いをこめて、おめでとう、です。

▼前日の卒業式よりなお穏やかで温かだった11日は、久しぶりにまとまって訪れた童たちと雪上の時を過ごしました。河川敷でいつものようにブランコ、伏流水でノゼリとクレソン摘み、雪解け水が流れ始めた成瀬川の岸辺では、生きもの好きの童が「あっ、虫いる」と小石の下や水中、泥の中からつかまえて戯れ、また、バッケの見え始めた道ばた散歩にも出かけてと、訪れた春のしるしをまた一つ、二つと確かめるひとときを過ごしました。

「ああ、ええなぁ!この景色」(その1)

先日、早めの決済を役場で済ませた後、急ぎ支度をしてそのまま雪山へ向かいました。

朝、県境の尾根筋をみたら、ブナの木々が白く輝いています。「陽射しもあるようだから、きっといい景色が眺められるはず。こんな日はそうはない」と意を決しての行動です。

「意を決する」などというと大げさともなりますが、若いときとちがってやや遠い雪山行きは、これはいまの私にとっては少々「決断」のいること。若いときなら、厳冬の雪深い季節でも、一人カンジキ履きでハデ(深い雪)をこぎ、馬場にあった畜産管理センターから県境大森山や三界山の裾に向かったり、焼石沼近くまで上り胆沢川筋を下ったり、やはり県境・明通沢のカッチ(最上流部)に向かったりしたものですが、さすがに60歳代も後半になるとガタがきた足と腰に不安を覚え、一人の雪山遠出は「行けるかな? ムリかな?」と、行動を決めるまでかなりの思案をするようになったからです。

しかし、この日の県境尾根筋の輝きは私のそんな不安をしのぐ魅力にあふれていて、その魅力に誘われるように、カンジキとカメラを手に車をスキー場に走らせました。

歩き開始は一番手前のゲレンデ駐車場から8時半少し前。この日は営業していない一部リフトのそのゲレンデをまずはカンジキを履かずに一直線で上りです。最初から急登なので、これはなかなかこたえました。リフトの最高降り場地点到達まで1時間近くを要しました。

途中、これから開催される大会準備などにむけて、スキー場従業員の方がポールの束をどっしりと肩にして勢いよく格好良い滑りで下ってきました。「準備をする方々は、こういう滑りもできないといけないんだな」と、その見事な滑りとお仕事ぶりに感心しながら「ごくろうさん」とごあいさつ。リフト終点の管理室にいる従業員の方にも「ごくろうさん」とごあいさつをして、さあカンジキ履きでの歩き開始です。

真冬とちがいこの日は、厚い堅めの雪の上に、新雪は前夜に降った少しがあるだけ。それほど足が沈まず歩きは楽なほうです。まずは、見晴らしのよい場から沼又沢全体を望みます。予報は晴れなのに、この場から頂上の一部がのぞめるサンサゲェ(三界山)、権四郎(権四郎森・南本内岳)、南の森など焼石連峰はまだ雲にほとんど覆われています。

県境到着は10時を少し回る頃。晴れ空にしては気温が上がらず。おかげで前夜の降雪でブナに着いた雪が凍ったまま、あるいは半ば凍った状態で保たれ、朝に自宅からながめて期待したとおりの景色をたっぷりとのぞむことができました。今日は、とりあえず、その景色の一部を切りとってご紹介です。ブナの原生林は、千古斧の入らぬ胆沢川源流岩ノ目沢北側の支流にあたる沢筋です。最近の雪山行では私がもっとも多く通う沢と林です。

▼この日は堅めの雪に新雪が少し積もり、いくつかの斜面で小規模のワス(表層雪崩)が発生していました(ウルヰの畜舎そばでも)。雨天続きのヒラ(底雪崩)にも要注意です。

雪穴方式の消火栓維持

豪雪の村では、防火水槽や消火栓など雪に覆われてしまう消防設備をいつでも供用できるよう、雪から出しておくというつとめがあります。

コンクリート枠の防火水槽は、除雪機械が出動する度に機械力で雪が寄せられますが、消火栓の機械除雪はムリ。そのため、消防分署員を主にして、消防団、時には近場の地域住民の手なども借りて、ひと冬のうちに、何度も何度も人力で消火栓の雪が除けられます。

その何度も何度もが結構手間取るしごとなので、消火栓の背丈をはるかに上回る積雪になると「雪穴方式」に除雪をきりかえた方が楽になります。雪をすべて除けるよりも、「かまくら」のように正面の穴だけ掘れば雪寄せでは手間が省け、消火栓もすばやく作動させることができるのです。

村では、数多くあった簡易水道施設の更新統合をすすめ、すでに大字田子内と椿川の両地区は設備が完成し、残るは今年からはじまる岩井川のみ。この施設整備にあわせて、従来より背丈がはるかに高い消火栓が更新設置されていますから、村内で「雪穴方式」の消火栓がみられるのもあと3~4年ほどでしょうか。

ただ、今冬の豪雪では、その背高のっぽ消火栓も雪に隠れているところがみられました。これはこれで背丈が高いだけに、穴を掘るのも中途半端で「雪穴方式」にもなかなか適さずの様子とお見受け。豪雪の土地では、すべてにおいて、簡単にものごとの解決がつかないことがいっぱいあります。

消火栓をまもってきた「かまくら」が形をだいぶ崩してきました。その姿からも「冬は終わりだな」を雪国人は感じます。

くらしをささえるヘギ(堰・用水路)

各集落で積雪2㍍~3㍍超えを記録した豪雪の村とはいえ、空の様子、雪の色(積もった雪にも降る雪にも)、吹く風、木々の色、それに時折の陽射しにと、もう3月、雪国人は「春近し」をとらえはじめています。

豪雪の村の人々が冬を越すうえで最も頼りにするのはヘギ(堰・用水路)。

わが集落にある遠藤堰(エンドウゼギ)もそのひとつ。今冬は、村の山々に適度な間隔で降雨もあったためか、各河川の水量も2月のもっとも水量減となる季節でも安定した流れが保たれ、ヘギにも十分な水量が引かれました。

おかげで、豪雪であったにもかかわらず、わが集落では「流雪溝などに水が足りない」という苦情もほとんど聞かれずに冬を越すことができました。

ヘギは冬の役割をまずは果たし、5月にはたんぼへの用水としてまた大切なつとめに入ります。ヘギにかぶさる雪もまわりの雪も、あと1ヶ月と少しですべて消えてしまいます。解けない冬はない、自然の力って、ほんとに大きいものですね。

 

少しずつ春の装いが

あっという間に3月ももう6日。集落のまわりに春のヒラ(底雪崩)がみられ始め、流れが春色に変わり始めた小川の岸辺にはネコヤナギがほころびはじめています。

小川にかぶさる雪の量も今年はなみはずれて多く、普通の年は越え渡れなかった流れの箇所でも、「雪の橋」が随所にできていて簡単に渡ることができます。冬の流れが解かれ勢いを増し始めた成瀬川の岸辺も、雪の背丈が多し。

この流れをうむ深山の雪の量も今年はたっぷりで、雪崩の規模も例年より大きいはずです。春山登山や釣りでの渓谷越えのときも、今年は雪崩でできる「雪の橋」が大きくのこるとみられますから、川越えも案外たやすくできるでしょう。

コミュニティの文化祭

毎年3月の第一日曜日とその前夜は、地元岩井川部落のコミュニティ文化祭とそれにちなむ行事が行われます。この両日は、恒例のジュネスカップスキー大会も好天のもとで円滑に行われ、村内の子供たちが大活躍されたようです。

3~4日両日ともにまことに穏やかで春近しを感じさせる天気となりました。豪雪との難儀な向き合いもそろそろ終わりと感じていますから、地区住民たちは比較的ゆったりした気分で第41回目を数えるコミュニティ文化の祭り(手作りの様々な作品、写真、書、歌、踊り、演奏、ごちそうなど)を楽しんでいるように見えました。

私の同級生には、写真や工芸、手芸作品などに優れた技をもつ方々が幾人かおられますが、きのうも、見事な作品がいくつか展示されていました。展示こそされていないものの、ほかにもすばらしい作品をつくっている方がおられて、きのうはそうした秀でた手芸の技をもつ同級生のあるお一人に「オメ(あなた)も、だへよ(出展を)」と呼びかけました。

小中学校のわが同級生は40人と少し。部落に住んでいるのはそのうちの3分の1ほどですが、同級生の範囲でみてもこうですから、約200戸の部落全体の年齢層だと、まだまだたくさんの「出展していない優れた業人」がおられます。それぞれ声かけあって、さらに多くの作品がだされてほしいものですね。

猛烈な荒れ

今から67年前の2月末から3月初めにかけての家族の様子を記した祖父の日記には、「2月23日、ヤナギ沢杉切リ ガン四九羽飛ンデ行 西北ニ」、「2月26日、コヘヅカホリ」「2月27日、ヤナギ沢杉出シ 山ヨリ炭下ゲ コエヒキ」、「2月28日、夜 東南大雨風」「3月1日、東南雨風、大水 橋オチル」などと記されています。

67年前のこの時期も、北へ帰り始めた雁の群れが早くも目にとまり始め、発達した低気圧により南東の風雨が吹き荒れ、堆肥穴掘りや堆肥のソリ引きが始まり、山では杉の伐倒とソリでの運び出しと、自然にも人の動きにも春の気配濃くなっていたことがわかります。

67年前の、その大水で橋が落ちるような時の朝「九時半に産する 長之ババタノム」と娘(私の母)のことを記している祖父。それを時々読むこちらは「オレは、大荒れの日の朝に生まれたのか。とりあげてもらったのは、地元上野の、長之ばあさんだったのか」とその日のことを知ることができています。

それから67年後のきのうの村も、ちょうど同じように南東の風雨となり、各地の積雪が緩みました。そのため朝から村はパトロールを強めるなど特別の態勢をとり警戒にあたりました。自然の緩みを雨にも雪にも感ずる3月。高校の卒業式もはじまり、体も心も春近しをしっかりととらえはじめています。

我が家前の成瀬川も、おだやかでしばれる真冬の流れが解かれ、今年初めての増水を見せました。

そうして迎えた夜、アマゲェシ(雨返し)の「爆弾低気圧」がやはりやってきました。台風一過などといいますが、この春先の低気圧は、村にとっては大型で強い台風並みで、台風よりも吹き荒れる時間が長いと思われ、その分恐怖の時間も長く続きます。

南極のブリザードとはほぼこういうものなのでしょうか。深夜から早暁、そして夜があけても、ものすごい吹雪が荒れ狂っています。台風は風が見えませんが、吹雪とともに荒れ狂う低気圧は白魔ともいえる風の形相がそのまま見えるだけに、すさまじさに怯んでしまいます。

その強風のためでしょう短時間停電もあり、家は軋みの音をたて続けています。「大きな被害がなければよいが」と、今日から始まる議会の最終備えの仕事部屋で、魔のように吹き荒れる音を聞きながらパソコンのキーをたたきました。