童と雪上歩き

14日朝、気温はマイナス2℃。前日午後にふんわりと落ちてきた新雪がやや締まり始めた残雪上に薄く重なりました。

しかし前夜も朝も本格的な放射冷却とはならず、雪原も堅雪本番とまではゆきません。でも、なんとかカンジキなしで雪上を歩けるようでしたので、新コロ禍、訪れていた休校中の童とともに外の歩きへ。

まずは、川通野の我が家田んぼそばにある里山に向かい、マミ(アナグマ)とムジナ(タヌキ)が分かれて棲んでいるらしい土穴見学をしました。相変わらずここにはかれら大家族が暮らし続けていて、雪上には、数カ所の穴が雪を突き抜けて空いています。それは冬の間も生きものが棲んでいる証拠です。案の定、一部の穴からは出入りの新しい足跡も見られます。この日は本格的な堅雪でないため時間が経つにつれ雪がさらにゆるみ、足がスボッ、ズボッとぬかるようになりました。

帰りには、林の中の小沢と湿地を通り「ここでは、我が家の昔々の先祖の代に、小さな田んぼをつくったことがあるのだよ」と童に教えました。わずか5坪ほどの田んぼが「嫁に来たとき、1枚ここにもあった」と母は語ります。そんなわずかの場所でも、水と平地があればあの時代はお米を穫ろうとしたのです。この小さな田んぼの役目はやがて終わり、まわりには杉が植えられ今はうっそうとした林です。沢には、わずかに昔の畦らしい土を盛った形跡が見られます。

90歳になる母は「もっと上でも、何枚かの田んぼがつくられたことを、先代から聞いたことがある」と語ります。上部の台地では、近くのAさん方で畑を耕したこともあり、「ジギ桶(人糞を入れた桶)をジンジィ(爺さん)がてんびん棒で2つかつぎ、リヤカーも通れねェ曲がった急な道(はるか昔の岩井川と手倉地区を結んだ古道)を上がっていたもんだ」という旨を母は語ります。

歩きついでに、この日は、その古道そばにある「五穀神社」の石碑にも立ち寄りました。古道はいわゆる「あかみち」で昔の村道。それははるか平安の時代から古の人々が歩いた道でしょう。合居川を挟んだ北方真向かいは遺跡で名の通る矢櫃の高台です。故あって津軽の殿様が参勤交代で仙北街道を越えたと村郷土誌は記しますが、その時はこの川通道を通って仙台領に向かったのでしょう。日本海側を北へ向かい出羽から平泉に逃れてきた源九郎義経や弁慶も、最短で平泉につながるこの川通の道を通った可能性が大きくあります。この古道跡は、そんなロマンをおぼえるところでもあるのです。

さて、そこにあるのは昭和17年5月12日と刻まれた社の石碑です。小高い丘まで重い「合居川石(石英斑岩?)」を運び上げたのは我が家の先祖を含む開墾組合の人々です。馬場の川通野に田んぼを開くため、開墾組合で沼又沢から堰を堀り完成した年なのかどうかはわかりませんが、石碑はおそらく雪の上をソリで上げられたのでしょう。それからおよそ80年近く経った小高い丘で今年の豊作を願いましたが、童は古く苔むした台座裏に注目しながら何か別のことを願ったようです。石碑のそばの松の木の皮が剥がされ、クマの爪跡がここにも見られます。

▼生きものの棲む穴見学と、ちょっとした歴史を辿る歩きの後には、河川敷伏流水の湧口でいつものノゼリやクレソン摘みです。冬に生長を休んでいたノゼリもクレソンも、差し込む陽射しが春模様になると草丈の伸びがやや進んできたように見え、葉の色もわずかに緑の鮮やかさが増してきたように感じます。

湧水の小さな淵には、冬の間中も姿を見せ続けていたニガッペ(アブラハヤ)と川ザッコ(ウグイ)の混じった群れが、今も元気に小さな住み処を回遊しています。こちらも、春になったら動きが少し活発のように見えます。

春の清水の菜を摘んだ後には、雪原にいっぱい出ている背高のっぽのサシドリ(オオイタドリ)の枯れ茎を折り取って久しぶりに童とチャンバラごっこも。それは、こちらが童心にかえる時でもあります。サシドリは茎が空なのでまちがって打たれてもそれほど痛くなく、枯れ茎は童との戯れにはもってこいなのです。茎が空洞のサシドリや、低木マメボッチ(キブシ)の木のまっ白い芯を抜いて木に穴を開け、笛をつくり遊んだ当時を思い出すのも、堅雪を歩けるこれからの季節です。

いつかも記しましたが、こちらが童の頃の堅雪の季節は、柴木で刀をつくっての「タダガェッコ(チャンバラごっこ)」はいちばん多かった遊び。自分で「刀」にもっとも良さそうな柴木(ガザキ(タニウツギ)、ホウノキやコシアブラの幼木が多かった)を切り取り、それを手にして集まり、組を2つに分け、近くの神社の2つの小さな社をそれぞれの「城」にして、「名をなのれ」で組同士の「戦いごっこ」が始まります。

名のり合いでは、「清水の次郎長、森の石松、大政、小政、赤胴鈴之助、東千代之介、月形龍之介、春雨じゃ濡れて行こうの月形半平太、二本の刀をもっては宮本武蔵、長い刀を持っては佐々木小次郎」などが多く、悪役はだれもそんなになりたくなかったので、正義の味方同士の「戦い」となり、終幕は、どちらかの親分が手作りの柴木の刀で手や頭を打たれるなどして大泣き。それでみんながなんだか気まずくなり、それが「ごっこ」の終わりを告げる泣き声となった時も。堅雪の春は、そうやって遊んだ日々を思い出す季節ですが、共に遊んでもらった先輩・幼なじみの幾人かはもうこの世におりません。

さてこの日は、「もしかしたら」の期待をもって歩いていたら、その「もしかしたら」の思いが現実に。そうです、今年初のキノコ採りができたのです。キノコは毎年ご紹介している「ユギノシタキノゴ・雪の下きのこ(エノキタケ)」。雪が少ないため、キノコは何日か前より顔を出していたようで、ちょうど採り頃の大きさで黄金色に輝いていました。記録的にもっとも早い思わぬ初モノが採れたので、味噌汁でおいしくごちそうになりました。