里山を郡境まで上がる

11日(土曜日)、天気が落ち着いた様子をみて、今冬はじめて自宅北側の里山を郡境の尾根まで上がりました。村内ほうぼうへの所用を済ませてからなので、軽い食べものをリュックに放り込んで出発は9時30分。

前日の早暁からこの日朝まで二日間に降り積もった新雪が30㌢ほどあり、雪上にはリスやノウサギ、テン、カモシカ、ヤマドリ、それに足が短く胴体を雪に沈めて歩いたイノシシの足跡、ノウサギが大好きなコシアブラの芽をナイフのような切歯で食べた跡など、この二日間で動いた生きものたちの様子がのこされていました。

八卦沢を上がり始めにいつも見上げるのは、この里山では最も太い造林杉。樹齢は100年をはるかに超えているであろうまるで天然杉のような幹です。

ここからは急登となり、カンジキ履きでも30㌢ほどは足が雪に沈むのでゆっくりの上がりです。この林は、中学生の頃からノウサギ猟の勢子(追い出し)役をふくめ何度もウサギを追いかけたところ。集落のマタギ(生業のひとつとして狩猟やイワナ釣りをしていた)Tさんたちや、趣味で狩猟をしていた父親たちなどに連れられてよく通った里山です。

まさにこの里山は、唱歌にあらわされる「兎追ひし 彼の山」そのものです。こちらは、この歌詞にある「兎追いし」を、しばらくの間「兎負いし」なのかとも思っていたほどです。「追う」だけでなく捕えたウサギを背負わされましたので。マタギや狩猟生活といえばよくクマを想像するでしょうが、雪国の村で生業の一部とした狩猟では、もっとも多くその猟の対象となったのはノウサギです。またノウサギは、冬の間の肉食、たんぱく源としても食生活の大きなささえでした。なので「兎美味し」と覚えていた方もおるとか。

山の中段あたりはミズナラとブナなどが林の主体ですが、そのミズナラはナラ枯れ病によって多くが立ち枯れ状態です。なかでも昨年に枯れ死したばかりの幹は、葉っぱを落とせないまま立っていますからすぐにわかります。林の隙間からはわが集落の所々が眼下に見えます。

8分目ほどまで高度を上げると、林を占める樹種は主にブナだけとなります。ここにはブナとしてはありったけ生長し樹齢300年近くになるでしょうか、大樹があり、この根元で毎年と同じように初休憩です。並みの冬といっても積雪はここでは2㍍ほどでしょう。

ここまで上がれば郡境はもうすぐ。風が冷たくなり、ヤッケをリュックから取り出し身に着けます。

郡境の尾根まで上がったらそれまでと違い雪は意外に深し。お天気は遠くが望めるほどにはならず、期待していた岩手山も焼石連峰も厚い雲に遮られて展望はきかず。ここでもクマの爪跡の多いなじみのブナたちをながめ、横手市増田の真人山方面や横手市山内の三又集落方面をのぞみます。9時30分の歩き始めでしたが、引き返し地点に着いたら12時近くになっていました。

いつものコース取りで帰りは急な尾根をいっきに岩井沢へ下りです。陽射しで新雪が湿り始めていて、踏み跡から落ちた雪が坂を転がると「ゆきだんごろ・雪まくり」ができるようになりました。斜面の新雪はワス(表層雪崩)がとても発生しやすい状態なので警戒しながらの下りです。尾根の雪庇はさらに発達を続け積雪のふくらみを増しています。

途中、椿川方面の集落をながめ、ぐんと下がった林の中で、遠くにいて食事をしているらしいカモシカが目に。ノウサギやヤマドリ、テンやキツネとの出会いを期待していましたが、それまではいずれとも出会いは無し。これがこの日はじめての生きものとの出会いです。いかにもあたたかそうな冬毛をまとったカモシカは、こちらをじっとしばらく見つめていました。獣たちは冬になるとみんな体が夏よりふくらんで見えます。

帰りはいつものように沢に入り、生活用水の取水口につまった木の葉や木の枝の取り除き、石などを積み重ねて遠藤堰に注ぐ水量確保です。2月ですのでやはり沢の水はうんと少なくなっていました。

途中の雪原にはユギムシ(ユキムシ、雪渓カワゲラのこと)がいっぱい。2月半ばで「ゆきだんごろ」にユギムシ、これを見れば雪国人は冬の厳しさはそろそろ終わりであることを感じます。歩き終わりは午後1時。里山とはいえ、スマホの歩数計は約1万歩、3時間半を要した久しぶりのちょっと長い雪上カンジキ歩きでした。

皇居のお堀通りをひと周り

都内での会議や国会・省庁への要望活動、以前は度々の総理官邸への要請行動などの際、こちらが主に泊まるのは、永田町や霞ヶ関、町村議員会館に近い半蔵門の2つのホテルでした。

そこは皇居のお堀に近く、行動時間に余裕や間があったときはよく歩道を散策し、お堀沿いの景色ながめをした20年間でした。

今回も、7日の会議が朝早くからだったことから前日に都内入りとなり、夕食前の時間をその散策に費やしました。ただ、この日はお天気もよし、時間もたっぷりとあったので、「皇居のお堀を一周してみよう」と、はじめてのちょっぴり遠距離歩きです。

「このコースをまわるには、マナーがある」ということを、歩きの後半で看板をみてはじめて知りましたが、そのマナーとは「周回は反時計まわりに進む」ということです。これまでもあそこを周回ランしている方々を何度も目にしていました。なるほどそういえばランニングも散歩も土地の人々の多くは同じ方向に向かって進んでいました。進みが同じ方向だとすべてがトラブルなくまわるという理由なのでしょう、納得でした。もちろん、用務での移動や、短距離の散策までそういうマナーが厳しくもとめられるということではないでしょうが。

とにかくそういうことで、マナーを知らずに時計回りに通りを一周してしまいました。出発はもちろん千鳥ヶ淵の半蔵門。過ぎ具合のサザンカの花、桜の根元周りに植えられた花たちや、老いた桜の幹にとりついたサルノコシカケ科のキノコなどをながめて進みます。

春には桜花で名のある千鳥ヶ淵もいまは静寂、お堀の向こうには国会議事堂も。お堀まわりのあちこちでは、陸にあがったカモたちが草の実などをさかんに食しています。

景色に派手さのない冬ですので、歩道脇に時々見られる枯れ草も時々わたしの目を引きます。北の丸公園から竹橋、平川門、気象庁前を通り大手門までがこれまで一度も歩いたことのないコースで、大手門では歩道に埋め込まれていた秋田の花「ふきのとう」のプレートをゆっくりと見つめました。秋田の花標はなぜ大手門そばとなったのでしょうね。

そういえばお堀周りの歩道には山形の「紅花」をはじめ各都道府県の花のプレートが所々で見られます。今頃になって、このことにもはじめて気づきました。距離およそ5㌔のこの歩道には47都道府県の花標と、地元千代田区の花標などが約100㍍毎にプレートにされ埋め込まれていて、タイル版のその花標は「花の輪」と呼ばれていることをもです。

東京駅近くの二重橋前から桜田門を経て半蔵門まではなじみのコースと風景です。翌日に「北方領土返還要求全国大会」が開催される国立劇場前には、梅でしょうか、花開き始めている木もありました。途中、麹町のホテル街裏方面にも立ち寄りましたが、ここの界隈にもいろんな梅の花が咲き始めていました。

九段方面までは行きませんでしたが、ぐるっと早歩きで一周したら1時間を少し超える時間を要しました。靴もこういうときの歩き専用ではなかったので、足はかなり疲れましたが、こちらにとっては貴重な体験のひとときとなりました。スマホの歩数計はあちこちに立ち寄った分もふくめて8500歩ほどに。この日の合計歩数は13,000ほど。今回は特別な歩きですが、東京行きは、いつも「歩く」ということを頭に入れなければならず、その点でも健康な体が大切となります。

議長会の会議で都内へ

7日の全国豪雪地帯町村議会議長会の総会、北方領土返還要求全国大会、北海道東北ブロック町村議会議長会の総会、そして8日の全国町村議会議長会の総会、都道府県会長会、町村議会議員共済会代議員会、町村議会議員互助会代議員会、町村議員会館臨時評議員会と、一連の会議があり都内で過ごしました。

豪雪議長会の総会前には7日朝早くからの理事会もあり、若干の打ち合わせもあることから6日のうちの上京となりました。

わが村はほぼ並みの積雪ですが、豪雪の総会では、村の一部集落で積雪が2㍍をこえた3日に、それまでの雪害警戒部から雪害対策部設置へと体制が強められたことを挨拶のなかに加えました。豪雪議長会は、会長の職務代理として理事会進行と総会前段の務めを果たすことになり、総会の議事では新しく富山県の岡田建治氏(立山町議会議長)が会長に選任されました。

7日午前、ルポール麹町で開催された議長会の総会は、地方分権の推進事業としては、国の予算編成対策等の政策要望事業、地方六団体による政策提言や政党対策などの実行運動事業、調査・研究事業の結果報告などの情報対策事業を、さらに町村議会振興事業としては議会運営等に関する助言活動、調査事業、研究・研修事業などを、そして表彰や諸会議などの開催を事業計画として決めました。

▼同じく7日、国立劇場の大劇場で開催された令和5年北方領土返還要求全国大会の次第と採択されたアピールは別掲の写真のとおりです。1855年2月7日に調印された「日魯通好条約」で両国間の国境が定められ、この日が「北方領土の日」とされています。条約にあるとおり北方四島は日本固有の領土であり、あらためて当時のソ連によって不法占拠されたままの状態が続いていることへの憤りを強く感じさせられた大会でした。その大切さが大会アピールに凝縮されておりますので、ぜひお読みになってください。

▼在京中は、都内もそれに村もお天気はおだやか。公務ではこれがおそらく最後の上京であり、往復の新幹線からのぞむ岩手山や早池峰山、栗駒・焼石岳の雪景色、雪の日本海側から雪のない太平洋側のそれぞれの田園や家屋をながめつつ、およそ20年間の議長職と足かけ2年間の県会長職の日々についてを思い深くふり返る車中ともなりました。

北海道、東北各県の議長会会長のみなさんは、それぞれが今年の春で任期が終わりとなりますので、今回の会議は「これが最後の顔あわせ」ということになりました。互いに「2年間お世話になりました」のご挨拶が交わし合われ、人情の機微あふれ心通じ合う会議の2日間となりました。それは、全国議長会の会長さんや事務総長さんをはじめ豪雪もふくむ事務局の皆様、そして東北各県の議長会事務局長の皆様に対しても同じで、対面での語り合いはこの会議が最後ですので、私にとっては、お世話になったことへのお礼の日々ともなりました。

同級生が急逝

2日、同じ集落にくらしている同級生Yさんの訃報が突然入りました。

1月29日、Yさん宅を訪れた際には御夫婦で雪寄せ作業をしている元気な姿と行き会ったばかりでしたから、急逝の知らせには驚きました。しかし、その日の夕方に眠るようにしておられるご遺体を前にしてその悲しい現実を認めなければなりませんでした。

Yさんは、畑や田んぼのある箇所がわが家の田んぼに近く、また、直売所のそばでもあることからそれぞれ作業の折には私も妻も会話をよく交わし合う仲でした。ものごとにほんとにまじめにとりくまれる方で、とっても優しい心とことばに満ちている方でした。

JA退職後しばらくして、健康を損ねられることもありましたが後に体調もよくなり、畑作物の栽培などでも「ほんとに、よくやるなァ」とみなさんが口々に語るようなはたらきを続けてこられた方でした。

息子さんがこちらの娘と同じ歳でもあり、ほかにもあれやこれやと同じ集落で共に暮らしてきた間柄だけに、きのうの会葬を過ぎてもやはりまだ亡くなられたことが信じられない心境です。

昨年秋には、Yさんのすぐ隣に住まわれる同じ同級生のKさんが亡くなられております。Kさんの息子さんも私の娘と同じ歳で、こんなにたてつづけに同じ地域でつながりのある同級の仲間にあまりにも早く逝かれてしまい、気が重く沈む年の2月となりました。

まだ半年余しか経っていないKさんのご逝去の際と同じで、ご家族の皆様の無念を察すると胸がつまります。Yさんは時々まじめな表情でジョークをとばし私ら夫婦を、時には野良で時には直売所で微笑ませてくれる方でした。Yさんへも、そして貴重なご助言をいただいたKさんへも、ここにあらためてご冥福をお祈りし、心からのお悔やみを申し上げます。

▼2月3日、村役場に設置されていた「雪害警戒部」(部長・民生課長)が「雪害対策部」(部長・副村長)へと設置替えされました。積雪が役場所在地の田子内で157㌢、もっとも積雪の深い大柳集落で216㌢と増え、今後へむけ備えをさらに充分とするための措置です。

4日の土曜日、前日までの吹雪で屋根のマブ(雪庇)が大きくなったため、それを掻き落としに屋根上へ。晴天で、屋根雪もまわりの山々もまた素敵な雪景色となりました。

エド(池)と軒下まわりには、またまた鯉を狙ったテンの足跡がつけられていました。摂れる柿の実や木の実の少なくなった鳥たちと同じで、野のほ乳類たちにとっても一年でもっとも厳しい季節がもうあとひと月ほどは続きます。

貯蔵のキノコや山菜で冬の食を豊かに

わが家の1月から3月頃の食卓は、塩蔵や瓶詰めの山菜やキノコがもっとも多く並ぶ時です。

なかでもほぼとぎれずにキノコや山菜が用いられるのは味噌汁やおでんで、それにいろんな煮ものにもこれらの食材は重宝されます。キノコのなかでも採取・貯蔵量の多いサモダシ(ナラタケの仲間たち)は山菜のワラビとともに味噌汁や納豆汁へ入ります。

やはり採取量の多いミャゴ(マイタケ)の老菌、ホウキタケの仲間のハナホウキモドキと(ウスムラサキホウキタケ)、アガキノゴ(サクラシメジ)やカノガ(ブナハリタケ)、クリカラモダシ(クリフウセンタケ)はオデンや煮ものへ、山菜ではサグ(エゾニュウ、シシウドの仲間)やネマガリタケノコも煮ものへ頻繁に登場です。

塩蔵したキノコのうち、トビダゲ(トンビマイタケ)、ナラトビ(オオミヤマトンビマイタケ)、ノギウヂ(ヌキウチ・エゾハリタケ)、マスダゲ(マスタケ)、ミミダゲ(ヤニタケ)は味噌漬けとして利用します。オオミヤマトンビマイタケとヤニタケの味噌漬けはとくに私の食欲をそそります。キノコの味噌漬けとしては味覚最高級の番付を私はこの2つのキノコにつけています。

キノコ界全体では、味がトップクラスの仲間に入るシシタゲ(コウタケ)、オオヒメジ(ホンシメジ)、ハダゲシメジ(ハタケシメジ)、それにミャゴ(マイタケ)の幼菌・成菌たちは、お吸い物でその高級感をじっくりと味わいます。

▼低気圧通過後の寒波襲来と大雪を警戒するなかで昨日から今朝を過ごしました。気温は今朝でマイナス9℃、30㌢ほどの積雪が新たに加わりましたが、寒気がいったん弱まる様子なので一息つけそうです。

荒れ空前に4回目の雪下ろし

村が独自に設置の積雪計は、きのう役場所在地の田子内で136㌢、岩井川146㌢、椿川171㌢、大柳181㌢の積雪深を記録しています。

これだけの積雪になるとわが家も雪下ろし回数が平年並みとなり、おとといから昨日にかけて「低気圧後の寒波が来る前に」と4回目の雪下ろしを終えました。

雪下ろしが4回目を数えるようになると、農作業用具小屋など軒の低い建屋は、先日も記したように軒先に雪がつかえてしまい、「下ろし」ではなく「雪投げ、雪掘り」の作業となります。でも、まだこの程度の雪なら平年並みですから楽なもの。明日は節分、下ろしが5回目などとならずに、このまま並みの冬で春をむかえたいものです。

ワス(表層雪崩)はこうしておきる

過ぎた週末から日曜にかけ、国内各地のスキー場や登山で雪崩の事故が発生しました。

現場をみていないからわかりませんが、先週はそれまでの積雪が締まっていた所にいっきに新雪が積もったので、雪崩の一定箇所はおそらくその新雪が滑り落ちたワス(表層雪崩)と思われます。

実は、今はそのワス(表層雪崩)がとても発生しやすい雪状態であることを、日曜日の小さな体験からあらためて教えられました。

その体験というのは、自宅のエド(池)に引く水の取水口のゴミを取り除こうと用水路脇の雪を掻いていたときのこと。水路側の雪をスコップで落としていたら、いきなり雪面がビッと音を立てて割れ、10㍍近くの幅にわたって厚さ30㌢ほどの雪の層が水路に崩れ落ちたのです。

雪の割れ面と雪の落ちた跡は写真のとおりです。こういう状態で雪の層が割れ離れて大規模に滑り落ちるのがワス(表層雪崩)で、村人も過去にこのワスでいたましい命を奪われております。ワスの発生は、わずかの震動によって引き起こされるまさに一瞬の出来事。そのスピードは時速100㌔を超えるというほど早く、国内の過去数多の事故例のように破壊力も甚大となるのです。

こちらも過去に、狩猟の方がワスに襲われた現場を目にしたことがあります。その方は、雪崩に巻き込まれて滑落、幸い命は助かりましたが滑落の際に銃などを雪の中に埋めてしまい、「銃を探しに行ってほしい」と頼まれた時のことです。

厚い雪を何時間も掘り続けてやっと銃は見つかりましたが、スコップで雪を掘る時のワスで締まった雪崩の固さを今も時々思い出します。この雪の直撃を受け、しかも締め付けられるわけですから人の体などたまったものでないのです。

雪面に新雪がいっきに降るこれからは、登山、スキー、仕事と、ワスへの警戒をとくに強めての山入りとしてほしいものです。