国(国民)の過ちから学ぶ8月

戦争で節目となった8月、戦後75年目の終戦(敗戦)記念日が過ぎました。

戦陣でも、全国への大空襲でも、沖縄戦でも、そして人間の瞬間的な大量殺傷ということでつくり出された原爆の広島、長崎への投下でも、戦後75年を経る間に歴史の検証がいろいろな側面から為されています。

15日の全国戦没者追悼式で天皇は「……過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、……」とのお言葉を述べられました。このお言葉は戦没者の御霊と遺族の心に深く寄りそわれたものと私は受け止めました。首相の式辞と比べて、あの戦争に向き合う姿のちがいを率直に感じました。戦争で命を奪われた人々への国民を代表する真の追悼ということであれば、あの大戦についての反省は欠くことのできないもののはずです。天皇のお言葉は、広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれる「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」の言葉ときっとつながるのでしょう。

戦争は310万人以上の国民の命を奪っただけではありません。侵略行為によって命を奪われ(アジア諸国だけで2千万人以上)あらゆる迫害をうけた諸国に対しても、それは最低限のとるべき姿勢と思われます。この点、歴史と真摯にむきあいつづけた戦後のドイツ政府の一貫した姿勢は注目されます。

戦争は、「支配欲」におぼれる人間の姿をもっともあらわにしめすものですが、とりわけ内外の「侵略戦争」の誤りについて歴史から謙虚に学ぶことが、戦争を直接体験していない私たちには大切と思われます。学ぶ手段の多くは、関係する著書や映像、戦争遺跡の視察、体験者の語りなどからでしょう。我が家でも、客観的な視点で事実に基づき戦争を見つめ編集されたDVD集を時々視ます。

私の枕元と仕事部屋には、10代の頃からこれまでに購読した戦争関係の著書が一定数あり、いつかも触れたことがありますがそれらの中には今も繰り返し読む2つの著書があります。一冊は「ヒトラーに抵抗した人々」(對島達雄著・中公新書)、もう一冊は「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著・新潮文庫)です。對島氏は秋田大学の副学長等を歴任された方です。

世界の歴史上、人の誤り、政治の誤りによって、その時、その国、その権力の内という限定つきでみるならば「合法」とされた人間の大量殺戮と思想・宗教弾圧による殺戮が幾度もありました。近現代史における世界の戦争や内紛、粛正などのうち、戦後生まれの私たちが過ごしている時代にもそれらは起きました。

私が生きている時代にもおきた世界の戦争や内紛、粛正、大量殺戮、それがなぜ起きたのか、私が体験していない第二次世界大戦で、あのヒトラーをなぜ時のドイツ国民の多数が支持したのか、なぜ日本、日本人の多数は侵略戦争の道を選んだのか、戦争につきすすむために用意された思想弾圧の治安維持法がなぜ許されたのか、それらを考えるうえで2つの著書は深い示唆をあたえてくれます。

ドイツと日本から学ぶ「多数の国民が誤ることもあった」という歴史の事実。それと同じことは、戦後の世界の大国といわれる国々でも世界史に刻まれる惨事として数多く起きました。それは、言論統制を強める現在の国内外の動きとも共通するものがあり、昨今では急速に市民の自由が奪われているとみられる香港とその背後にある大国の動きなどはその最たるものでしょう。

広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれている「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」。わが村の役場庁舎に掲げられている「非核平和宣言の村」。8月15日は、人の手による最大の過ち災禍で命を奪われた人々を追悼しつつ、平和な国と世界を希求し、そのために、ただ願うだけでなく、歴史を学び、ひとりひとりできることで行動する誓いの日でもあると私は受けとめます。

平和でなくなること、すなわち弾圧や戦争は、ひとつひとつの自由が奪われところからはじまったことを歴史は教えています。その延長線ともいえるでしょうが、多数が誤ることも歴史にはあったということもこの戦争の教訓です。