落葉の終わったブナの森深山へ(その2)

深山では、ナメコの出ているブナの倒木はたいがいが樹齢300年ほどといわれる大木。時々、ワス(表層雪崩)やヒラ(底雪崩)の直撃を受けて倒れた受難のブナもありますが、ほとんどは寿命を終え、腐朽菌(キノコ)などにとりつかれ、強風などで倒れた木です。それだけ横たわる木の径が大きいだけに、運がよければ一本の木でもう充分というほどの量が採れることも時々あります。この日はそんな倒木はありませんでしたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブナ林の地面でこの季節に目立つのは、初冬の陽射しに輝くイワウチワの葉っぱです。春一番に可憐な美しい群落を見せる森の名花は、ほかの草木が葉っぱを落とすなかでこのように丈夫な葉っぱをつけてそのまま厚い雪に押さえられ冬を越します。たしかイワカガミもおなじでしょう。花がなくても、初冬のブナの森でとっても存在感のある野草です。

イワウチワのそばにはカモシカのきれいな糞も。おなじ反すう動物なのに牛の糞はベタベタしていますが、カモシカの糞はヤギと同じようにポロポロの粒状。どうして糞のかたちにこんなちがいがでるのかな?などと思いながらながめました。

広く深いブナの森、歩けば歩くほどナメコは見られ大木への群落もまだまだ期待できます。しかし、この日はキノコ採りだけが目的でないので背中の入れ物に3分の1ほどの収穫にして「採り」は止め、「撮り」と「風景眺め」の方に時間を集めました。

ここの深山には所々のブナ林に昔炭焼きをした炭窯跡がみられます。合居川のカビラ沢(桑平沢)、アガクラ東部のワシ沢(鷲沢)などは、大正7、8年頃に銅鉱の採掘(岩井川鉱山・合居川鉱山)が行われていたことを村の郷土誌はつたえます。岩井川鉱山の開発に当たったのは当地の備前善蔵(昭和12年就任の13代村長)。

また太平洋戦争がはじまる頃の昭和16年には、それまでの尋常小学校から国民学校へと名をかえた村内の各小学校が、労力不足をおぎなう木炭運びの「奉仕作業」にかり出されたこともあります。合居川では、椿川小学校の児童が木炭運搬奉仕作業にあたったことをやはり郷土誌は記します。岩井川の児童たちも入道で、東成瀬小学校の高等科2年男女たちなどは仁郷で宿泊の運搬作業がなされたと郷土誌はつたえます。

明治の銅鉱採掘、そして戦中の木炭製造と児童らの「奉仕作業」は、この林内の炭窯跡と何かの関わりがあったのでしょうか。渓谷のほとんどは明治の時代に国有林にされてしまっていますから、森林管理署などにはそれらの参考となる資料があるのかもしれませんね。
おなじ山歩きでも合居川渓谷入りは、自分が集材架線作業ではたらいた40年ほど前をふりかえるときであり、70数年前からの郷土の歴史をしのぶ歩きともなります。

さて、入山者が激減あるいはほぼゼロとなる深山では、何週間もの日数が経つのにどなたもここには入らなかったらしく、老いてしまったナメコやムキタケもあちこちにいっぱい。「あ~あッ、もったいない」とつぶやきながら、その様子をお知らせしようと写真にだけは収めてきました。ナメコ写真の最後の方の4枚はその「もったいないナメコ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

めずらしく雪がないので入れた11月下旬近く落葉後のブナの森深山歩き。こういうことができるのはまた何年か後でしょう。帰りには、華やかな紅葉からまるで趣をかえた天正の滝と「いずくら」の崖ものぞいてみました。