童と雪上歩き

14日朝、気温はマイナス2℃。前日午後にふんわりと落ちてきた新雪がやや締まり始めた残雪上に薄く重なりました。

しかし前夜も朝も本格的な放射冷却とはならず、雪原も堅雪本番とまではゆきません。でも、なんとかカンジキなしで雪上を歩けるようでしたので、新コロ禍、訪れていた休校中の童とともに外の歩きへ。

まずは、川通野の我が家田んぼそばにある里山に向かい、マミ(アナグマ)とムジナ(タヌキ)が分かれて棲んでいるらしい土穴見学をしました。相変わらずここにはかれら大家族が暮らし続けていて、雪上には、数カ所の穴が雪を突き抜けて空いています。それは冬の間も生きものが棲んでいる証拠です。案の定、一部の穴からは出入りの新しい足跡も見られます。この日は本格的な堅雪でないため時間が経つにつれ雪がさらにゆるみ、足がスボッ、ズボッとぬかるようになりました。

帰りには、林の中の小沢と湿地を通り「ここでは、我が家の昔々の先祖の代に、小さな田んぼをつくったことがあるのだよ」と童に教えました。わずか5坪ほどの田んぼが「嫁に来たとき、1枚ここにもあった」と母は語ります。そんなわずかの場所でも、水と平地があればあの時代はお米を穫ろうとしたのです。この小さな田んぼの役目はやがて終わり、まわりには杉が植えられ今はうっそうとした林です。沢には、わずかに昔の畦らしい土を盛った形跡が見られます。

90歳になる母は「もっと上でも、何枚かの田んぼがつくられたことを、先代から聞いたことがある」と語ります。上部の台地では、近くのAさん方で畑を耕したこともあり、「ジギ桶(人糞を入れた桶)をジンジィ(爺さん)がてんびん棒で2つかつぎ、リヤカーも通れねェ曲がった急な道(はるか昔の岩井川と手倉地区を結んだ古道)を上がっていたもんだ」という旨を母は語ります。

歩きついでに、この日は、その古道そばにある「五穀神社」の石碑にも立ち寄りました。古道はいわゆる「あかみち」で昔の村道。それははるか平安の時代から古の人々が歩いた道でしょう。合居川を挟んだ北方真向かいは遺跡で名の通る矢櫃の高台です。故あって津軽の殿様が参勤交代で仙北街道を越えたと村郷土誌は記しますが、その時はこの川通道を通って仙台領に向かったのでしょう。日本海側を北へ向かい出羽から平泉に逃れてきた源九郎義経や弁慶も、最短で平泉につながるこの川通の道を通った可能性が大きくあります。この古道跡は、そんなロマンをおぼえるところでもあるのです。

さて、そこにあるのは昭和17年5月12日と刻まれた社の石碑です。小高い丘まで重い「合居川石(石英斑岩?)」を運び上げたのは我が家の先祖を含む開墾組合の人々です。馬場の川通野に田んぼを開くため、開墾組合で沼又沢から堰を堀り完成した年なのかどうかはわかりませんが、石碑はおそらく雪の上をソリで上げられたのでしょう。それからおよそ80年近く経った小高い丘で今年の豊作を願いましたが、童は古く苔むした台座裏に注目しながら何か別のことを願ったようです。石碑のそばの松の木の皮が剥がされ、クマの爪跡がここにも見られます。

▼生きものの棲む穴見学と、ちょっとした歴史を辿る歩きの後には、河川敷伏流水の湧口でいつものノゼリやクレソン摘みです。冬に生長を休んでいたノゼリもクレソンも、差し込む陽射しが春模様になると草丈の伸びがやや進んできたように見え、葉の色もわずかに緑の鮮やかさが増してきたように感じます。

湧水の小さな淵には、冬の間中も姿を見せ続けていたニガッペ(アブラハヤ)と川ザッコ(ウグイ)の混じった群れが、今も元気に小さな住み処を回遊しています。こちらも、春になったら動きが少し活発のように見えます。

春の清水の菜を摘んだ後には、雪原にいっぱい出ている背高のっぽのサシドリ(オオイタドリ)の枯れ茎を折り取って久しぶりに童とチャンバラごっこも。それは、こちらが童心にかえる時でもあります。サシドリは茎が空なのでまちがって打たれてもそれほど痛くなく、枯れ茎は童との戯れにはもってこいなのです。茎が空洞のサシドリや、低木マメボッチ(キブシ)の木のまっ白い芯を抜いて木に穴を開け、笛をつくり遊んだ当時を思い出すのも、堅雪を歩けるこれからの季節です。

いつかも記しましたが、こちらが童の頃の堅雪の季節は、柴木で刀をつくっての「タダガェッコ(チャンバラごっこ)」はいちばん多かった遊び。自分で「刀」にもっとも良さそうな柴木(ガザキ(タニウツギ)、ホウノキやコシアブラの幼木が多かった)を切り取り、それを手にして集まり、組を2つに分け、近くの神社の2つの小さな社をそれぞれの「城」にして、「名をなのれ」で組同士の「戦いごっこ」が始まります。

名のり合いでは、「清水の次郎長、森の石松、大政、小政、赤胴鈴之助、東千代之介、月形龍之介、春雨じゃ濡れて行こうの月形半平太、二本の刀をもっては宮本武蔵、長い刀を持っては佐々木小次郎」などが多く、悪役はだれもそんなになりたくなかったので、正義の味方同士の「戦い」となり、終幕は、どちらかの親分が手作りの柴木の刀で手や頭を打たれるなどして大泣き。それでみんながなんだか気まずくなり、それが「ごっこ」の終わりを告げる泣き声となった時も。堅雪の春は、そうやって遊んだ日々を思い出す季節ですが、共に遊んでもらった先輩・幼なじみの幾人かはもうこの世におりません。

さてこの日は、「もしかしたら」の期待をもって歩いていたら、その「もしかしたら」の思いが現実に。そうです、今年初のキノコ採りができたのです。キノコは毎年ご紹介している「ユギノシタキノゴ・雪の下きのこ(エノキタケ)」。雪が少ないため、キノコは何日か前より顔を出していたようで、ちょうど採り頃の大きさで黄金色に輝いていました。記録的にもっとも早い思わぬ初モノが採れたので、味噌汁でおいしくごちそうになりました。

予算特別委員会はじまる

村議会はきのうから今日にかけて予算特別委員会が開かれています。

各会計の補正案と来年度当初予算案が審査され、きのうは一般会計当初予算案のかなりの部分まで審査が進みました。

予算案の説明資料が以前とは比べものにならないほど充実しています(今ひとつ説明資料が必要と思われる部分はありますが)。なので、充実している分だけ予算審議にもとめられる着眼に沿い効率的な質疑応答が行えるようになっていると思われます。しかしそれは私のとらえ方であり、一日目の審査を通じて果たしてみなさんはどんな感想をもたれたか。

われわれが活動の初歩的な手引き書とする「議員必携」(全国町村議会議長会編・学陽書房刊)は、予算審議の一般的な着眼点として、1.基本構想との合致、2.重点、調和と均衡、3.経常経費の節減、4.人件費、物件費の抑制策と類似団体別指数との比較、5.経済効果、6.財源の留保、7.補助金効果、8.過大過小見積もり、不要不急、決算指摘事項の反映、不均衡、住民要望の反映はどうか等々をかかげ、さらに、歳入、歳出の細部にわたって着眼すべき事柄をほかにも列挙しています。議会は、こうした着眼をもって予算審査にのぞみます。

▼おととい夜から朝にかけて名残模様の雪が降りました。その雪で人里はふんわりと薄い白衣を一面にまといましたが、陽射しのなかでたちまちのうちにその薄い雪衣はなくなりました。でも、気温の低い奥羽県境の脊梁は夕方まで新雪はそのまんまで残っています。
議会からの帰り、夕日に照らされる三界山や県境のブナの木々に着いたその雪景色につい見ほれて車を止めました。

▼今朝はこの春初の本格的な堅雪となりました。童とともに河川敷を散策し、時に思いっきり雪原を駈けましたが、足はまったくぬからぬ堅雪本番です。

雪の上をどこまでもどこまでも自由に歩ける堅雪渡りの季節は、歳がいくつになっても心が躍ります。

3.11、記録的少雪の各集落

「雪の極端に少ない冬」として記憶にのこりおそらく語り継がれるであろう今冬の村。

成瀬川に沿い集落が点在する村が、記録的に雪の少ないままむかえた3月11日の各地区の残雪の様子です。

最初の写真のように横手市増田町湯ノ沢境の滝ノ沢地区では、田んぼの雪がほとんど消えた状態です。こんなに早く雪がなくなるのははじめてのことかもしれません。

川筋を上がるにつれて当然標高が増しますから積雪は少しずつ多くなります。それでも、きのうもお知らせしたように岩井川地区(2枚目の写真)でも田んぼの土が見え始めるほどに雪が無くなりはじめています。

ひと集落上がる毎に(3枚目の写真から)気温が低くなるためでしょう、椿川地区、そして大柳地区まで進むと田んぼはまだ雪で真っ白。それでも、家周りや山々は土肌が多くなり、普段の3月半ばでは見られない風景がひろがっています。

流域最南部の菅ノ台集落(最後の写真)もそれは同じです。いつもの年なら集落に向かう県道は厚い雪の壁で視界が遮られるほどですが、今年は雪の壁がほとんどありません。

こういう少雪ですから、国道342号や397号の春山除雪も今年は例年にないほど作業が早く進むかもしれません。少雪で雪崩の危険がもし早くなくなれば、国道冬季閉鎖解除がいくぶん早まる可能性もあるのでしょうか。

忘れまじ、大震災と大空襲の日

きのうは村議会3月定例会議2日目の本会議。

開会冒頭、東日本大震災で亡くなられた方々を追悼し全員で黙祷をいたしました。

写真は、9年前の大地震発生3日後と4月2日、宮城と岩手の津波被災地を写した時の様子です。私がかろうじて通った道路沿いでは、破壊された家屋やガレキが流れ着いた山岸で多くの消防団員が行方不明の方々の捜索に懸命になっていました。津波でねじ曲げられた鉄道のレールとともにあの時の光景は記憶に強く焼きついて離れません。

またこの年は震災直後の4月に村議選がありました。被災地の悲惨な状況を察し、世の中全体の通常のうごきが一転して何事にも自粛が配慮されていて、選挙もいつもとまったく違う状況下で告示日を迎え過ごしたことを思い出します。それは、内容は違いますが、今の新型コロナウィルス禍で過ごしている日々と多くの点で共通するものがあります。県内では3月の町議選が各地で行われますが、それら当事者のみなさんは複雑な心中で過ごされていることを察します。

さらに昨日は、東京大空襲から75年目の日です。一晩、わずか2時間ほどで、10万人以上の命が一瞬にして奪われたという東京大空襲。ほとんどの主要都市が同じように空襲をうけました。あの第二次世界大戦では国内で310万人、世界で6,000万~8,000万人の命が戦争によってうばわれたといわれます。さらに負傷者の数を加えればその惨事の大きさに驚くばかりです。我々が忘れてならないのは、戦争は人災だということと、国家の名で行われる最大の暴力で奪われる、その命のあまりの多さです。

▼議会は4議員の一般質問と陳情の審議をおこない散会しました。一般質問の内容は議会ブログをご覧ください。12日~13日は予算特別委員会です。

▼晴天、雨天と暖気が続き雪解けが加速しています。気温17℃となったおとといの晴れ空には、我が家そばの小さなフクジュソウ群生地が、私の知る範囲では最も早い時期に花満開となり、ミツバチの仲間たちが群がっていました。

集落の山々は、3月10日としてはめずらしいほどに雪が少なく、地面が露わになっています。集落入り口にある我が家のたんぼも、畦ばかりか一部では田んぼそのものの土も見えるほど。きのうからの雨で成瀬川はこの春一番の増水となりました。三寒四温を繰り返しながらも、異常な雪消の早い春はさらに加速してゆくようです。

県境尾根の雪景色とノウサギ(その2)

長い時間をかけてやっと上がった尾根なので、行きつ戻りつ、上がり下がりしながら、視界に入る山と沢を俯瞰し望む。そこは、シャガヂアゲ(アゲは急斜面を上がり下がりできる場所)、クロポシ、ナガノアゲ、エシャガのアゲ・ハッピャクヤアゴ(胆沢川のアゲ、八百八歩)、オオモリザ(語尾につくザとサは沢の意)、カッチナシ(カッチは沢の最上部)、トビダゲヒド(トビダゲはきのこのトンビマイタケ、ヒドは沢よりさらに小さな窪地)、サガサガ(語尾のガは沢や川の意)、タゲヒギザ(竹引き沢)、ハヂベェティ(八兵エ平)、フコシ、スソノモリ、オシバ、コシバ、オシバサ、メェグラ(前倉・クラは崖の意)、ヌゲノサ、カラポリ(水の流れがいったん地中にもぐりこむ沢)、オサ、カザヨド(風よど)、オイワ、コイワ、シシパナ、ゴンシロウ(ゴンシロウ森)、タゲ(焼石岳)、サンサゲェ(三界山)、ミナミノモリ、ホソヅル、ウシコロ、ササモリ、イワナメザ、ジョノグラデイ(丈の倉平)、ダダラ、などなど集落の人々に愛され名付けられた大自然である。

ここはみな胆沢川流域で岩手内の国有林だが、その山は岩手側にもかかわらずちょうど南本内川流域と同じように東成瀬村地元集落の暮らしと深く関わってきたところ。だから、前述のように、県域は岩手の山なのに東成瀬・岩井川、椿川地区の人々が名付けた沢や山の名も多くある。自分たちの「くらしの山」だったからである。ちなみに、国道397号がつくられる時、測量の時だったろうか、胆沢川上流域の道案内をつとめたのは岩井川のマタギ谷藤嘉一氏(故人)だった。それを顕彰してだろう、胆沢川の上流部にあたるダダラ上の砂防堰堤そば通称タゲデッツァ(ツァも沢の意)をまたぐ国道397号の橋には「かいち橋」と名が刻まれ、タケデッツァは共通名として「かいち沢」とやはりその名が記されている。

尾根から視界に入るほとんどのブナ山や沢は、小学生、中学生、そして10代の若い頃からイワナやカジカ獲り(胆沢川上流域の清流カジカは「エシャガカシカ」と呼ばれ美味で人気があった。今は、砂防堰堤より上流域からは絶滅したのか?)、山菜キノコ採り、冬山や春山歩き、ブナ材の伐採搬出、択伐(選択伐・抜き伐り)された切り株へのナメコ栽培などで春から秋まで仕事をするなど、大森山トンネルのない時代から通い続けたところ。

岩ノ目沢の左岸から西北の県境にかけては、胆沢川との合流点近辺を除いて択伐もふくめ一度も伐採されたことのないブナ原生林。なので、樹齢の重なった古木、大木が多く、雪山の景色眺めには絶好の林としてあげることができる。

ところで今回の山行では、そうした景色眺めとともにもうひとつの目的が雪上でのノウサギとの出会いだった。

ノウサギの生息数は、先日も記したように激減して久しいが、ここ沼又沢は範囲が広いこともあっていくつかの足跡が前日降った新雪上にくっきりとのこされている。それらのうち、たまたま2匹のノウサギとご対面することができた。

まず一匹は、大森山トンネル手前のススコヤ(すずこやの森)の沢。国道397号に出て沢の斜面を眺めたら、すぐにそれとわかるノウサギが低木の下に伏せていた。それは、とっくにこちらに気づいて警戒している姿で、眼の玉をまん丸にありったけ開いている。

ノウサギは、夜の活動を終えればそのほとんどは低木・柴木の下に深浅様々な雪穴を堀り、昼はその出口に伏せて休む。その伏せ場は天気や季節によってほぼ決まっていて、長年の狩りの経験から我々はそのおよその居場所を推測することができる。このノウサギも、昔からよくいわれた伏せ場にいたのである。

少し遠かったが、まずは逃げ出さないうちに伏せている姿を写真にした。後に遠回りして上部からウサギに5㍍ほどまで近づいた。姿が確認できたのでシャッターを押そうとした瞬間にウサギは跳びだし、たちまちのうちにススコヤの沢を越え県境の尾根方面に消えた。かろうじて跳ねる後ろ姿をとらえただけで、近くからの写しはできなかった。

2匹目のノウサギは、上がる途中に留め跡(夜の活動を終えて休む時につける特徴ある足跡)を見ていたもので、「帰りに、写真を」と楽しみを残しておいていたもの。

ノウサギが休む時の留め跡の特徴をこれまで幾度か記しているが、そのおよそは次のようなものである。まず、彼らは夜の食事行動を終え休もうとすると跳ね幅が小さくなり、進んでいた方向を突然反転させて同じ踏み跡を戻る。これを村の狩人は「もどり、すけだ(戻り足を着けた)」という。伏せ場に隠れるための忍びの術はそれだけではない。戻り足の次に彼らが必ず行うのはトッパネ(跳っ跳ね)の術。戻り足をいくらか進めて後に急にほぼ直角で横にポーンと大きく跳ね飛ぶのである。「もどり」に続き「トッパネ」があればノウサギは確実にその足跡そばに伏せているのである。

こういう動きを一度で済ませる個体もあれば、警戒心の強い個体では何度かそういう術を繰り返すのもいる。

さて、その2匹目のノウサギは、やはり留め跡すぐの低木下に伏せていた。いつでもシャッターを押せるようにしていたが、今度はこちらの発見が遅く、わずか数㍍まで近づきながらも伏せている姿は写せず。それこそ脱兎のごとく跳び出したウサギは、ブナ林の中からあっという間さえもなく見えなくなった。再生画面をのぞいたら、木々の間を跳ねる遠くの姿がなんとかカメラにおさまっていた。

今冬にはあきらめていた県境の雪景色眺めは、期待したようではなかったもののまずまずの景観に満足。やはりもう無理だろうと思っていたノウサギとの出会いも、近接でとらえることはできなかったがこれも出会えただけで満足。難儀して歩いた甲斐があったというもの。

7時間ほどのカンジキ履き一人漕ぎ歩きだったので、帰宅したら足腰はかなりガタガタ。若い頃なら、真冬のもっと深い雪をこいで沼又沢に往来し、重い猟銃と弾、大き目の双眼鏡、二食分の食料と飲料、ナイフ、ひもなどを背負い、猟果があれば数匹のノウサギをさらに荷に加え帰ったもの。そういう元気、無頓着であった昔と想い比べながら、体の衰えを実感した山行でもあった。

県境尾根の雪景色とノウサギ(その1)

休日で晴天となった7日。予定は中学校の卒業式に向かう日だっだが、後の小学校もふくめ来賓の参加がなくなった。8日の猟友会ノウサギ巻狩りも新型コロナ禍中止となった。

前日に10㌢ほど新雪が降っていたので「県境の尾根まで上がれば、いい雪景色が見られるかも」と、妻には前の日から「空がよければ山に向かうかも」と告げていた。

明けた7日朝。期待通りの晴れ空とまではならず、向かおうとした県境の尾根、奥羽の脊梁方面には雲が厚い。それでも「後に晴れてくるだろう」と7時半過ぎに自宅を出る。

ジュネス栗駒スキー場方面分かれ、冬季閉鎖の国道397号から歩き始めは7時45分。予想したより雪が深く、カンジキをつけても足が20㌢以上雪に沈む。吹きだまりではそれ以上だ。これだけ足がぬかれば早歩きはできない。しかも、場所によっては2段ぬかり(一度踏み込んだ足がさらに下に沈むこと。これは歩きにくい)もある。

歩き始めて200㍍ほど。「ここでこの雪の深さだと、標高を上げればさらに深くなるだろう。尾根までは無理かな?」でも「まず、上がれるところまで行くか」と、止めるか行くかの思案を混ぜながら歩を進めた。結局、そういう「もやもや心」のまま予定の半分以上の距離を上がった。そこからは天気も青空が次第に増えてきた。それもあって「尾根をめざす」ことをようやくはっきりと決めた。

歩きのコースは、昔の狩人が猟に向かった道、ブナ材の春山伐りだしの人々が県境の尾根を越え胆沢川流域の国有林に向かった道と同じ。県境に最短で上がれるほぼ直線の雪上コースだ。しかしこの日は、直線コースをとっても前日の新雪もあって足がぬかり時間がかかる。

すすこや(すずこやの森)の上部、通称「ゴンパ」近くまで上ったら木々に張り着いた雪が陽射しで解け始め、ブナの林でその雪の片がいっせいに音をたてて落ち始めた。林内はその雪煙りで霧がかかったようになった。それはまるで雪のシャワーのようだ。「早く着かねば、樹から雪が落ちてしまう。せっかくの雪景色が拝めない」気は焦る。

気は焦るが、カンジキ履き20㌢越の雪漕ぎ一人歩きはやはり時間がかかり、県境の尾根にたどり着いたら12時を回っていた。たったここまで来るのに4時間半もかかったことになる。県境にたどり着く手前では尾根筋に人影がちらりと見えた。スキー場から上がってきた山スキーを楽しむ方のようで、彼は、雪庇の発達した尾根の風上側、安全な場所を選びながら大森山方面へ上がって行く。

県境尾根の雪景色を期待していたが、そこでも木々から雪が落ち始めている。かろうじてまだ雪が着いている木々や胆沢川、焼石方面をひとまず眺めた。里は、記録にのこるほどの少雪で早い春の訪れだが、ここ県境のブナ林と焼石連峰はやはりまだ真冬の様相。時折青空がのぞくが、雲の流れは速く、横手盆地からの西風が強く当たる県境の尾根は寒い。木々には強い北西の風によってできる海老のシッポ(冷たい強風によって雪が木々に張りつき、風下側に出来た海老のしっぽのような雪の造形)も。

「休憩どころではない。こうしてはいられぬ」と歩きながら食事をとり、千古斧の入らぬ胆沢川支流岩ノ目沢の原生林に向かう。もう正午をとっくに過ぎ、青空の範囲も多くなった。それでもここまで上がれば気温が低く、木々にまとわりついた雪がまだ多く残っていて、斜面を上がり下がりしながらほぼ期待に近いブナ林の景色を眺め続けた。

後にまた北上川と雄物川を隔てる分水嶺の県境尾根に上がり、青空のやや増えた同じ景色を展望し村側の通称「ゴンパ」のブナ林をまた下る。ここは、昔からノウサギ猟の絶好の狩り場だったところだ。

崩れた堰跡がおしえるもの

村のあちこちをめぐり歩くとき、私の心に強く留まるいくつかの風景があります。

そのうちの一つが、はるか昔に田んぼへ水を引くためつくられ、今は使われなくなってしまい崩れた堰(用水路)の跡です。

写真の一枚目は椿川のウムシノ橋からのぞめる成瀬川沿いの断崖につくられた堰。二枚目は岩井川のやはり成瀬川河川敷南方の黒滝地区(通称・むげ)につくられた崖沿いの堰。

いずれも、崖を削ってつくられながら現在は廃れてしまった堰です。これを見れば、米づくりに尽くした昔の人々の苦労がひしひしと感じられ、当時の「お米の価値」のありがたさ大きさをうかがうことができます。

ウムシノの堰は、写真部分よりすぐ上流の崖が崩れるなどで廃れたものの、それより下流は別の引水方式(ポンプアップ)に切り替えられ今も手倉西地区の田んぼをうるおしています。一方、岩井川黒滝の堰は完全に崩れ、もちろんそこから水を引いた田んぼもかなり以前から耕されず、今では農地であったことがやっとわかるほどに80㌃ほどの地は廃れてしまいました。

二つの堰とも廃れ崩れてしまいましたが、岩を削ってつくられた箇所には堰の跡がはっきりと遺ります。それは、主食の米を得るために人々が糊の汗を流した苦労を知る遺跡であり、この国や村の歴史を動かすうえで大きな役割を果たし続けた稲作の歴史がうかがえる遺跡でもあります。

童と「生きもの探し」

新型コロナウィルス禍、学校が突然のいっせい休校となった童とともに、雪上歩きと生きもの探しで少しの時間を共に過ごしました。

異常といえる降雪量、積雪量の少なかった寒中に加え、立春以降も2月、3月と温暖な日が続き、雪解けはいつもの年よりはるかに早い速度で進んでいます。

雪解けの進み具合がそうなので、カンジキ履きでめざしたのは清水の湧き出るいつもの場所。毎年春先に2人でここを決まって訪れます。目的は、まだ冬ごもりから目覚めていないカエル(アカガエルの仲間でしょうか)やサワガニ、それに小さなサンショウウオと出会うこと。

例年2㍍以上の積雪がまわりにある真冬でも、ここは清水の湧口ですから雪が積もらず。ミズバショウも自宅の周囲では最も早く芽生えを見せる所です。生きものたちが隠れていそうな石を起こすと、サンショウウオやサワガニが次々と姿を見せ、稀にカエルとの出会いも。

昔、私らが童の頃は、食べる目的でこのサワガニを捕りに向かい、サンショウウオは「薬になる」などと、遊び心もあわせて生きたそのままを(いわばサンショウウオの踊り呑み)2匹も3匹も呑み込んだりしたもの。こういう清水の湧口にくると、雪解け始まりの3月の季節に自然と溶け込み戯れた童の頃に私の想いは返ります。

小沢の流れそばにはバッケ(フキノトウ)もいっぱい出ています。「これは、みんなへのお土産に」と、2人でおいしそうな若芽をたっぷりと摘みました。

歩きの途中、杉林の雪上にリスの巣が落ちていました。杉の皮を薄く剥がしてフワフワふとんのような巣をリスはよくつくります。見上げたら、木の途中にも巣材のかけらが垂れ下がっていました。

今使っている巣なのか、使い捨ての巣なのか、はてまたどんなはずみで樹上から落ちてきたのか(天敵に襲われたのか、風か雪の影響か)はわかりませんが、雪の上では時々見かけること。こういう様子を童ははじめて目にしたようです。

3月定例会議はじまる

村議会3月定例会議がきのう始まり、施政方針、行政報告の後に提出議案の説明がされました。

ひきつづき開かれた常任委員会では、付託された3件の陳情が審査されました。

今日正午までには一般質問の通告が締め切られ、10日に質問が行われます。その後に、12日と13日には予算特別委員会の審議も行われ、補正予算案と当初予算案に対しての質疑応答が交わされます。

私も開会のあいさつで一言だけ触れましたが、学校のいっせい休校に関わることや、ホテルブランへの新型コロナウィルス感染症についての影響などが各行政報告でも述べられました。

科学的根拠が明確にされないままでの、全国的なあまりに唐突で一律いっせいの休校要請には、関係する諸々の現場や子どもをもつ家庭から、戸惑い、不安、不満、憤り、苦労の声が渦を巻いて出されており、私にもそうした声のいくつかが寄せられております。政治は、こういう声に真摯に向き合わなければならないと思います。

雪上にのこる弱肉強食の痕

雪の少ない冬だったので、いつもなら2㍍ほどの積雪に覆われている生活用水路も、今年は多くの箇所でもう水路が露出しています。そのため、風で落下した枯れ木や落ち葉が水路や取水口に詰まりやすく、頻繁な見回りが必要となっています。

29日、その見回りついでにそばの里山をカンジキ履きで3時間ほど歩きました。

生活用水路と同じように里山の小沢もほとんどが雪に覆われていないため、この春の雪上歩きはいちいち小沢を越えることが多くなります。雪解けの早い斜面にはいずこでも、豪雪の村では早すぎるバッケが見られます。

この日の雪は表面がパサパサしていて、キツネ、テン、リス、タヌキ、カモシカ、ヤマドリなど、夜に歩いた生きものたちの足跡が雪上によく残っています。ただ、3時間ほど歩いても、カメラにおさめようとした肝心のノウサギは見られず、動き回りもたった一匹がつけた足跡だけ。いつものことながら、ノウサギの激減には驚くばかりです。

杉の林の中を歩いていたら、杉に混じって植えられたトドマツの仲間の幹に大グマの爪跡があり、樹皮が大きく剥がされています。旧い爪跡もあれば、昨年につけられた爪跡もありますから、この松の木にはクマがよく通っているようです。彼らは、杉やホオノキ、ヒメマツなどの樹皮を剥がすことがありこのブログでも幾度か紹介しています。この松の皮は幾年かにわたって剥がされています。皮を剥がす主な目的は何か、諸説ありますが、正確なことは私にはわかりません。

山中の積雪は1㍍ほど。ブナ、ミズナラ、ホオノキなどの林では、それらの木にからまってのびるヤマブドウの太い蔦にたくましさを感じます。雪が少ないのでユキツバキがもう雪上に出て、濃い緑を風に揺らしています。クリの木には、昨年秋にクマが実を食べようと枝を折り溜めた跡も。

視界のひらけるブナ、ミズナラの林を歩いていたら、キツネの足跡が集中してみられる箇所があります。立ち止まったら、雪上の一地点に広く血の滲んだ痕があります。確かめたら、オスヤマドリの尾羽の跡が軟らかな雪に残っています。それはオスヤマドリが飛翔してきて雪上に下りる時に尾羽が雪に触れてつく特有の跡です。

推測するに、これは雪上に下りたヤマドリが、下りてすぐにキツネに襲われた痕と考えられます。ヤマドリにとっては最大の不運、キツネにとっては、そうはない偶然の獲物とのうれしい出会いだったのでしょう。山を歩けば、このような命をめぐる自然界の厳しい生態のあれこれを知る場面がよくあるのです。