農地パトロール、赤滝寸感

CIMG0190-1CIMG0191-1CIMG0194-1CIMG0197-1CIMG0202-110月の農業委員会総会がきのう開かれ、会議終了後は村内の農地パトロールを役場農林課とともにおこないました。

利用されていなかったり、かろうじて保全されていた農地が、ワラビや景観作物のひまわり、それに大根が作付けされるようになった現場に足を運びました。

人の手が加わることによって村全体の農山村景観、「美しい村」が成り立つことをあらためて確認したパトロールでした。

途中、村の米利用施設や畜舎を視察。施設では、食味、品質でどこにもひけをとらない最高級のあきたこまち「仙人米」の新米が精製され、農地の有効活用と村の畜産振興とつながる飼料用米も積まれていました。

CIMG0166-1CIMG0178-1CIMG0152-1CIMG0157-1▼先日おとずれた赤滝、赤滝神社は小さな社で、能恵姫伝説に登場する湯沢市岩崎方面の方々の参詣は根強くつづいているようです。、社の壁にはそちら方面の土地改良区の方々が昭和45年7月に参詣した跡なども記されています。ここは成瀬川下流の民にとって雨乞いの社でもあったのです。

滝壺の周りは国有林。滝をすぐそばに見下ろすブナ林には、木炭をつくった旧い炭釜跡もまだ目に入ります。赤滝をそばにしての炭焼き、この釜の造り主は、たまの休憩時に釜の煙をあげながら四季折々の赤滝をゆっくりと眺めるときもあったのでしょうか。ひとりで、あるいは妻と二人でとか。

旧い炭窯のそばには、私がよく立ち寄るシラグヂヅル(サルナシ)の見事な蔦もまだまだ健在です。この蔓からも、炭焼き人はカンジキの輪を締める蔓をいただいたのでしょうか。

CIMG0160-1CIMG0162-1CIMG0164-1CIMG0167-1CIMG0171-1CIMG0154-1CIMG0149-1CIMG0139-1CIMG0133-1CIMG0131-1CIMG0126-1CIMG0122-1CIMG0183-1▼きのうの赤滝の写真少し暗すぎました。同じ日、同じ時刻に別のカメラで写した赤滝を載せました。おととい書き落としたことがひとつあります。滝の写真は、時間、季節、天候だけでなく、カメラなど機器のちがい、それになんといっても「技」のちがいで、まったく変わったものになるということです。わたしの写真は「写ればいい」という単なる記録なので「技」は別ということでご了解を。

今秋はじめての赤滝の紅葉

いつものように役場で用務を済ませた午前、村内への所用ついでに赤滝まで足をのばしました。三界山や南の森など焼石連峰はきのう朝に初冠雪確認です。議会では、20日発行となる広報の最終の編集委員会がおこなわれました。

DSC_0281-1DSC_0282-1DSC_0287-1DSC_0279-1さて赤滝。赤滝の紅葉は、私からみれば大きく分けて3つ区切りの美しさがあります。つまり、滝と、滝壺となっている渕の周囲の木々がほぼ3段階にずれて色づくからです。

とくに滝をもっとも美しく飾るもみじは樹種が様々、赤から黄まで色もちがいます。きのうは秋たけなわの赤滝第一段階の美しさというあたりでしょうか。いまはまだ緑、周囲でいちばん葉っぱが多いもみじがこれから真っ赤に色づくのが第2段階、わずかにみられるもみじが黄色に染まるのが華やぐ秋の最終章の赤滝です。

3つ区切りの美しさとともに、同じ区切りでも時間と天気で赤滝は様々な表情を見せます。

訪れる時が朝か、午前か、昼か、午後か、夕方か、その日が晴れか、曇りか、雨か、風や霧のあるなし、もうひとつ加えれば滝の流量、これらの違いひとつひとつで滝景色はみんな変化します。

それと、先の台風18号による洪水(茨城・栃木、宮城の大水害のあった豪雨)で滝壺の上下、とくに下流側は、石の配置も流れもここ数年に見られないほどずいぶん変わっています。宮城の河川氾濫で被害の大きかったのは県境をはさんだお隣の大崎市でした。赤川方面、ということは栗駒山麓方面への降雨がなみはずれて多かったことを、川の変化でまた再確認しました。

ところで赤滝。数年通い続けていますが、「これは見事」という紅黄葉を見られたのはまだ一度だけ。昨日も、晴天ながら風があり、雲がありで、色映えはやや物足りなし。滝の守り神・能恵姫様は、もっともきらびやかな姿を私にはなかなか見せてくれません。

CIMG0181-1滝への道沿いに、晩生のアケビが熟れていました。早生にくらべて食べ物はなにかと晩生は美味しです。むかしの童たちは、この季節の、晩生のアケビがおいしいことを知っていました。

栗の実の季節が終わったちょうど今頃は、熟れたヤマブドウと晩生のアケビ採り、それにブナグリ(ブナの実)拾いへと、放課後と休日のすべてをつかいました。たんぼや畑の穫り入れ仕事手伝いの合間を縫ってですが。

DSC_0295-1▼赤滝の戻り、先日眺めたいずくらの紅葉にも足をむけてみました。やはり風と雲もありお天気がいまひとつでパッとせずです。山の色づきはまっ盛りのうちにはいるでしょう。

第1回目の芥川賞・石川達三氏の蒼氓を読んで

CIMG0117-1第1回目の「芥川賞」を受賞したのが秋田県横手市生まれの石川達三氏だということを知る人は多いでしょうが、その受賞作品「蒼氓」を私は読んでいませんでした。

本をもとめるのは、買い物ついでに立ち寄る町の本屋さんや、都内への出張で立ち寄る図書数の多い本屋さんなどで、芥川、直木の両賞発表があっても、それらの受賞作品をめあてに本屋にむかったことは私の記憶にはありません。今回もそれは同じです。

そういう関心程度の私が、行きつけの本屋さんで、たまたま一冊置かれていた(私にとっては幸運にも買い残されていた)本が目に止まりました。それが写真の「蒼(そう)氓(ぼう)」です。

自分の好きな作家の著書ならそんなことはほとんどありませんが、はじめて読もうとする作家の単行本を求めるときには、近頃はとくに消費税も加わって価格も安くないことから、たいがい、解説のページをめくるなどして慎重に品定めをします。求めるに値するかどうかの思案をそうとうに巡らせ、手にとったり棚にもどしたりしてやっと決着をつけます。そもそも文学作品で単行本を手にすることは稀で、みんな文庫の発刊待ちです。

そういう私が、なぜ「蒼氓」を手にとったのかということです。「芥川賞」の初回受賞作品とはどんなものであったのか、それに県南生まれの石川氏の作品を一度はじっくりと読んでみたいという思いが強くはたらいたのだと思います。ただの県南生まれの方というだけでなく、日中戦争下に著した「生きてゐる兵隊(中央公論社)」が即日発売禁止となり、禁固4月、執行猶予3年の刑となるなど反骨の意思堅き仁賢の士という石川氏の人柄、「金環蝕」など社会派作家とよばれた権力をみる姿勢、日本ペンクラブ会長として思想表現の自由を何よりも重視した骨太き人間像というものにおそらくひかれていたからでしょう。国家のほんとうの意味での安全保障がまだ戦後70年なのに危うくなっている今、戦中当時を真摯に振り返らねばということも「蒼氓」をもとめる引き金だったかもしれません。

たった一冊の本ですが、久しぶりに「蒼(そう)氓(ぼう)」はいっき読みしました。昨年、芥川賞は150回をむかえた記念の年でした。郷土のしんぶん秋田魁新報社も昨年創刊140年をむかえ、その記念として「蒼氓」は復刊されていたのです。石川氏はお隣の横手市生まれです。

「蒼氓」は今から80年前に著された作品ですが、国家というもの、人間というもの、「人のほんとうの幸せとは何か」、今にも通ずる社会の永遠の課題をするどく問う筆力で読み手をひきます。前述の復刊は、「芥川龍之介賞経緯」として、久米正雄、佐藤春夫、山本有三、そして芥川賞、直木賞を創設した菊地寛の各氏の言葉を載せています。読めば、新人の文学賞として最も位が高いと評される賞の歴史をたどる楽しいきっかけとなります。
同じように郷土出身作家「蟹工船」の小林多喜二など、わが秋田は、なんと骨太き、権力におもねないペンの力をもった作家を輩出した地でしょう。第一回芥川賞は最後の選考に残ったのが5作。あの太宰治や高見順等の著作と選考され、「蒼氓」は受賞されたのです。

高貴な味と香りのシモフリシメジ登場

CIMG9979-1CIMG9989-1CIMG0031-1CIMG0036-1CIMG9995-1CIMG9997-1CIMG9998-1CIMG0027-1CIMG0039-1CIMG0043-1CIMG0045-1「秋の深まりがいつもの年より早い」と言われつづけてきた村。素人キノコ録のこのブログも、もう晩秋のキノコたちを載せるほどになりました。

今回登場させるのは、村でコナラヒメジと呼ぶシモフリシメジ。味の高級さと共にシメジとしてはめずらしく高貴な香りも併せ持つキノコ。高級なイメージとは裏腹に1箇所での発生量が極めて多く、何年かに一度の発生条件のよい年に運良く当たれば、ものの見事な菌列を目にすることができます。

まだ早生ものの時期でしょうが、シメジ類の発生がとてもよかった年だけに、今後に期待がもてそうです。茶碗むしやお雑煮、お吸い物には最適のキノコで、わが家では早速茶碗むしでいただきました。

シモフリシメジ(写真1~4枚目)の脇には、晩生のオオヒメジ(ホンシメジ、写真5~10枚目)もカオを出し、先の強風で落果した完熟のヤマブドウが地面のあちこちに。拾って口に含んだら、熟しているのでその甘いこと。

CIMG0114-1▼11日は村の「なるせ赤べご祭」に前半だけ出席。昔のわが集落なら時々は口にはいった赤べご肉。今はおそらく多くの方々が初めてでしょう、短角牛の焼肉を口にして「軟らかくておいしい」「脂身が少なくて飽きがこない」という言葉をたくさんお聞きしました。

村では明治40年頃から放牧飼育されはじめたといわれる伝統ある日本短角牛(赤べご)。新たなかたちで村特産の牛肉としての期待がされる赤べご。トマトなどとともに、この国土この村の条件に適合した農業としてのばしてゆきたいものです。

ジュネススキー場のゲレンデ草地をいかした夏場の焼き肉コーナーなど、ホテルブランのやまゆり温泉(口コミなどで新しい温泉の人気がどんどんひろがり、常連利用も多い)などとも結んで、ゲレンデ界隈一帯で夏期も楽しめる場づくりができれば、特産の短角焼き肉はおおいに役割を果たせそうです。短角牛の肉が少し残る骨をまさかり(斧)で割り煮込んだこれぞ本命の「どが汁」などを食した昔の頃を、つい思い出してしまいました。

CIMG0115-1▼同じ11日の午後、家族だけによる孫のささやかな誕生祝いをおこないました。息子の連合いは一人娘さん。「家」と「個」のしがらみと絆が濃くある農村で、いわゆる跡取りの立場にある息子も、一人娘の新妻も、そして双方の「家」も、相当の思案の末、横手市の新妻の地に新居を構えての生活です。世間でたまにみられる「サザエさん、マスオさん」のような世帯に彼らは似ています。こちらとしては初の「内」孫ではあるものの、私らとは同世帯でないという生活が9月末からはじまっています。

CIMG0059-1▼11日の通りすがりに合居川渓谷・柱状節理「いずくら」の紅葉をのぞきました。「もう4~5日したらまっ盛りかな」という色づきでしたから、今週はきっと見頃でしょう。

薪ストーブに切り替え

CIMG1157-1それまで小さな石油ストーブで暖をとりはじめていたわが家では、この週初めに意を決して薪ストーブを設置、温みのある本格的な暖房へと切り替えました。

北海道にむかった台風23号の影響でしょう猛烈なからっ風が吹いた昨日、雨はないので、ハサ架け稲の脱穀や終盤に入ったコンバイン刈りの作業風景が村のあちこちでみられました。

所用で通った横手にむかう途中、平鹿地域のアップルロード沿いの園地には、強風で落下したりんごがかなり見られました。もしかしたら、この間の台風よりも落ちた数は多いのではと思われるほどで、坂を転げたりんごが道路にまで落ちてきていました。

落ちたりんごを集める農家の方々が忙しそうに動き回っていましたが、果樹農家の苦労も大変なもので、強風による落果の心配は収穫が終わる11月初め頃まで続くのでしょう。りんごがある程度の値が張るのも、こういう苦労をみていればよくわかります。

こちらは、妻と共に収穫後のたんぼの水切り(排水)作業に従事。夏期の間に水管理の手抜きをした罰みたいな仕事で、連れ合いに申し訳なさを感じながらの作業日となりました。

CIMG1154-1わが家のまわりに次々とカオを出すハタケシメジ。およそ一月採り続けてきて、それでもまだ出てくれるのですからうれしいものです。いかになんでもこれが今シーズン最後のカオでしょうか、おいしそうな姿が草むらの中に見えました。お吸い物にして、味シメジのうま味をたっぷりと楽しめそうです。

木の実も豊穣です

CIMG1139-1CIMG1140-1CIMG1141-1CIMG1155-1わが家の後ろには昔からクルミの木がいっぱい。

こちらが小学生の頃は、まだ木にクルミの実が着いている初秋の頃に「クルミ落とし」に夢中になったもの。樹の下から石つぶてや棒で落とし切れない実もあり、最後には木に登って「落とし」にとどめをうったものです。

ある日、ある時、隣の遊び仲間と二人木にのぼり、たまたま二人で同じ枝に足をおいたら、二人の重さをささえきれず「ビリッビリッ、ビリビリビリー」と枝が裂け、実のなった枝ごと落下した思い出もクルミにはあります。このときはたまたま下に葛のクッションがあり地上に直接落下とまでは至らず二人とも助かりました。いろいろな「落ちる」を人生で何度か体験していますが、この時の落ちる瞬間の緊張も私の記憶からなかなか消えそうにありません。

そういう冒険までして手に入れようとしたクルミや栗の実。今は、実を拾う方は少なく、リスもまだ集めきれないのでしょう、わが家の後ろにもこんなに落ちたままです。

実といえば、ブナグリ(ブナの実)は深山も里山も「これほど実が成ったのは何十年ぶり」という豊穣の年。ブナ帯の山は、実を包むイガ殻が茶色をしているために、いつもの年より山の様子が別で、褐色に染まる山肌があるところは「あれは、ブナの実だ」と春の芽吹きと同じようにブナ木の識別がたやすくできるほどです。

わが家前の公園に植えられたブナも、これまで見られないほどに豊かな実をつけ、その実はほとんどが落ちました。この実も、今はパークゴルフ場となっているあの沼ノ又沢まで、子どもの頃は一日かけて拾い集めに向かったもの。

わが孫童はこの実が大好きでよく食べます。それが楽しみで家族がいっぱい拾い集めています。煎ったブナの実なら、ビールやお酒のつまみには、これはなかなかのモノですよ。

これぞキノコ本命の役者たち

過ぎた2日のことです。それこそ何十年もシシタゲ(シシタケ)とオオヒメジ(ホンシメジ)をいただいている「私の採り場」にむかってみました。

CIMG0848-1CIMG0850-1CIMG0877-1CIMG0881-1CIMG0892-1CIMG0888-1シシタケは、一度採った後に晩生がよくみられ、豊作とまではいえませんがまずまずの発生をみせた年のようです。あくまでも「私の通う山は」という限定つきですが。

CIMG0899-1CIMG0908-1CIMG0912-1CIMG0922-1CIMG0928-1CIMG0932-1CIMG0937-1CIMG0942-1CIMG0946-1CIMG0948-1CIMG0949-1CIMG0956-1CIMG0963-1CIMG0966-1CIMG0970-1CIMG0976-1CIMG0981-1CIMG0998-1CIMG1023-1CIMG1048-1CIMG1053-1CIMG1073-1

さて一方のシメジ。今年は、先行して発生したアガキノゴ(サクラシメジ)やクリカラモダシ(クリフウセンタケ)、それにハタゲシメジ(ハタケシメジ)などが大豊作でした。それで「本命のオオヒメジもよく出るだろう」と淡い期待をもちながら採り場にむかったら、大の字はつきませんがかなりの豊作で、きのこの王様の見事な菌列を目にすることができました。

山中での最後の写真は、これも今年はまれにみるほど多くのカオを見せてくれたフジミャゴ(シャカシメジ・センボンシメジ)。成長しきった大きな株です。

全体としてはキノコも木の実も豊作か、もしくは大豊作、あるいはまずまずの作と今年はいえる村の秋。紅葉も県境の脊梁から次第に里山に下るこれからは、晩秋、初冬のキノコへと私の興味はうつります。

CIMG1136-1妻は、春のタケノコ瓶詰めと同じで、かなりの手数をかけて、秋の山の役者たちをビンの中に詰め終えました。この作業もまことに根気のいる手しごと。瓶詰めの山菜やキノコ類にある程度の値札がつくのは、私にはよくわかります。

ささえていただいたみなさんに感謝の表彰式

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国には、それぞれの省が関係する部署ごとに表彰などの規定があるようで、たとえば総務省では、地方自治のしごとに一定期間就き、その発展に功労のあったと認められる者を表彰しています。

そういうことを今回、当事者としてはじめて体験し、きのう、都内で行われた表彰式に出席してきました。首長は20年以上、市町村議会議長は12年以上の在職者を対象に総務大臣表彰をおこなうという式です。

現職を退いてからの表彰ならそんなに思うことはないのでしょうが、私の場合はまだ現役の立場。ですから、こういう趣きの当事者に立つと心模様は複雑になります。

それでも、そういうとりきめが国にあり、せっかく総務省のみなさんが労力と時間をかけて準備する式典ですし、人の世の礼儀ということをも考え、現役ではありますが、受賞者としてのつとめをきちんと果たしてきました。

今日は、村の教育委員長を永くつとめられた佐藤良徳氏が、こちらは文科相表彰を受けられるはこびで在京中とおききしています。来月には、村議会の佐藤正次郎議員が県の自治功労者として表彰されることも決まっています。

式辞やご来賓のご挨拶、そして受賞者代表の謝辞もふくめ、ほとんどの方々が「受賞のかげには多くの人々のささえ、とりわけ家族のささえが」という内容を込めて語られました。

そういうことへのご配意もあってでしょう、「表彰式には配偶者も同席できます」という案内も丁寧になされ、実際、幾人かの首長、議長の令夫人が出席されておりました。

式典には、いろいろと縁のある方々も出席されました。まず、昨年村が国への要望で総務省におうかがいした時、応対していただいた総務大臣政務官の赤間二郎代議士が主催者側のお一方として参列。式典が終わってから昨年のお礼をのべ、「今年も、またうかがいますので、よろしくおねがいいたします」のご挨拶を申し上げる機会がありました。

受賞側では、お隣山形県金山町議会議長の柴田清正氏がおられました。氏とは何かといろいろの集いでいっしょになる方で、ご令室を伴っての出席でした。北海道の赤井川村議会議長さんとは、控え室でテーブルがいっしょでしたので「視察で、貴村を訪れたことがあります。美しい村連合にくわわっている者同士ですよね」という言葉を添えました。視察は、農業委員会として農家民宿にお泊まりした時であったように記憶しています。

朝6時10分に出発、帰宅は夜の8時頃。日々の活動も、表彰も、多くの方々と家族、妻にささえられているからこそ成り立つもの。とくに、たいていの仕事がそうでしょうが、妻の力、女性の力はまさに偉大なささえ。「ありがとう」の言葉を妻に心で伝えました。

合併10周年、新制横手市の記念式典へ

CIMG1074-1CIMG1078-1平成の合併で新しい横手市となって10周年の記念式典と祝賀会が3日にあり出席しました。

同じように10周年記念式典を終えている湯沢市、そして今回の横手市と、あの合併時にはわが村にも、関連する双方の自治体から、いわゆる「おさそい」の熱いはたらきかけがありました。しかし、村も議会も住民も、どちらの合併にも加わらず単独の村で進むことをわれわれは選択しました。

10周年の行事といえば、そういう10年前のことを心に抱きながらの参加となります。当然、そういういきさつに関係した方々との集いですから、祝賀の心とともに複雑な心境にもなることは否定できません。

わが村は湯沢市雄勝郡管内で、消防やごみ処理を含め大きな事業を一部事務組合として広域市町村圏の組織で運営し、県行政圈の管轄はしたがって雄勝総合庁舎。ところがほかの雄勝郡が警察では湯沢署管轄なのにわが村だけはむかしのまま横手署管内。さらに、経済的な結びつき、日常の生活圈域も横手市を構成する地区とのつながりがとりわけ強いという歴史上の特徴をもつ村です。

お隣横手市増田町西成瀬地区の一部住民はわが村にある二つのお寺の檀家さんが多いというつながり深さもあります。昭和の合併時には、西成瀬狙半内地区と湯ノ沢地区の二つの自治会が「東成瀬村と合併すること」を決議したという歴史もあります。

わが村が平成の合併時に行った村民へのアンケート調査でも、「仮に合併するとすれば、どちらを選びますか」という趣旨の問いにたいして、湯沢・雄勝管内の村でありながら、最も多かったのが「横手地域との合併」という答えだったのも、こういう生活上の歴史的つながりが作用していたからなのでしょう。

記念式典は、「市民の手づくり」という趣向が全体に感じられ、とても印象に残るひとときでした。わが村がなにかとお世話になり学ぶべき積極面をたくさんもつ新制横手市が、さらに大きな飛躍と発展をとげられるよう、ここからも願うものであります。

▼昨日は、お米の籾すり作業をすべて終了。出荷米はカメムシ被害もなくすべて1等米でした。昨年よりもお米の稔実がよいようで「二番米」が少なく、わが家の作柄もなんとか人様なみに「やや良」という結果で今年の収穫を終えることができました。

これからは、コンバイン、乾燥・調整機械類のやっかいな掃除があり、来年にむけてのたんぼの排水作業などが残されています。泥沼状態のわがたんぼだけに、今年は、例年にないほど後処理に時間を費やさなければならないでしょう。すべて、また、来年の作のために。

ぬかるみに苦戦しながら稲刈り終える

CIMG0844-1もともと排水のよくないわが家のたんぼ、それに加えて管理の不行き届きと9月の雨もあってでしょう、とにかく今年のたんぼには、これまでの記憶にないほどのぬかるみに苦戦しながらの稲刈りとなりました。

爆弾低気圧がくる前というきのう日中はよき晴天の稲刈り日。こちらは、午後4時から須川湖のほとりに鎮座する朱沼神社の祭事があり、最後に残していたぬかるみたんぼの稲刈りをなんとか終えて出席することができました。

CIMG0832-1CIMG0835-1CIMG0840-1CIMG0841-1午後の須川高原は、早くも猛烈な風が吹き、湖水は白波やや高し。こういう荒ぶる湖面を目にするのも久しぶりのことです。秣岳(まぐさだけ)の直下にある湖面一帯に吹き荒れる風を、ここの気象に詳しい山の人々は「秣おろし」と呼ぶそうですが、この日は、いかにも「おろし」らしい風の吹きようでした。

須川高原温泉、栗駒山荘の標高1100㍍ラインにまで紅葉のまっ盛りがやってきたといってもよいほど。一帯は黄を主にして、なかにはうるしの朱も混じり色づいていました。