小学校卒業式へ

村小学校の卒業式がきのう行われました。

今年の卒業生は、小さな村の学校としてはめずらしく28名。年によっては30名をこえることもあったクラスです。今後の村では、この人数を上回る学年はなかなか出てこないでしょう。28名のみなさんは、村内4つの小学校が統合されてから20期目の卒業生ということも校長先生の式辞から知りました。みなさんへは、今年も卒業生一人一人を校長先生が描いた似顔絵が贈られました。

入学したあの幼い日から6年の歳月が経つのですから、いつの年も小学校の卒業式は子ども達が心身共に大きく成長できたことをなんとも強く感ずる日となります。

コロナ禍ですが、今年は昨年とはちがい在校生も保護者も同席での卒業式となりました。なので、卒業生がたどってきた成長の過程は、この日先輩を送る小学校1年生から5年生までの在校生のみなさんの姿そのものに重ね合わせてふりかえることもできます。長い階段をそうやって一つずつ一つずつ上り詰めての晴れの日です。凜々しき姿の28名のみなさん、ご卒業おめでとうございます。

保護者のみなさんにとっては、小学校6年間はもちろんのこと、我が子が生まれたときから保育園もふくめてこの間の子育て10幾年余の喜びと苦労の日々をぎゅっと詰めて思い起こす日でもあったと思われます。それほどに28名の姿はみんな立派でした。

卒業生の成長をここまでささえていただいた担任をはじめとするすべての先生方(今年の卒業生を1年から4年まで担任されていた3人の先生方も東小に在職中)、支援員の先生方、職員のみなさん、保護者のみなさんへ、それと卒業生たちの多くを保育し、園から送り出し、成長を陰で6年間見守り続けてこられたすぐとなりの保育園の先生方へもふくめて、児たちをささえご苦労された方々へ、お祝いと感謝の言葉をおくりたいと思います。ご卒業おめでとうございました。見守りささえていただいてありがとうございました。

一般質問の日

3月定例会議の一般質問は、いつもの定例会議とちがい予算特別委員会後となり、日程がずっと遅れてきのうになってしまいました。

今回質問に立ったのは3議員で、総合発展計画、自助・共助・公助の在り方、豪雪課題、食肉加工センター、三セクなどで議論が交わされました。

陳情審議も行われ、それは採択となっています。

緑にひかれて

明日は彼岸の入り。里山のヒラ(底雪崩)に、木々の根開きに、土手のフクジュソウにと、目に映るいずこの風景にも雪解けの季節を感ずるようになった3月半ばです。

厚い雪に押さえられていた常緑の草木たちも雪解けにあわせて起き上がり、それまで白一面の里の原野は土肌が現れるのにともない緑の世界が少しずつ増えてゆきます。

その緑の仲間のひとつセキショウも、小さな堰沿いにようやく姿を見せるようになりました。各地の用水路がコンクリート側溝に置き変わった今、昔とちがい村では植生箇所がきわめて狭まり稀少な植物の仲間入りとなっているセキショウ。写真のセキショウは、側溝のない堰(用水路)にかろうじて残っている株で、こちらは、春一番の緑を拝みに毎年ここの植生地に通います。

セキショウの生える堰では、そこにかぶさった厚い雪がなくなり始め天井が明るくなったので、泥の中で眠っていたドジョッコが「春が来たなと」思い始めているはずです。昔のこれからは、雪の上に堰の泥をシャベルですくい上げる、童たちのドジョウ取りの季節でもありました。

福寿草をそえてお祝い

13日(土)は中学校の卒業式へ。

新型コロナ禍のはじまりだった昨年の卒業式は、保護者も式典会場に入れずの残念無念となりました。同じコロナ禍でも今年は、小規模校でなおかつ広い体育館が式典会場ということもあってでしょう、またコロナ予防対策が社会的にも徹底されるようになったからでしょう、今年は保護者も在校生もすべて出席でき、そして少数ながらも来賓参加の下での卒業式となりました。

ただし来賓の範囲は当然ながらせばめられ、案内を受けたのはPTA会長、村長、議長の3名。式典も所用時間を最大限短くする配慮から、来賓挨拶はPTA会長一人に限定。密状態での吐く息を制限するために生徒たちの吹奏楽演奏はなく、国歌は出席者の斉唱なし演奏のみということで進められました。唄は、生徒たちによる校歌ひとつのみ。

式典前日、議会が終わった後に自宅そばのいつもの福寿草が咲く土手に立ち寄ったら、わずかの蕾が花開き始めていました。そばにはノウサギの新しい糞も。土手には若緑の雑草がほかにも出ていて、ノウサギはその緑を目当てに訪れた様子です。

雪解けシーズンになると毎年通う湧水脇のノゼリも、それまでの錆びた緑から旬の若緑へと変わり始めています。

今日は、卒業された20名のみなさんへ、春一番の幸せの象徴ともいえる福寿草と、若者・青春の躍動イメージになんとなく連なるノゼリとバッケ(フキノトウ)の若い緑を載せてお祝いです。式典に出席できなかった議員各位からのお祝い心もみな込めて、卒業生のみなさん、あらためておめでとうございました。

封建の昔なら11歳から17歳頃は元服で大人の仲間入りだったそうです。みなさんを保育園入園式の頃からみている私にとって、毎年、小中卒業生の姿を見る度に「なんと、立派に成長してくれたもの、育ててくれたもの」と感無量になります。卒業生のみなさん、夢、目標にむかっての今後の大いなるご活躍をお祈りいたします。

来年度予算案審査へ

昨日は予算特別委員会が開かれ、来年度予算案の審査が行われています。審査は今日まで。
開会冒頭には、東日本大震災で亡くなられた方々を追悼し、黙祷が行われました。

今から25年ほど前、こちらが議会で活動を始めた頃の予算案審議は本会議方式で、各課長が質疑にすべて一人で答えていました。議長を除く全議員で構成される委員会方式の今は、課長のほかに担当職員も同席していますから答弁側の心の持ちようは、昔のように本会議場で一人で質疑を受けるのとはまた違った感じがあるのかもしれません。

私の体験からすれば、質疑の議員側にとっても、委員会での審査は本会議場での発言とはちがった趣がやはりあったものです。

予算案には、説明資料として各課の主要事業を細かく説明する別冊の「主要事業の概要書」も添えられます。これは、予算案の根拠となる財源、予算の主たる目的、事業の詳細を理解するために欠くことのできないもので、以前よりはるかに充実した説明資料がしめされています。

きのうの一般会計の部の審査では、こちらが聞き取った範囲としてはおよそ30前後の内容点について質疑応答が交わされました。

必ず来る大地震

今日は東日本大震災の日。犠牲となられた方々を追悼し、原発事故により今なお避難されている方々をはじめ、被災された皆様へ心からのお見舞いを申し上げます。

10年前の今日は3月定例議会最終日。震災の時は午前で議会終了後に年度終わりの懇親会を夜に予定し、それまでの間に村内で所用を果たしていた。大地震の揺れがあった時間はちょうど運転中で、田子内から下田付近を通っている時だった。

早速役場にかけつけた。防災センターで、新しく就任することになった副村長をはじめ職員のみなさんが諸々の対応にあたっていたときのことを思い出す。

懇親会は急きょ中止。村内や県内では目立つ人的被害などはなかったので、停電やガソリン不足への対応は別にして、以後は津波被災地への支援が村の大きなとりくみとなった。

こちらも、兄弟たちや身内関係が仙台や大船渡などに暮らしていたので、交通路が確保されてからはそちらに向かった。

津波被災の写真は、4月2日、身内の安否確認で訪れた大船渡から陸前高田をまわって来たときの現地の様子である。行方不明者を捜していたのだろう、津波が止まった山際でガレキを寄せて活動する消防団員の姿が今も目に浮かぶ。

震災翌日の3月12日には中学校、16日には小学校で行われた卒業式写真も、棚から引き出してみた。我が家前、岩井川の国道に長く連なる車は、震災後の18日夕方、ガソリンスタンドで給油を待つ方々の列である。

2007年から記していたこのブログを2010年12月に訳あって止めていた。震災はその翌年春だったので当時のことは私のブログには記録されていない。ブログはその年の7月に再開した。

いわれるまでもなく世界有数の地震大国のわが国。奥羽山脈内陸の直下型地震、東北太平洋側や日本海側の地震、首都圏直下型地震、相模トラフ、南海トラフの地震などと、予告される発生確率年数にちがいはあるものの「おきる可能性はいつでもある」と予告されているだけでもこれほど多くの大地震のエネルギーが溜められている。

近い将来か遠い将来かはわからないが、これまでの大地震の発生サイクルをみれば、忘れる間もなく大地震はくる。必ずという言葉はそれほど多くつかう言葉ではないが、この国に暮らしていれば、「大地震は、必ず来る」ということを覚悟しなければならないのである。後は、それが「いつ、来るか」ということなので、ぬかりのない備えにみんなで心がけたいものである。

映える焼石連峰

県南の湯沢雄勝地方に大雪をもたらす大きな要因とされるのは対馬暖流と奥羽の脊梁山脈といわれます。それに雄物川の流れも少し加わるのでしょうか。

横手平鹿・湯沢雄勝地方の東にあるのは栗駒国定公園に位置する焼石連峰と栗駒連山。西北の季節風は、この二つの大きな壁の連なりが屏風となり大雪をもたらします。

春になるとこのように増田や十文字、羽後町方面からながめる焼石連峰は白さが際立ちます。ただ、西北の風を真正面から受ける連峰の西側は、風が強いので頂上付近の積雪は少なく、日が経つにつれて頂上尾根筋はもっとも早く雪がなくなり土肌の黒さが増してきます。尾根の冬は、それだけ強風が荒れ狂う場所ということがそれからわかります。

一方、尾根の風下、つまり東側には大量の吹きだまりがありますから、そこは雪解けが遅く、岩手、奥州市や一関側からながめる焼石や栗駒の嶺は秋田側からながめるよりも遅くまで残雪の白さが映えます。ちょうど、残雪の多い鳥海山を遅くまで横手盆地側からながめられるのと同じです。

人里の雪解けとともに映えてくる真白き嶺々。とりわけ焼石連峰は、成瀬川や皆瀬川下流部、雄物川筋からほぼ全体像がよく目に入るだけに、鳥海山とともに春の湯沢雄勝、横手平鹿地方の人々にとっては得がたい景観となっています。

▼今日はわずか一夜でおよそ10万人の命がうばわれたという東京大空襲の日。その後も終戦の8月まで、空襲としてはほぼ最後となる秋田の土崎空襲まで日本全土の都市は猛爆されました。すべて日本がはじめた中国大陸への侵略戦争、後の第二次世界大戦が原因となる戦争によってもたらされた残虐な殺戮行為です。

国語的な解釈では戦争を「武力による国家間の闘争」とたとえば広辞苑は記します。国家間の武力による戦いなので、戦争で対じするどちらの国家も自らの正当性を主張し「自国が正しい」ということで戦争に突き進みます。しかし、大きくくくれば戦争は、侵略する国の不正義と、その侵略を防ぎ抗するための防衛のたたかいに分けられるでしょう。

だが、戦争とはそれほど単純なくくりで終わるほどのものでないことも歴史は教えます。戦時のわが国は、その政治と教育の下、人類史上に刻まれる甚大な殺戮行為で大きな被害を他国、とりわけアジア諸国に与えました。一方、連合国側の一員も、非人道的な空襲や核爆弾で我が国の子ども達をはじめ非戦闘員の命をうばいました。東京大空襲を、そして沖縄戦を、広島、長崎の残虐を生んだ戦争をみればわかるように、また記憶に鮮明なベトナム戦争などと同じように、戦争とは、徹底して殺し尽くし、焼き尽くすところに究極は行き着くのです。

明日は東日本大震災の日。福島の原発事故をのぞけば、この震災で大きな犠牲となられたのは津波という自然災害によってでありました。しかし、76年前の東京大空襲をふくむ戦争の悲惨は、人災の最たるもの、人間による誤った行為を原因とするものであったことを、私たちはこの歴史に刻まれる日から学ばなければと思います。そして、一人の国民として、この愚かな誤りをこの国が二度と繰り返さないために、自分のできることにつとめることこそ、これらの戦争で犠牲となられた方々へのなによりの追悼になると私は思います。

今冬初の県境尾根行き(その2)

毎年お知らせしているように、岩ノ目沢の林は千古斧の入らぬ原生美林。沢のまわりや近くは、県境をはさんで岩手、秋田とも、ほとんどが択伐(良質の材を選択で払い下げ伐採)された国有林や秋田側では皆伐の民有林、国有林も多いのですが、岩ノ目沢本流の北側はどんな伐採の手も入らなかった歴史があります。

岩ノ目沢は大きくふたつに分かれ、本沢は仙北街道(手倉越)の丈の倉の下を通って県境直下を南東に延び柏峠近くまでつづき、ひとつの大きな支沢は西に県境までのびます。この日の気温の低さの持続と堅雪状態ならば丈の倉までも簡単に行けそうですが、ムリをせずに支沢の範囲での行動としました。ブナ林だけの観賞ならそれで充分だからです。

林内でゆっくりと過ごした後に同じ県境尾根へもどり、やや増えてきた青空の下で胆沢川本流域の林や県境にできた雪庇などを何度も往き来してながめました。厚い雲がまだ流れていて、標高の高い真白き焼石連峰は昼ちかくになっても姿を見せません。

この日の山行目的は、雪庇の発達した尾根でも、風の静かな林でも、樹木を新雪がやわらかにまとった光景を眺めることでした。尾根でも尾根付近の林でも終日気温が低く、夜半から朝にかけふんわりと降った雪がそのままかろうじて枝に着いていてくれました。尾根から標高をわずかに下げただけで、気温が上がりその雪風景はなくなってしまうのです。

おかげで、林や尾根の美しい雪風景は、「うわーッ、雪の花だ、雪の華だッ」と、声をあげながらなんとかめざした目的でながめることが出来ました。

登りも帰路もほぼ最短行。しかも日中も気温が低いままだったので下りもカンジキいらず。3月はじめで終日カンジキなしで歩けるという山行でしたので、車に到着はすこぶる早く午後1時。あまりに早く帰ったのでなんだか拍子抜けのような気も。寒さもあり約6時間一度も座らずの二人の山行。でも、携帯はわずか8,800歩しか刻んでいませんでした。

Iさんも、私と同じでこの日は空模様をみて予定より出発時間を1時間ほど遅らせたということ。おかげで二人の歩き始め時間がちょうど同じとなり、そんなうれしい偶然が重なって、語り合いながらの楽しい山歩きとなりました。ものごとには計画や思惑どおりでないことがおきて、そこにはいろんなプラス要素も時にはうまれることもあるものです。

景色をながめる時とはちがい、山を下り次第に青空が多くなりました。カントリーパークで県境尾根を振り返り、増えてきた青空を見て、「もう少し早く、あの青空が出てくれればなぁ」とため息です。出発を1時間遅らせて青空時間を待とうとしたのですが、歩きが早かったためにいっぱいの青空が来る前の下山となってしまい、歩きやすさがアダとなったという訳です。お天気と山行では、こんな皮肉なことがよくあるものです。

帰路の道ばたには、使い古したのでしょうか、ふかふかのリスの巣が落ちていました。

今冬初の県境尾根行き(その1)

お天気はよし、行事はなしの休日となったきのう。今冬初めて県境尾根を歩き北上川支流の胆沢川、そのまた支流の岩ノ目沢に踏み込み、いつものブナ原生林をながめました。

日中の予報は雲無しの晴天を告げましたが、朝はまだ厚い雲で軽い雪が時々ふわふわと舞います。それで「青空を待つには早出は無用」と、いつもより時間を遅らせ7時に歩き始めです。

昨日は予想より雪が堅く締まっていて、雪原はまるで4月の堅雪本番のよう。カンジキを着けずにどんどん歩けます。それに、カントリーパーク管理棟などの雪除雪で国道上を上がったユンボーのキャタピラー跡もあります。4月に入ってからなら分かりますが、まだ3月はじめのこの時期にカンジキ無しで歩けるのは助かります。

履こうと思ったカンジキをリュックに結びつけ歩き始めたら、こちらの100㍍ほど前を、やはりリュックにカンジキを結わえて歩く登山姿の方がおります。「おっ、俺と同じような山行きの人、しかも、背にしているカンジキは村でよくつかわれるトリキシバをつかった輪カンジキ。どこの方かな?」と少し早足で近づいたら、なんとその方は、仙北街道歩きを何度もいっしょにしている増田のIさん。

「やぁーっ、どっちさ?」とお聞きしたら、県境まではほぼ同じコースで、歩きの目的にはこちらと同じ写真もあるようなので、少し間をおいてから「よかったら、いっしょのコースへ」とお誘いしました。焼石をはじめ村の雪上山歩き体験の多いIさんですが、この日こちらが向かうコースは初めてだったようです。以後は帰りまで、互いに出発時間をずらしたおかげでできた思わぬ偶然のいっしょの山歩きとなりました。

カンジキ無しの堅雪歩きなので速度は早く、一直線のほぼ最短距離でたちまちのうちに尾根に到着。時計をみたらまだ9時です。気温の低さは予報どおりでしたが、空模様はちがって厚い雲がなかなか途切れず、県境の尾根にあがっても焼石連峰はほとんどが雲のなか。かろうじて三界山がほんの瞬間に姿を見せるだけです。

時間が早いため雲の切れ間から陽射しや青空がのぞくのはわずかの合間だけ。カメラをもつ手指がかじかむほどの冷気のなか、早い雲の流れを見上げて待ち待ちしながら、たまにチャンスがおとずれると二人で「さあ、(晴れ間が)来るぞ、それ、今だ!」とシャッターを押し合いました。

立ち止まったままだと寒いので尾根への長滞在はほどほどにして岩ノ目沢の林へ下がりました。以後、しばらくの時間、カンジキなしで歩きやすい林内を自由に上がり下がりし、少しの雲の切れ間が来るのを待ち待ちしつつ、右へ左へと移りながらブナ原生林の撮影歩きです。

本格的な堅雪はじまる

今朝もほとんど雲なしの晴天でしたが、昨日朝は気温がぐんと下がっての晴天。こうなると雪原は大人が歩いても飛び上がっても足が雪に沈まないほどで、今シーズンはじめての本格的な堅雪となりました。

カンジキなしでどこでも自由に歩けるので、日の出前の河川敷をゆっくりと散策。岸辺のネコヤナギもほとんどが殻を脱いで真っ盛り。水際のバッケ(フキノトウ)もやわらか色の芽がふくらんでいます。その風景もあってでしょう、成瀬川も水面は日増しに春色を増しているように見えます。

役場で用務を果たしての帰り、国道脇の電柱にノスリほどの大きさのタカの仲間が止まっていました。3月~4月の雪解けが始まる頃になると中くらいの大きさのタカがよく目につくようになります。雪解けになると捕食するネズミたちの動きがより活発になるからでしょう。

今日から3月定例会議がはじまります。晴天の下なので気分良く過ごせる会議の一日となるでしょう。