第1回目の「芥川賞」を受賞したのが秋田県横手市生まれの石川達三氏だということを知る人は多いでしょうが、その受賞作品「蒼氓」を私は読んでいませんでした。
本をもとめるのは、買い物ついでに立ち寄る町の本屋さんや、都内への出張で立ち寄る図書数の多い本屋さんなどで、芥川、直木の両賞発表があっても、それらの受賞作品をめあてに本屋にむかったことは私の記憶にはありません。今回もそれは同じです。
そういう関心程度の私が、行きつけの本屋さんで、たまたま一冊置かれていた(私にとっては幸運にも買い残されていた)本が目に止まりました。それが写真の「蒼(そう)氓(ぼう)」です。
自分の好きな作家の著書ならそんなことはほとんどありませんが、はじめて読もうとする作家の単行本を求めるときには、近頃はとくに消費税も加わって価格も安くないことから、たいがい、解説のページをめくるなどして慎重に品定めをします。求めるに値するかどうかの思案をそうとうに巡らせ、手にとったり棚にもどしたりしてやっと決着をつけます。そもそも文学作品で単行本を手にすることは稀で、みんな文庫の発刊待ちです。
そういう私が、なぜ「蒼氓」を手にとったのかということです。「芥川賞」の初回受賞作品とはどんなものであったのか、それに県南生まれの石川氏の作品を一度はじっくりと読んでみたいという思いが強くはたらいたのだと思います。ただの県南生まれの方というだけでなく、日中戦争下に著した「生きてゐる兵隊(中央公論社)」が即日発売禁止となり、禁固4月、執行猶予3年の刑となるなど反骨の意思堅き仁賢の士という石川氏の人柄、「金環蝕」など社会派作家とよばれた権力をみる姿勢、日本ペンクラブ会長として思想表現の自由を何よりも重視した骨太き人間像というものにおそらくひかれていたからでしょう。国家のほんとうの意味での安全保障がまだ戦後70年なのに危うくなっている今、戦中当時を真摯に振り返らねばということも「蒼氓」をもとめる引き金だったかもしれません。
たった一冊の本ですが、久しぶりに「蒼(そう)氓(ぼう)」はいっき読みしました。昨年、芥川賞は150回をむかえた記念の年でした。郷土のしんぶん秋田魁新報社も昨年創刊140年をむかえ、その記念として「蒼氓」は復刊されていたのです。石川氏はお隣の横手市生まれです。
「蒼氓」は今から80年前に著された作品ですが、国家というもの、人間というもの、「人のほんとうの幸せとは何か」、今にも通ずる社会の永遠の課題をするどく問う筆力で読み手をひきます。前述の復刊は、「芥川龍之介賞経緯」として、久米正雄、佐藤春夫、山本有三、そして芥川賞、直木賞を創設した菊地寛の各氏の言葉を載せています。読めば、新人の文学賞として最も位が高いと評される賞の歴史をたどる楽しいきっかけとなります。
同じように郷土出身作家「蟹工船」の小林多喜二など、わが秋田は、なんと骨太き、権力におもねないペンの力をもった作家を輩出した地でしょう。第一回芥川賞は最後の選考に残ったのが5作。あの太宰治や高見順等の著作と選考され、「蒼氓」は受賞されたのです。