中学卒業式、猟友会巻狩り

11日、この日は8日に急逝された村長御尊父(94歳)の葬儀があり、中学校の卒業式と時間がやや重なったため出棺時の会葬に向かいました。

第76回となる卒業式は、晴れのおだやかな中で行われ、コロナ禍の感染者が少なくなったこともあって、保護者や来賓以外は生徒も教職員もマスクを着けない(義務づけない)でよい姿で進められました。

ただし歌唱は君が代と校歌のみで、やはり感染症への考慮からコロナ前の卒業式よりも短い時間で式典は終わりました。生徒の入場、証書の授与、校長式辞、在校生の送辞、卒業生の答辞と、この日は互いに3年間の中学生活が走馬燈のようにふりかえられる日。

中学3年といえば半世紀前なら親から離れる生活が始まった時でもあり、さらに遡る藩政時代なら元服で大人の仲間入りの齢。それだけの成長をみる年齢なので、親御さんとしては子が産まれた時から重ねてきた日々と、この日の立派な我が子の姿をみて感極まる時でもあります。

3年間の教えにあたられた先生方も今日は最大の喜びの日であり、またつらい別れの日でもあります。校長先生の式辞をはじめ、先生方のその心が私たちにもひしと伝わってくるひとときを過ごさせていただきました。卒業生と保護者のみなさんご卒業ほんとうにおめでとうございました。そして生徒たちを立派に教え育ててくださった先生方、ありがとうございました。

▼夕方は村猟友会のノウサギ巻狩りを終えた懇親会へ議会としてご案内をいただき参加。

村猟友会の前身は東成瀬地区と旧増田町西成瀬地区で構成される「成瀬猟友会」であり、確か昭和30年代後半の会員は東成瀬地区が60数名、西成瀬地区が20名ほど、合わせれば90名前後の会員であったと聞いたことがあります。当時の会長さんは増田町吉野(西成瀬地区)の季子孝次郎氏(故人)であった頃のことです。季子氏は増田町の町議会議員をつとめられた町の名士でした。

後に二つの地区はそれぞれ別の猟友会として組織され、村猟友会はしばらくの間80名前後の会員で構成されました。西成瀬地区のみなさんは増田町の方へ、東成瀬地区は「東成瀬村猟友会」として歩んできたわけで、私も一会員として30年ほどの猟歴をたどり、副会長や会長職、郡連合猟友会の副会長などをつとめてきました。

会員を数年前に卒業した身ではありますが、巻狩りのご案内をいただくと古巣に帰ったような気持ちでみなさんと語り会うことになります。骨付き肉を大根と煮込んだノウサギ鍋を前に、小腸、肝臓、ロースの刺身をいただきながらの懇談は盛り上がります。コロナ禍で巻狩り懇親会は3年ぶりの開催でもあり、久しぶりの鍋をごちそうになりました。

往時からすれば会員は激減していますが、猟友会の役割は以前にも増して大きくなっています。クマの生息数増はもちろんのこと、近年は予想もしなかったイノシシやニホンジカまでもが村に入り込み、農作物への被害も年々広がっています。それらへの駆除対応でも会の存在は大きく、また山菜採りなどの山岳遭難救助活動でも会員は欠かせぬ役割を担っています。

銃を所持するということは、手続きの多さがともなう各種許可類、安全を保つための義務行為などをふくめ法や条例に定められた諸々の厳格なハードルと何度も何度もむきあうことでもあります。

会員の高齢化もありますが、銃所持という特殊性がともなう狩猟では、会員をどう確保するかということが日本全国のこれからの大きな課題です。会員減少とは逆に、クマ、イノシシ、シカなどの生息数が増える下、農作物被害にとどまらず人的被害の拡大を考えるとこれは深刻な課題なのです。懇親会に加わりながらそんなことをまた考えさせられた夜でした。