野の新芽が次々に

木々の芽吹きにはもう少しの日数がほしいわが集落。私の仕事部屋からは、おかげでまだ葉っぱに視界をさえぎられずに、冬の眠りから覚めた豊かな流れの成瀬川が望めます。

 

我が家の前には成瀬川と小さな清水、後ろにも小沢二つとその水源となる豊富な湧水の清水に恵まれ、山と水辺で親しめる環境がまわりぐるっといずこにも。

堅雪の今の季節は、30分ほどの散策がてらに「はしり」の山菜と出会うのが楽しみです。

 

 

すでにバッケ(フキノトウ)はいただいていて、これは一度だけ旬の香りを楽しめばよし。今は、水辺で早く顔をだしたアザミをめざします。清水の流れる堰(水路)は雪の庇やトンネルになっていて、雪で日光がさえぎられている間に芽をだしたアザミはまだ本来の緑色にならず軟らかな色のまま。やわらかなこの新芽を、朝餉の味噌汁でごちそうになるのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清水の湧口のミズバショウも、固まっていた新芽をようやく解きほぐして苞の白さを見せるようになっています。いかにもミズバショウらしいもっと美しい装いになるのは一週間ほど先でしょうか。


 

 

 

 

 

 

 

野草たちの芽出しは、水辺、日向急斜面、雪崩跡から先に次々始まります。最も早く芽をだすウドザグ(ハナウドの仲間・食べられない)はだいぶ草丈を高くし、ミズ(ウワバミソウ)やハンゴンソウ、各種シダ類たちも新芽を見せていますから、山菜の「はしり」で人気のコゴミもまもなく顔をだすでしょう。

きのう妻は、わざと少し緑になったヒロッコ(アサツキの仲間)を摘んできて、サバの缶詰やユギノシタキノゴ(エノキタケ)をいっしょにしてカヤギ汁にしました。ヒロッコ、コゴミ、ウルイ、アザミの茎、ウド、タケノコ、ミズ等々、サバ缶の出汁は山菜鍋には最高ですね。


 

 

 

半年ぶりにユギノシタキノゴ

キャンジギ(カンジキ)を履かなくても雪原を歩けるようになって久しい堅雪の村となりました。

こちらが子供の頃から、野山や川辺の散策(堅雪渡り)が自由にできる残雪の4月は、一年の中でも最も心がおどる季節のひとつでした。

残雪のある野山は道なしでも雪上をどこにでも向かえますから、子供たちの行動範囲がとっても広かったのです。

堅雪渡りでバッケやセリを摘み、男女児混じり合いで若草を献立にままごとをしたり、柴木を切って釣り糸を結わえイワナ釣りをしたり、同じように柴木で木刀をつくり「真空切りの赤胴鈴の助」だ、「月形半平太」だ、「月形龍之介」だ、「東千代助」だなどと正義の味方の名乗り争いをしてチャンバラをしたのもこの季節です。悪者役はできればなりたくなかったので、たいがいは正義の味方同士の「戦い」です。

毎年今の季節になると、そんな子供の時を思いながら川辺を散策。今は半年ぶりに顔を出している黄金色のユギノシタキノゴ(雪の下キノコ・エノキタケ)との出会いを楽しみ始めています。

このキノコは初冬と早春に発生。冬と春、いずれの季節にも我が家の味噌汁の具として、旬の香りと味覚を伝えてくれるありがたい菌類です。

君たちはどう生きるか を読んで

「君たちはどう生きるか(吉野源三郎著 マガジンハウス刊)」と、同じ著者の原作を漫画(正確にいえば漫画だけでない)で著した同社刊行の「漫画 君たちはどう生きるか(羽賀翔一著 )」の二つの著書への反応の大きさを率直にうれしく思っている一人である。

人の道のあるべき姿を真剣にとらえ生きようとしている人々がこれだけ多くいることを知り、少し大げさかもしれないが、「わが国も、こういう著書に共感する人々がたくさんいるなら、将来は明るいだろう」などとも感じている。

「あまのじゃく」というほどではないが、世の中の「はやり」というものにはまるで無頓着なこちら。たとえば本などを買い求めるにしても、芥川賞や直木賞などと名のつく作品というものが発表された数年間はそのほとんどを読んだことがなく、それが文庫出版される頃になってまれに手にするようなものである。図書館にゆけば二つの新受賞作品ならすぐ借りられるだろうが、そういう流行ものにどうしてか心が動かないのである。

そんな私が、めずらしく「はやり」といってもよいだろう前述の本二つにこのほど手をだした。こういうことは、山崎豊子氏の諸々の著書が発行された時以来のことであろうか。

小学生の頃は、学校図書もふくめ本を読むなどということとはまったく無縁の暮らしで、貧困きわまりない家庭にも本などほとんどなし。雑誌漫画さえ買ってもらえるのは一年にいくらもなく、同級生から借りてたまに読むだけ。だから、おのずと日々のうごきは、川と山とたんぼと畑を駆け回ることだけが多く、そういう暮らしは中学を終わる頃までほぼ同じ。学校の教科書以外で文学本を読んだことなど、おそらくほとんどなかっただろう。

そういう自分の生い立ちがあるからよけい強く感ずるのかもしれないが、こういう著書と小中学の時代に誰でも易く触れることができる今の子たちはほんとうに幸せものと思う。

合わせて200万部以上の発行をこえるといわれるこの二著作。マンガでも、原作でも、もっともっと読み手の輪はひろがってゆくだろう。なぜなら、この著書は、大人から子供まで、その琴線に響く永久に変わらぬ「人の道のあるべき姿」を問い語りかけているから。

こういう著書を読み感銘をうけた子たちなら、今のように国政を揺るがすような大事から世間万般の悪事を含めて、あのような卑怯な生き方は決してしないだろう。彼ら国の為政者にこそ、たとえば仏教の言葉を引けば忘己利他の心がより求められるのに。彼の為政者の方々はそういう徳や人の道を教える著書に子供の頃から多く触れられる環境にあっただろうが、果たして「君たちはどう生きるか」など徳を育む本を読まれた方々なのだろうか。

さて、村の図書館にもこの著書はおかれてある。近場の書店にも売れ行きが好調なのだろう、いっぱい積まれている。まだお読みでない方へは中学生も含め是非おすすめしたい。漫画(文章もある)もとてもいいが、原作はやはりより深く著者の心を理解できると思う。

久方ぶりに津波被災地へ

東日本大震災で津波に襲われた大船渡市。あの時、大船渡湾すぐ近くに住んでいた親戚筋の家にお見舞いを兼ねてたずねた始終を幾度かお伝えしたことがある。

そこで目にした被災直後2011年4月1日の大船渡湾に接する街と、ズダズタに切断された鉄道。それから南下しての陸前高田市、街全体が壊滅、山際に押し流された住宅やガレキのそばで消防団員などのみなさんが行方不明の方の捜索をしていたのだろう、懸命の活動をしていたあの日の人々の姿が私の記憶に深く刻まれている。

被災から丸7年たったその大船渡と陸前高田へ、遠野の里経由で向かい、二つの街の今の様子を目にする機会が去る8日にあった。震災後に幾度かこれらの被災地を訪れ、大船渡には村議会でガレキ撤去などのボランティア活動にもでかけている。当時のあの日も思い起こし、時折車を止め、湾の北岸になるその作業した場所方面も見つめた。


大船渡は、震災のことを知らない方がこの街を訪れたら「ここが津波で被災した街」とは考えられないほどに津波の爪跡を直接感ずる景観はほとんどなく、新しい街となっている。

あの時初めて被災現場を目にし、惨状に息をのんだ破壊された建物と車はもうとっくに片付けられていたのだが、ズダズタになっていた鉄道も今はなくなり、そこは舗装道路になっていた。これが鉄道に代替えするJRの「バス専用道」というものだろう。被災跡にもすべて道路がつくられ、新たな各種の建築物も建ち、湾に隣接していて大打撃をうけたであろういくつかの水産加工場なども、新たな装いとなり稼働しているように見えた。

湾のそばの山岸ではヤマザクラがこの日満開で、ソメイヨシノも咲き始めていた。湾に接していて整備された新しい公園風土地の一画では、日曜日とあってイベントが開催されていた。市内の水産加工場ではたらいているのだろうか、買い物がてら街を散策しているように思われる外国人労働者(中国の女性たちか?)らしい方々の姿も歩道に見られた。

一方の陸前高田市は、街中心部全体が津波にのみ込まれただけに復旧に要するあらゆる計画規模がケタ違いのようで、盛り土による街の土地全体のかさ上げが終わり、そこにはまだ新たな建物はごくわずかの様子。津波の爪跡こそ見えなくなったものの、旧市街地は地盤かさ上げ盛り土整備されての更地状態なので、津波で街がすべて消えてしまった被害規模の大きさがすぐに想像できる。復旧も、復興も、要する力と年数がここは並でないのだ。

被災地から離れた気仙川上流域などにはまだ被災者の仮設住宅が並ぶ。復旧・復興がより困難な原発事故被災地もそうだろうが、7年経ってなお、三陸でもまだ「元のくらしはこれから」の方多しなのである。被災から7年目の三陸に、早めのソメイヨシノが今週には満開となるだろうか。緯度はほぼ同じなのに雪などまったくないうららかな北上山地と海沿いの春の風に触れて後の夕刻、奥羽の山なみに入ったら淡雪が舞い、雷鳴がとどろいていた。▼津波被災の写真は、2011年、4月1日午後の大船渡市と陸前高田市の一部。

 

▼津波被災地のことを記していたきのう、島根で震度5強の地震発生が報じられた。被災地のみなさんへお見舞い申し上げるとともに、これ以上被害の拡大がないよう祈りたい。

地震列島、火山列島、豪雨列島、台風列島の今世紀は、忘れる時などないほどに災害が頻発している。とりわけ、地震と、豪雨による土砂災害への備えはわが村の最大防災課題。家々や集落の自主防災へのつとめは当然として、行政としての防災、災害時対応にぬかりのないよう万全を期さねばとの思いを強くしている。それとともに、関東圏や太平洋沿岸部を襲うとされる大地震の際、全国の農山村、地方が果たすことになるだろう支援と存在そのものの役割も想定しながら、だからこそ、国政は国土の均衡ある発展をはかってほしいものだとも思っている。大地震はいつ起きても不思議でないとされているのだから。

保育園の入園式

6日は保育園の入園式へ。昨年の途中で入園している子どもさんも新入園児、0歳児や1歳児のみなさんも多く、いつものように思わず笑いに包まれるような子どもたちの自由奔放なうごきもあり、いかにも保育園らしい愉快な式運びのひとときとなりました。

これで、新しい方々をお迎えする年度初めの村のすべての式典が終わりました。

この日の午後、所用で村内をまわる途中に目にしたチャワンバナコ(キクザキイチゲの仲間)は、小雨の中ですから花びらを閉じてみんな下向きに。同じ花なのに、開いている時よりも可憐に見えるのは、いかにもうちひしがれているような姿だからでしょうか。

 

初々しさいっぱい

小学校16名、中学校第74期生19名の入学式が午前と午後に分かれてきのう行われました。

どちらでも、国歌と校歌に続いて「ふるさとの歌~悠久の風にのせて~ 」の合唱が会場に響きわたり、入学、進級、転入、年度初めと、どれもこれも初々しさにあふれた様子を前にして式典の時を過ごしました。

新入生も、それをむかえる側も、この日は自分の過去と今とを軸にしながらほかを見て、人というものの成長の階段を強く意識する時でしょう。「自分もああいうふうになるんだ。自分もああいう時があったのだ」と。

小学校の新入生は保育園を卒園したばかり、中学校も小学校を卒業したばかりで、あれからわずかの時しか経っていませんが、卒園、卒業のときよりも、一人一人またひとつ成長した姿になってこちらの目には映りました。環境が変われば子供たちも変わるものですね。

 

 

 

 

 

中学校は例年のように在校生全員による吹奏楽演奏での新入生入場です。これも、村ならではの規模だからできること。学校でも、社会でも、おかれた条件は地域によってみんなちがいます。その条件を前向きにとらえて活かせるかどうかで私たちの進歩の度合いが決まるといってもよいでしょう。その点で村の学校教育は、吹奏楽の全員演奏もふくめ、おかれた環境・条件を活かす創意に満ちていると思います。

新入生、在校生、転入の先生、在職の先生、これでみんな新たなスタートをきりました。初心忘れず、お互い、楽しく、ご活躍を期待いたします。

▼きのうは陽射しがあったものの寒い一日でした。いくら晴天でも気温が高くないと、すでに咲いていたフクジュソウもチャワンバナコ(キクザキイチゲの仲間)もこの日は花びらを一日中閉じたままでした。お日様がみえていても、こういう寒い日には虫が飛んでこないということを、花たちはちゃんと知っているのですね。

 

新たな出会いの始まり

昨日は小中学校の始業式があり、それを終えた午後、転入された小中教職員のみなさんとの合同挨拶会が役場庁舎で行われました。

議会事務局提供

3月は別れの季節でしたが、一転して4月は多くの方々との新たな出会いの日々がはじまるとき。挨拶会では、昨年と同じように、まもなく130年の歴史を刻む村の誇りとして、ここは自立(自治)の意識の強い村であること、その土台は人づくりであり、教育であること。その歴史を、村の節目節目の様々な記録文献をお読みになって知っていただきたい旨を込め、歓迎の一言といたしました。

きのうは、その挨拶会の後に、定期異動にともない新たに赴任されました成瀬ダム工事事務所長さんと副所長さんが総務課長とともにお見えになり、ごあいさつを申し上げました。工事事務所様には、県南3ヵ町村議会の研修会で今年お世話になる計画でいて、こちらが先にお願いにあがる予定でおりましたが、こういう次第で順序が逆になってしまいました。

新たな出会いが昨日は二つ。草木も萌えはじめの春ですが、人々のくらしにも「さあ、やるぞ」の意欲に満ちた新鮮な出会い、ほどよい緊張がそちこちに漂う4月です。

渓流釣り解禁

1日から渓流釣りが解禁。村でも、成瀬川の各支流などで雪の上に太公望の姿をみかけるようになりました。

前々から「釣りをしたい」と声をかけられていた春休みの童と連れだち、こちらも、家そばの小川で童に釣り糸を垂れさせました。長年の漁協会員であるのに竿を手にしたのは久しぶりのこと。子供の頃からこちらの魚捕りは、網を使うか、手でつかまえるか、ヤスで突くかのやり方が多く、釣りは手馴れずあまり童への教えにはならずです。

家近くの成瀬川本流や支流の沢なら、ヤマメとイワナ、それにウグイとアブラハヤたちが今の時期確実に棲み潜んでいる渕がどこかということはわかっていますが、この日竿がしなったのは、淵に沈む流木の小枝に針がひっかかった時だけ。

こちらのような腕のにぶい釣り人を喜ばせてくれるような釣果があるのは、もうちょっとだけ後の頃かもしれません。

先日、成瀬ダムの転流にともない捕獲されたイワナや大カジカたちのごく一部を目にしました。あのわずかの区間でもあれだけ豊富に魚が棲んでいた様子を拝見し、昔も今も、成瀬川とその大小の支流は渓流魚たちの宝庫であることを改めて知らされ、また想像もしました。

3月に開かれた成瀬川漁協の総会資料には、きわめて評判の高い成瀬川の鮎とともに、大ヤマメ(30㌢以上)も太公望たちから高い評価のあることが記されています。要のイワナもふくめ、その道の達人たちがこのように「モノがちがう」というほどに味とかたちのよい渓流魚の宝庫のわが村です。

国道の冬季閉鎖が岩手側まで完全解除される5月半ばの村からは、岩手奥州市胆沢川上流やその支流の前川、小出川、尿前川にも通えます。少し遠回りで西和賀町の南本内川にもむかえます。全国のみなさん、ぜひ、春、夏、秋の村へお越しください。

大日向山へ(その2)

鞍部からの斜面は、少々きつい雪上歩きなのでジクザグのひじを折って上をめざします。

頂上近くまで上がってから、南郷岳や三又集落がよく望める場所をめざし、武道落ち合いの金山沢カッチと、三又落ち合いの桑の沢カッチの境の尾根までまた北へ下がりました。

滝ノ沢から三又に通ずる越え道がむかしあったといいます(秋に滝ノ沢山の最奥部で、古い山道を目にしています)。それは大日向山の頂上から東に尾根を下ったところにある一番低い鞍部から三又桑の沢へ越え、その出口は、今の三又製材のある所だったのでしょう。そんなことを思いおこしながら、桑の沢と三又集落をながめました。わたしが集材架線技士のしごとをしていた当時の桑の沢には、こんな立派な林道はなかったと思うのですが、いつ頃できたのでしょう、金山沢方面にのびるまことに立派な林道筋も目にはいります。

ここではじめて和賀岳や八幡平方面をながめますが、期待していた岩手山は鳥海山よりもなお霞んでいて、やっと輪郭がわかるだけです。雪の中でネズモヂの緑がいきいきです。

 

このカッチ(沢筋の最上流部)境の尾根が最も雪深く、吹きだまりの雪は5㍍以上はあるでしょう。その上を渡って登り、めざしてきた大日向山の頂上到着は10時30分。

役場のある田子内の一部と下田集落がここからは目に入ります。その背後には、高松岳や虎毛山、神室山などでしょう湯沢雄勝の山々の白さが見えますし、さらに遠くには鳥海山のはるか南にこちらも霞んでいますがかろうじて「あれは、月山だろう」と確認できます。焼石連峰は近いのでくっきりです。「ここの頂に来ることは、もうないかも」と、ゆっくり展望を楽しみ、帰りは往きのコースとは別に平良境の不動沢本流筋を下山です。


 

 

 

尾根を歩いても、斜面を歩いても、ブナの森を歩いても、この日クマの足跡はひとつもなし。期待していた冬眠穴のそばにも少々警戒しながら立ち寄ってみましたが、出遊び(冬眠を終えたクマが、しばらく穴のそばから離れず日向ぼっこや運動をしている様子。これをマタギは出遊びという)の土をつけた足跡もありません。ここの冬眠穴は最上級ですから、きっとまだ穴の中でクマ公は休んでいるのでしょう。

早春の名花チヂザグラ(土桜・イワウチワ)はほとんどが蕾ですが、日向の一部で咲き始めが3~4株見られました。帰りの林道沿いにあるウドザグ(ハナウドの仲間)も、やっと芽をだしたばかりですから、やはり豪雪の村のクマの冬眠明けはもう少し先のようです。


 

 

 

 

 

 

 

帰りに歩いた不動沢はヒラ(底雪崩)の多発地帯です。昭和42年(1967)のちょうど3月31日、この日に、私の定時制高校時代の女性の同級生を含む3人の方が雪崩で命を奪われています。沢は今も雪崩の真っ最中。警戒しながら所々で沢を越え遠回りしたりして、車到着は11時50分。不正確ですが、約2万歩ほどの歩きでした。帰りに田子内大橋で車を止め、あとは登ることがないかもしれない大日向山頂を眺め返しました。

大日向山へ(その1)

30日の夕、ほぼ満ちた月が県境サンサゲェ(三界山)の南にのぼりました。

澄んだその空を見て、なおかつ予報は翌日も晴れそうでしたので、「明日は、久しぶりに大日向山にのぼる」と決めました。クマとの出会いが一番の目的ですから、もう一週間ほど経てばそのチャンスは高くなるのですが、日向の雪解けが早いので「もしかしたら、越冬穴の入り口あたりで日向ぼっこをしているかも」と、少々の期待ももったのです。

開けた31日(土)は予報通りの快晴。車道終点から歩き開始が7時20分。堅雪ながらまだ雪がゆるむ帰りのことを考え、カンジキを背にして山内・武道に通ずる林道沿いをしばらく歩き、途中からは沢沿いに最短距離をとって郡境の尾根に到着は8時20分。

関東などは桜の花見でしょうが、こちらは雪上に咲くマンサクの花見をしながら行き先を今度は東に変え、左は山内武道に至る金山沢、右は滝ノ沢の入会林野となる分水境の尾根を大日向山の方向に進みます。


途中、朝の食事を終えて反すうでもしていたのでしょう、カモシカが雪上に腰を落ち着け足まで伸ばしゆっくり休んでいて、あわてる様子をひとつもみせずにこちらをジッと見つめていました。こちらの姿を遠くから視野にいれていてです。

尾根の東成瀬側は村有地で滝ノ沢集落のブナの入会林野が見事に続きます。薪炭林の伐採を止めてからしばらくの年数が経っているように思われ、村のほかの集落の入会地のブナ山と同じで、ここも見事な美林が成長中です。

金山沢のカッチ(最上流部)には、里山にはめずらしくごくわずかのアカマツと深山に多いヒメマツ(キタゴヨウマツ)が混じって植生する中規模のクラ(崖)があります。ここは日向で斜面がきついため雪解けが早く、冬眠明けのクマをもっとも早く目にできる箇所のひとつですが、双眼鏡にクマの姿は映りません。ただ、昨年秋もめずらしく実のついたらしいブナの幹には、新旧のクマの爪跡が無数についた木がありました。近くには、木材・木工関係者なら思わず見ほれてしまうだろう見事な太さの山桐の木もあります。

金山沢のカッチは、名の通り、昔は鉱山のあったところで、このクラの下方には手掘りで開けられた古い坑口跡があるのを何十年か前、沢に下りて目にしたことがあります。

 

クラがよく見える尾根からは、特徴的な平鹿病院などをはじめ横手盆地の建物群と平野がよく望まれます。ここからの眺望がすばらしい鳥海山は、この日は霞んでいて残念。

 

大日向の頂上手前までたどり着くと、尾根はいったん100㍍ほど鞍部へどんと下り、今度は逆にいっきの登りです。周辺の特徴的なブナの根元でまずは一息。頂上まではもうひとふんばりです。