議会臨時会議開く

水田を有効活用するなどの活動目的をもつ村の農業再生協議会の幹事会と総会がきのう午前に開かれました。午後には議会の臨時会議が開催され、契約案件(防災情報センター冷暖房設備改修工事・契約金額5,389万2,000円・契約の相手方・(株)ますだ機工)や人事異動にともなう補正予算の専決処分報告などが審議可決されました。

夜には小中学校PTA合同による教職員の歓送迎会が開かれ、毎年度初めに予定されるこちらが出席の恒例行事はこれでひととおり締めくくられました。

▼木々では最も芽吹きの早い河川敷の柳や、里山のブナがいっせいにホゲ(萌え)始めています。これからは一日ごとにブナの芽吹きラインが上へ上へ、里山から深山渓谷へと進みます。

むらのマタギたちは昔から「ブナの葉の、ホゲざげさ(芽ぐみ境に、萌え境に・萌え前線に)、クマえる(クマがいる)」と言ったものです。森のクマたちも芽吹き寸前、芽ぐむときのブナの葉っぱが大好物だからです。

育苗ハウスへ苗箱据え盛り

村の育苗センター(JAへ運営委託)で種まきされた水稲の箱苗が次々と芽を出し、村内各地の農事組合法人や個人の育苗ハウスへ運びこまれ苗床へ据える作業が盛りです。

わが家は数年前の豪雪で育苗ハウスが倒壊してから苗づくりを止め、JAから購入しています。JAの委託で苗を育てる農家から植え付けられる状態に育った苗を運ぶので、今では育苗には完全にノータッチの農家となっています。むかしから米づくりでは「苗半作」とか「苗作りをしてこそ、一人前の農家」などともいわれてきました。わが家は、職業は「農業」と記しますが、この面では半人前の農家になっているということになります。

長年の経験からして、苗づくりは、種まき前の事前の準備から種まき後の日常の管理までそれだけ大変で気苦労の多い仕事。村内でも、個人で苗作りをする農家は年々少なくなっていますが、理由はそうした難儀もあるからなのでしょう。

委託を受けて苗を栽培する農家は、多くの農家に苗を渡すまで大きな責任を負って管理にあたります。法人組織のみなさんや個人で規模を大きく苗栽培をしている方々も、苗作りに失敗すればその影響が大きいだけに、みなさん、これからおよそひと月、気のぬけない日々が続きます。

▼きのうは県南地区農業委員会会長会の総会で大仙市へ。過ぎた活動を確認し、今年度の事業計画などを決めました。

多くの市町村で農業委員の任期が7月までとなっており、新制度に基づく委員選任のための公募が始まっています。わが村は現在公募期間中ですが、すでに募集の締め切りを過ぎたところがあり、そこでは定数を上回る応募者となっています。農地利用最適化推進委員についても定数を超える応募数となっているところがあるとのことです。

選任名簿案を仕上げるための大きな仕事が、それぞれ待ちうけている状況が話されていました。

▼おとといでまだ雪がこの程度残っているわが家のワラビ栽培転作田。おきまりの春作業で鶏ふん散布を行ったところです。

晴天を待って再び仙北街道筋へ(その2)

休みを終え歩きはじめてしばらくしたら、ある崖上部の雪が消えたブナ林の中に大きな黒い塊が見えます。生きものを見る長年のカンから「あれはクマだ!」と思いましたが、その塊までの距離が100㍍ほどはあり、しかも樹下は柴木が厚くなっていて塊が隠されますから識別がつきません。足跡の方向や位置からして、10日に写した親子グマでしょう。

双眼鏡で確認しようとリュックを下ろそうとしたら、その黒い塊が分かれてブワーと動きました。「動いた」間違いなくクマです。しかも塊はほかにもありますから1頭ではありません。双眼鏡で確認したら3頭です。雪上の足跡が向かった方向の崖にいたのですから、林の中をジクザク歩きした母子3頭のようです。おとといあたりに冬眠を終え、雪消の進んだクラ(崖)で過ごそうと遠くまで移動し、ここで日向ぼっこでもしていたようです。

こちらのカメラは双眼鏡よりはるかに望遠度が低いのでよく識別できませんが、なんとか3頭らしい黒いカゲは写真でも確認できると思います。子連れのクマですので近づけば危険で、これが安全ぎりぎりの撮影距離でした。

双眼鏡をのぞいたら、母親が仰向けになり後ろ足を上げ、それに子グマたちが乗っかったりして戯れています。まもなく、もじゃね(厚く混み合って生えている)柴木の中をゆっくり移動し、小さなヒド(窪み)に入って視野から消えました。そこはわずか5㌃ほどの雪消の中、上下左右みな真っ白な雪ですから待っていれば撮影機会は確実にあったのですが、危ないし「親子の邪魔をしないことだな」と、無理をせずにその場を離れました。

当初の予定以上に距離を伸ばしたので帰りは足が少し疲れました。この日は鳥海山もふくめ山の眺めがすばらしい一日でした。休憩場所のブナに止まったアオゲラが、キツツキ特有のいつもの鳴き声ではなく、いろんな声音を出しておかしく鳴きはじめました。こんなアオゲラの鳴き声ははじめて聞くので、「あれ、これはオス鳥で、もしかしたらメスへの求愛の鳴き声かな?」などとも思いながらカメラを彼にもむけました。

ブナの根空きも進み、あたたかな陽射しに光る渓流そばにはバッケ(フキノトウ)やユギノシタキノゴ(エノキタケ)がなんとも春らしい景色でこちらの目に止まります。雪消の早い雪崩跡では国有林のフクジュソウも咲き始め、カタクリはここではもう過ぎ具合です。

往きも帰りもホテルブラン分かれの交差点まですべて歩きなので、コースはなるべくまっすぐ取り。明通から間木に下りようかなとも思いましたが、どうも足が苦しいので今回はそのコースは止めに。帰りは狼沢境からスキー場のリフト終点を経て国道除雪やカントリーパーク除雪作業を眼下にし、西を向いては集落を眺め、長沢の尾根を下り、「竹まるぎっぱ(まるくは束ねるの意。笹竹をまるいた場所なので竹まるぎっぱ)」に下りました。

帰宅は5時。前日の雨で雪に足をとられ歩きにくい箇所があり、こちらの年齢にしては少し体にきつい山行となりました。歩数計は約3万歩の雪道歩きを刻んでいました。

晴天を待って再び仙北街道筋へ(その1)

晴天でしかも行事の重ならない日を待ち、再び残雪の山へむかいました。

雪国の春の山なら、三角点のあるような特別高い山にのぼらなくても、県境・分水嶺となる尾根に上がるだけで見晴らしのよいところがたくさんあります。

加えて残雪のブナ山は、この地方特有のチシマザサや柴木が雪に押さえられていますから林内の見通しがききます。須川高原をはじめ6月のタケノコ採りで遭難が絶えない笹の厚い林も、足にさえ自信があれば今なら自由自在に歩き回ることができます。

そろそろ引退時ですが、まだ山岳遭難の救助隊に名を連ねる私は、こうして残雪の山を歩きながら沢や崖、特徴ある木々などを頭に詰め込むようにしてきました。もちろん、雪のある季節とちがい、雪が消えた見通しのきかない季節の山は、いったん笹藪に入れば自分がどこにいるかわからなくなります。しかしそういう時でも、残雪の山を多く歩いて地形全体の特徴をつかんでいれば役にたつことがあるものです。

さて、今回の歩きです。国道397号の除雪がカントリーパークより上部にもとりかかっていますが、まだ閉鎖されているのでホテルブラン分かれの村道交差点から5時50分に歩き開始です。仙北街道のやや遠くまで足を伸ばす予定なので、下から歩くとなると出発は早く、です。

県境の尾根に上がり仙北街道筋に入ると、先日に降った新雪が所々にあります。林も場所によっては足が雪に沈むところもありやや歩きにくい雪状態です。

丈ノ倉到着9時半、とりわけ展望のよい地点なのでここで腰を下ろして休憩。若い頃にブナ材搬出をした岩ノ目沢と本流が落ち合う周囲の山や焼石連峰、それに東山、栗駒などをまずはゆっくりとながめました。風が特別強いのでしょう、仙北街道丈ノ倉にはここだけ夏のように土が出ている道があります。雪が解けてから間もないためか、いつも見られるカタクリはまだ芽も出ていません。

この一日~二日、堅雪が緩んだ状態だったので、2日ほどまえとみられるクマの足跡が雪に沈んだ状態でついています。足の大きさ、雪への沈み加減から「これは、大きなオスグマ」と見込みました。

岩手側の林では、3頭のクマの足跡も別に目に入りました。いわゆるフルゴ(今年の冬でなく、昨年冬に生まれた2歳子グマ)連れの母子3頭です。ブナの林をジクザク歩きし、やがて私が進もうとする同じ方向でもまたその足跡といっしょになりました。

ホ~ ホケキョの初鳴き

金曜日は広域消防東成瀬分署職員の歓送迎会へ。

出動のとりわけ多い救急活動をはじめ、災害予防や救命講習などでも貴重な役割を果たしていただいていることへ感謝をこめながらご挨拶を申し上げました。

▼まだ丈の大きな草が芽を出さず、低木の芽吹きにももう少し間がある今の野原や河川敷。そこはこれからほんのわずかの間、まるで大掃除をした後のようで散策にはあつらえむきです。

「そろそろミズバショウも咲いた頃」と、土曜日朝は訪れた童といっしょにいつもの散策コースに向かいました。所々で雪を渡り河川敷を自由に駆けられるこの季節は、ただ歩くだけでも楽しいのに、花をながめ、活動をはじめた水辺のいきものとまた出会い、コゴミ、アザミ、バッケを摘み、真っ盛りのエノキタケもいただいてきました。

ほっこりと温かな陽射しと大気、残雪、勢いある水、草木の萌葱、地にも水にも空にも生きものたちの目覚めと誕生、躍動の季節がやってきました。豪雪のむらの春って、希望に満ちた素敵なシーンが右にも左にも前にも後ろにも上にも下にもいっぱいなのです。姿は見えねど「ホ~ホケキョ」の鳴き声も。童とともにこの春はじめてウグイスの声を耳にしました。

種まき始まり

強風と雨の大荒れ天気が通り過ぎたきのう。この日を待っていたのでしょう水稲の種まきにはたらく姿が村の各地でみられました。

今が種まきということは、例年のようにこれからおよそ一月後の来月20日過ぎ頃が田植え真っ最中ということになるのでしょう。わが集落の積雪観測地点が積雪ゼロとなったのは18日。平年より雪消えが遅くたんぼが乾かないので「耕起作業が遅れ、田植えのとりががりに影響あるべェ」という声があれば、「いや、ほどんど、同じなんびょう」の声も。

観測地点は積雪ゼロでも、わが家のたんぼはまだこんなに厚い雪の下。農道の吹きだまりなどは3㍍は越えるかと思われる堅く厚い雪です。それでもあと一月と少しで、早苗が植えられた姿にこの河岸段丘の高台も一変します。

雪国に何十年もくらしているわれわれも、雪の解ける早さには、「たまげで(驚いて)しまう」と、毎年同じような言葉を発してしまいます。大雪時は一晩で50㌢も積もることが時々あるのですが、消えるスピードも早し。むらの人々はこの雪解けの様子を「降るように、ける(消える)」といいます。

きのう朝の県境の尾根ラインはうっすらと新雪が重なりました。でも里ではどんどん春がすすみ、芽出しの早いウドザグ(ハナウドの仲間)とヘリザグ(シャク)の緑が日ごとにひろがり、雪消の早い土手ではショウジョウバカマも真っ盛り。抹香の木(カツラ)
の新芽も日ごとに紅色を濃くしています。

里の山は急速に地肌が多くなりました。冬眠から覚めたクマたちは、ウドザグやサグ(エゾニュゥの仲間)の新芽、カタクリやコブシなどの花をめざして日向や沢筋に、あるいはドングリの実が残っている早く雪消が進んだナラ林に向かっている頃です。

きのうは、部落神社の別当役引き継ぎ会がありました。つとめで気づいたことなども含め必要なことがらを無事引き継ぎ、1年間の役割もこれで終わりとなりました。

温故知新 古い議事録

役場庁舎とそれに接続する山村開発センターの内部改修にあわせて、永久保存書類などの書庫の配置換えがすすんでいる。

それらの中には、議会議事録もある。村の歴史を学びたいときには「郷土誌」が私の教科書で、ふだんはそれで間に合わせている。加えて、村民がたどった近世・現代の歴史を深く知る上ではこの議事録が宝物といえるほどに貴重な資料となる。村の郷土誌編纂にあたった当時の人々も、おそらくこの議事録のページを何度もめくりかえしたことと思われる。

明治21年4月17日に市町村制が公布、翌22年4月18日に田子内村、岩井川村、椿川村が合併して東成瀬村が生まれた。議事録(終戦前は村会録)には、その翌年の明治23年から、延々と村と議会の行政の様子が書きのこされている。

今のようにコンピューター時代ではない当時のこと。直筆や、謄写、和紙などに記された128年以上前からの会議録である。戦後の地方自治法制定と公選制による選挙を経ての村長、議員の選出と村政・議会運営の当時のおおよそもこの記録から知ることができる。

戦後すぐ、自治法制定後の議事録でも、まだしばらくは要点筆記ではあるが手書きであり、一字まちがっても、ちょうど公的契約書のように「00字訂正」の文字と訂正印があり、ページをまたぐ書類には割印も押されている。

ガリ版刷りの予算書や議案書と合わせ、一つの文字、一つの数字にも神経を集中したであろう書き手の苦労がしのばれる。当時は当時なりの会議録作成や議案書づくりにあたった人々の難儀が、褐色ににじんだ紙に刻まれた文字などからしのぶことができる。

中には、質疑の経緯からみれば採決の結果が意外で「おやっ、ここで、いったい何があったのだろう」と思われる記述の一コマもある。会議録が要点筆記だからこそありえることだが、戦争直後、民主政治がまだ浸透し初めの頃の議会と議員の論議の様子を想像することもできる。

そういう歴史をたどった村で村政に携わるわれわれも、平成の市町村合併がすすめられた時の村政の当事者を経て、村はいま128年の時を刻もうとしている。その議会の会議録はいつの頃からだろうか、要点筆記から全発言が記録され同じように永久に保存される。

この会議録は、村広報や議会広報の縮刷版などとともに村のたからもの。温故知新、記録は大切に保存するとともに、それだけでなくそれを活かし、先達が苦労したその宝から学ぶ心がけが大事と思った次第である。

▼きのうは湯沢雄勝農業委員会連絡協議会の総会があり湯沢市役所へ。農業委員や農地利用最適化推進委員の公募状況など情報を交換し合い、新年度活動の方向性を決めました。

雪の精のようなキノコ

初冬と早春、いずれも雪と隣り合わせの低温下で育つめずらしい菌類、その名はユギノシタキノゴ(エノキタケ)。

私の散策コースには、雪解けにあわせて春の季節のキノコが雪の下から次々とカオを見せるようになっています。今回のキノコはそれほどでもありませんが、真っ白な雪とならんでいるその姿は「まるで雪の精」とよびたくなるようなキノコです。

むかしの人々は、積雪の下でこのキノコが育つ様子をよく観察していて、こんな名前をつけたのでしょう。名のとおり、雪の下で成長していて、春のときなら、雪が消えて見えるようになったらたちまち採り頃ということが多いですからね。

水辺にはアザミの若芽と、小さな小さなコゴミもでていて、雪の精のキノコとともに初物を味噌汁でいただきました。

▼きのうは農業委員会の4月総会の日。議案審議のほかに、今年度の農作業標準賃金・料金体系を、JAのセンター長にも協議に出席いただき、前年度と同額とすることを決めました。

肥料や農薬、燃料類などの価格動向には現在のところ大きな変化がみられないようで、それらの要素を考えながら据え置きとしたものです。

冬眠明けのクマ公さんたち

春4月は、冬眠明けのクマたちと出会えるときです。

30数年におよんだ趣味の狩猟や、あるいは山菜・キノコ採りなどで、里山から奥羽の深山までクマたちの棲む山々を歩いてきた当方。なので、むかしのマタギや先輩たちからつたえられてきた冬眠穴をはじめ、クマが今も冬眠につかっている穴、あるいはつかっているらしい穴をふくめいくつかの所在が頭のなかに入っています。

それらの冬眠穴のうち、今もクマが毎年、あるいは隔年で入り続けていることを確認できて、なおかつその場所を知るのがおそらく自分一人だけだろうというのは、私の場合は3つの冬眠穴だけでしょうか。それはつまり、銃猟をやめてからここ数年の山歩きでこちらが新しく発見した穴ということです。

そんなことで、春山歩きと冬眠明け直後のクマとの出会いを趣味とする私。里の近くにあるその越冬穴のうちの一つに出かけてみたら、たまたま冬眠を終えて穴の入り口で体をほぐしていた2頭のクマが確認され、1頭は、そばの木にのぼる姿まで目にすることができました。こちらもたまたまでかけたのですから、これは天の誘い、とりはからい。運がいいとはこんな時のことをいうのでしょう。

最初の写真で、右に写る一部の姿しか見せないほうが頭が少々大きいように見えますから母親?で、木に登っているのはフルゴ(古子・昨年の冬に生まれた1歳を過ぎた子ぐま)でしょうか。ちなみに、今年の2月頃に生まれた子グマは「ワガゴ(若子)」とよびます。

それでなければ、母親とフルゴの母子3頭がいて、姿を見せたのはたまたま2頭ということなのかもしれません。クマはまだ穴の入口だけでの動きで私からの視野が狭く、いったい母子は2頭なのか3頭なのか全体の様子が確認できませんでした。

高性能の望遠レンズを持たないので、クマまでの距離を50~60㍍ほどまで近づき撮影しました。聴力は人間以上、嗅覚は犬なみに敏感という彼らに気づかれないよう、風の向きや音にはとくに気をつかいます。木陰に身を隠しそろりそろりと雪上を這い、あらかじめ決めていた危険を避けられるギリギリの地点から、時に息を止め、写しはじめました。

クマの視線にこちらの動きが入らないことを願い意識しながら、最初はそれこそ固唾をのんでシャッターを押します。こういう時ですね、猛禽類など野鳥観察の方々が使うような高性能望遠レンズがあればと思うのは。

クマは冬眠開け直後。なかなか全体の姿を長時間見せるほどに動きがまだ活発ではなく、見える範囲で姿が確認できたのはわずか8分間だけ。冬の間にややかたばった体を少しほぐして穴の中にまた入ったらしく、いくら待っても後は姿が見えずです。しばらく粘ったものの、こちらも寒くなったのでひき上げました。

わらび座の新作ミュージカル公演

雨天底冷えの15日。わらび座の新作ミュージカル「ジバング青春記」の初日公演にご案内をいただき、仙北市田沢湖町神代のわらび劇場へ妻と二人むかいました。

物語の内容や出演者などはミュージカル紹介のチラシを載せましたのでご覧になってください。11月末まで劇場での常打ち公演がおこなわれています。

市町村の学校体育館を借りての過ぎし公演当時など、このわらび劇場が建設される前後のわらび座を知るものの一人として、発展、前進を続けてきた座の姿、次々と創造性を発揮しての開拓者精神ともいうべき姿勢には敬意をはらいたいと思います。

座は、このように毎年大きな新作を発表し劇場公演等を行っています。今回の「ジパング青春記」をふくめ、座の作品には、弱者への慈しみ、傲る権威への批判と風刺、博愛、平和希求がテーマとして貫かれていると感じながら観劇しています。

経営体としても「人は何を求めているか、時代を先取りする感覚が鋭い」わらび座のこの姿勢と実績には、老舗から新規起業まで県内の企業体も学ぶべきところが多くあるように思われます。

ミュージカルを主とした本業の演劇においてはもちろん、子供たちの体験旅行をはじめとする観光部門の先駆性、地ビール醸造など食の部門までふくめて、地域資源を活用しながら経営体として発展している国内有数の劇団がわが秋田の県南にあるということは、なんとも頼もしいことです。

文化芸術活動から出発したわらび座が、土台の活動を軸にしてそれに連なる事業を多面展開しここまで人を惹きつけ感動をよぶ。法則にかなった人間の営みには力があるものです。

今回も「すぐれた生の芸術さ、たまに、触れでおがねばな」などと二人で語り合いながら帰路につきました。

▼所用でめぐった週末の村内。入道野頭地区からは残雪の白さがきわだつ鳥海山の頂上部がくっきり。村内の人里から鳥海山がのぞめるのはここだけ、ということは鳥海山の頂上に立てば入道の家々やたんぼが見えるということです。毎年記していますが、何十年前にか、山仲間とその頂上を二度訪れ、「あそこが入道」と、ながめた日々を思い出します。

村内は、チャワンバナコ(イチゲ花の仲間たち)が真っ最中。フクジュソウも花群落をどんどんひろげ、雪消の早いところではカタクリも見え始めました。野の草の緑も日を送るごとに増えつづけ、豪雪の里だからこそのまばゆい春がまた山間の村にやってきました。

気温が上ったきのうは、成瀬川がゴーゴー、この春いちばんの雪解け濁流となりました。