郷愁にかられるバス車庫

まもなく3月。わらし(童)だった頃のこちらにとっては、春休みが早く来ることを待つはじまりの3月でした。

集落では、それぞれの部落ごとにわれわれ童どもの集まり場所(遊び場)があり、春が近づいたわが集落では、たとえば城下の我が家そばにある「三吉様」と呼ぶ小高い神社の境内はその一つ。我々にとってはめったにないことでしたが、それからちょっと遠くまで遠征すれば合居の羽後交通バスの車庫も大切な春の遊び場でした。

とくにバスの車庫は雪がありませんから、バスが駐まるようになってからの合居の童たちにとっては冬から春にかけての絶好の遊び場だったと思われます。城下からも稀に我々が遠征したのですから、上野、東村までをふくめそこには集落の童どもがこぞって集まったのでしょう。

そこでの主な遊びはコマ回しとパッタブヂ(メンコ打ち)。コマ回しでは、曲芸師のような技でコマをあやつる凄腕の先輩が必ずいて、そういう先輩が手にしている歴戦のコマはどっしりとしていて、コマ木も鉄の軸も風格がほかより違うように見えたものです。

コマとは違いパッタ(メンコ)は、新しくて大きなのが童たちのあこがれの的。そういうパッタを買ってもらえる童はごく限られていました。刷られた表絵の紙がぶさぶさになってわずかの絵が残り、少しの風であおられれば裏返しされたり飛んだりするような薄いパッタで厚く新しいパッタを手にした時は実にうれしかったもの。そういう勝負の場にめぐりあえる機会も実際はそんなになかったのですが。

年代もののバスの車庫は、そんな遊び場だっただけにガキの頃の郷愁を誘う建物なのです。合居に最初あったバスの車庫は1台のバスしか駐められない造りだったようです。元バス運転手のSさんは「バス2台を駐車できる今の車庫は、確か『旧大森町にある車庫をここに移したもの』と聞いた。昭和43年で現在の車庫があったから、移し建てられたのはその何年か前だろう」と語ります。

我々が遊んだバス車庫は、今ある車庫なのか、それともその前の車庫なのか、ちょうど境目の年代あたりなので私にはわかりません。ただ、やや傾き古びた車庫の柱や板を見る度に、いつかも書きましたが昭和30年~40年頃の郷愁に私はかられるのです。