東日本大震災で津波に襲われた大船渡市。あの時、大船渡湾すぐ近くに住んでいた親戚筋の家にお見舞いを兼ねてたずねた始終を幾度かお伝えしたことがある。
そこで目にした被災直後2011年4月1日の大船渡湾に接する街と、ズダズタに切断された鉄道。それから南下しての陸前高田市、街全体が壊滅、山際に押し流された住宅やガレキのそばで消防団員などのみなさんが行方不明の方の捜索をしていたのだろう、懸命の活動をしていたあの日の人々の姿が私の記憶に深く刻まれている。
被災から丸7年たったその大船渡と陸前高田へ、遠野の里経由で向かい、二つの街の今の様子を目にする機会が去る8日にあった。震災後に幾度かこれらの被災地を訪れ、大船渡には村議会でガレキ撤去などのボランティア活動にもでかけている。当時のあの日も思い起こし、時折車を止め、湾の北岸になるその作業した場所方面も見つめた。
大船渡は、震災のことを知らない方がこの街を訪れたら「ここが津波で被災した街」とは考えられないほどに津波の爪跡を直接感ずる景観はほとんどなく、新しい街となっている。
あの時初めて被災現場を目にし、惨状に息をのんだ破壊された建物と車はもうとっくに片付けられていたのだが、ズダズタになっていた鉄道も今はなくなり、そこは舗装道路になっていた。これが鉄道に代替えするJRの「バス専用道」というものだろう。被災跡にもすべて道路がつくられ、新たな各種の建築物も建ち、湾に隣接していて大打撃をうけたであろういくつかの水産加工場なども、新たな装いとなり稼働しているように見えた。
湾のそばの山岸ではヤマザクラがこの日満開で、ソメイヨシノも咲き始めていた。湾に接していて整備された新しい公園風土地の一画では、日曜日とあってイベントが開催されていた。市内の水産加工場ではたらいているのだろうか、買い物がてら街を散策しているように思われる外国人労働者(中国の女性たちか?)らしい方々の姿も歩道に見られた。
一方の陸前高田市は、街中心部全体が津波にのみ込まれただけに復旧に要するあらゆる計画規模がケタ違いのようで、盛り土による街の土地全体のかさ上げが終わり、そこにはまだ新たな建物はごくわずかの様子。津波の爪跡こそ見えなくなったものの、旧市街地は地盤かさ上げ盛り土整備されての更地状態なので、津波で街がすべて消えてしまった被害規模の大きさがすぐに想像できる。復旧も、復興も、要する力と年数がここは並でないのだ。
被災地から離れた気仙川上流域などにはまだ被災者の仮設住宅が並ぶ。復旧・復興がより困難な原発事故被災地もそうだろうが、7年経ってなお、三陸でもまだ「元のくらしはこれから」の方多しなのである。被災から7年目の三陸に、早めのソメイヨシノが今週には満開となるだろうか。緯度はほぼ同じなのに雪などまったくないうららかな北上山地と海沿いの春の風に触れて後の夕刻、奥羽の山なみに入ったら淡雪が舞い、雷鳴がとどろいていた。▼津波被災の写真は、2011年、4月1日午後の大船渡市と陸前高田市の一部。
▼津波被災地のことを記していたきのう、島根で震度5強の地震発生が報じられた。被災地のみなさんへお見舞い申し上げるとともに、これ以上被害の拡大がないよう祈りたい。
地震列島、火山列島、豪雨列島、台風列島の今世紀は、忘れる時などないほどに災害が頻発している。とりわけ、地震と、豪雨による土砂災害への備えはわが村の最大防災課題。家々や集落の自主防災へのつとめは当然として、行政としての防災、災害時対応にぬかりのないよう万全を期さねばとの思いを強くしている。それとともに、関東圏や太平洋沿岸部を襲うとされる大地震の際、全国の農山村、地方が果たすことになるだろう支援と存在そのものの役割も想定しながら、だからこそ、国政は国土の均衡ある発展をはかってほしいものだとも思っている。大地震はいつ起きても不思議でないとされているのだから。