村の大雨の歴史も教訓に

局地的に短時間降雨量が多かった1日の夕刻。その翌日に村の歴史で水害の大きかった7月のことを少し記しました。その後に、九州地方を特別警戒警報級の大雨が続けて襲いました。亡くなられ、被害に遭われた皆様に心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。

ところで、先に少し触れました1947年(昭和22年)7月の大雨。おそらくその年の7月22日から24日にかけての大雨は、ここ100年以内では、成瀬川が最も大きく氾濫した時と思われます。それは県史の上にも最大規模と記される大水害の年の7月です。

私の亡き祖父(1903年・明治36年生)の日記では、今から73年前のこの大雨の日の前7月14日から19日までは天気の記述を連日「晴天」とし、20日と21日は「時々雨」と記しています。そして大雨の22日がやってきます。日記は次のようにその水害のことを、それぞれの日にわずか二行だけの文字で記されています。()内書きは私です。

………「七月二十二日 雨 大水デル 午前カトリ柴ショイ 午後カヂカスキ 十七クシ(カジカすくい、17串) 」「七月二十三日 大雨 大水 草一セカリ カラ田大水 皆水見(現在は川、河川敷となっている我が家前の川原、ここには広く田んぼがあり、そこの地をカラと呼んだ。カラは川原の意)」「七月二十四日 大雨 朝食前バゝ(馬場)木ヨセ 大水又カラ田ウズメラレル」「七月二十五日 晴 フドー前の水トメ カラ イネオコシ(川原の田の倒れた稲起こし)」………。

この記述を見ると、7月22日から雨が降り始め、午後に網でカジカ掬いをしたほどの余裕ですから、まだその日は被害など想定されない降雨量だった様子です。しかし、夜から翌日も翌々日もさらに雨量が増し歴史的大洪水となり、23日には、ここにあった田んぼがすべて大水の下となり、その様子を皆で見ていたとなっています。翌24日には、馬場というところで流木?を寄せ、田んぼがすべて埋められたことが記され、かろうじて土砂の害を免れた田んぼでは、水で倒れた稲を起こしたということのようです。

この水害の後に、地権者、部落、村、議会と一連の交渉、相談、会議等が幾年かかけておこなわれています。その結果、県の工事としてでしょう合居川合流点から岩井沢合流点までの間に堤防が建設された経緯は、後の祖父の日記などで知ることができます。現在、田んぼはみな川原となり、堤防は改修されて当時の面影はありませんが、その位置は城下公園脇の現在の堤防(写真)とそれほど変わっていないと私には見えます。

この堤防は、村と県の歴史的大洪水被害を知るひとつの証のようなものです。村の場合は急傾斜地直下と各支流出口に集落があります。近年の豪雨で多発が特徴の「線状降水帯」の時間が長ければ、土砂崩れ、土石流など成瀬川本流だけでなく支流や山からの土砂災害発生の可能性が大きくあります。あらためて、梅雨時もふくめた前線に沿う局地的な大雨や台風による大雨も含め、洪水、土砂災害対策と避難の在り方(避難場所が適切かどうかもふくめ)に念を入れた備えが、村、関係機関、集落、個々の家々に必要と思われます。