村と縁の深かった矢口高雄さん逝く

漫画家の矢口高雄さんが亡くなられた。村とも縁の深い方であり、矢口漫画のファンの一人として心からのご冥福をお祈りしたい。

「マタギ」や「釣りキチ三平」などで描かれた農山漁村の自然とそこに生きる人々の姿は、まるで昭和の時代がそっくり抜け出てきたように写実的で、景色もまた底抜けに美しい。当時の私などは、それと内容はちがうが「カムイ伝」や「シートン動物記」を描いた白土三平とともに惹かれた漫画家のうちの一人だった。

成瀬川流域出身の漫画家なので、描く山村の様子はどれも我々が体験した暮らしの一幕と重なる場面が多く、それに、私はクマ狩りをはじめ狩猟の場に長く身を置いていたので、マタギなどをふくめそのことでも共感する内容が多かった。

矢口さんは、わが東成瀬村と隔つ旧西成瀬村のお生まれ。そこは成瀬川支流の狙半内川流域の集落で、村と隣り合わせの山間の地だ。それだけでも我々にとって身近な存在なのだが、実は、矢口さんのご母堂はわが村のわが集落・岩井川から狙半内に嫁いでゆかれた方なのである。

村との縁はまだある。釣りキチ三平が映画化される際に、村の天正の滝がロケ地の一つともなっている。

矢口さんと同じように世界にもひろくファンをもつ村(岩井川)出身の漫画家・高橋よしひろさんが、2016年10月に「画業45周年記念祝賀会」を村で開催した時、矢口さんもお祝いにかけつけ、「母親が、東成瀬村の出身」であることにもふれながら祝辞をのべられたことを思い出す。

このように成瀬川流域は、矢口高雄さん、村の誇りでいま大活躍中の高橋よしひろさんと、二人の偉大な漫画家を隣り合わせて生み出したところ。お二人の作品の根底には、豊かで美しく緻密な自然描写とともに、人間愛にあふれた視点が貫かれているように感ずる。漫画の世界への踏み入れでは道は同じでなかったろうが、育った環境に相通ずるところがあるから、作品にも共通するようなモチーフがうまれ、その思いが貫かれたのだろうか。

昨日の朝、役場からの帰り道、木々を白く染めた雪にわずかの陽が射し込み、初冬でなければ目にできない山水の景色が目の前にひろがった。それは成瀬川流域特有の山と川と雪が織りなす四季の一コマであった。矢口さんが学校に通う頃、日々ながめ聞いたであろう成瀬川の、そのせせらぎの少し上流の川面と初冬の山風景を載せながら、一ファンの追悼の意としたい。矢口さん、すばらしい漫画、ありがとうございました。

雪の中、ぺろりんつるりんのキノコ生長

26日は広域市町村圏組合議会の臨時議会に堤出予定の議案の説明を受け、27日はその臨時議会へ。

この臨時議会は令和元年度の決算認定を議題とする議会です。私が広域議会に出ていたはじめの頃は12月定例会に提出されていた決算議案ですが、市町村議会なみになるべく早く審議ができるようにと、この議案一つでの臨時議会を開くようになっていたものです。

今回の決算年度で最も特徴的なのは、着工していた新消防庁舎が完成した年ということでしょう。議案は全会一致で認定されました。

▼休日は、訪れた童とともに河川敷でユギノシタキノゴ(エノキタケ)採りを楽しんだり、緑が濃くなった野生のクレソンやノゼリを摘み、キノコは早速夕餉の鍋モノへ。鍋のなかでは栽培のひょろひょろエノキタケと天然のエノキタケの旨味がからみ溶け合います。

初冬の里山では、晩生のムキタケとナメコがまだまだ真っ盛り。二つは、ぺろぺろ、つるつると粘るキノコの代表格。二つのキノコとも、雪を見るようになった季節の鍋モノ、味噌汁、おでん、納豆汁にと、体があたたまる食材としてうってつけです。

今回はめずらしくヤマドリモダシ(クリタケ)と、それにワゲ(ヒラタケ)も頭に雪を載せて見られました。こんなに遅い天然ヒラタケを目にしたのは初めてのことです。

あのナウマンが手倉越(仙北街道)を

あのナウマンがわが村を通り、手倉越(仙北街道)をして胆沢へ至り、北上から遠野を経て釜石に向かったという事実をこのほど初めて知った。

その驚きともいえる事実を知ることになったのは、村の元教育長で恩師でもある佐々木克郎氏の秋田地学に投稿された研究ノートの別刷り冊子によってである。

地学に関しての専門的な学びも知識もまったくない私だが、学業成績とかは別にして学校の勉強でいちばん好きなのが岩石や生きもの、地球や宇宙など地学や生物や星のことだった。だから、それら教科の教諭であった佐々木克郎氏の授業時間は楽しかった。

今でもわが書棚や枕元には、地球と宇宙、生きものなどの書籍が多い。それらに惹かれてだろうか時々、「こつこつと地道に物事にとりくむ大切さとともに、時には星を見て、太陽系、銀河系、もっと広大な宇宙から地球を観るような心で生きたいもの」と思うことがある。私の人生観にも星と宇宙は軸となる影響を与えているようだ。日々を大切に生きるとともに、大宇宙からみればわずか一つの点にもならぬ星に生きていて、人間社会の悲惨、醜態、憎悪、汚れた出来事へ、あまりにも情けなさを思ったりもするのである。

さて、そんな私がナウマンの名をはじめて知ったのは、みなさんと同じかもしれないがナウマンゾウによってである。(私は、地質関係のある図書で確か野尻湖のナウマンゾウ発掘から知った)日本で発見された新種のゾウの化石はあまりに有名だが、それに地質学者ナウマンの名を日本の学者はつけた。フォッサマグナの名付け親もナウマンという。

佐々木氏のノートでは、そのナウマンが、明治14年(1881年)5月から11月にわたり、宮城、山形、新潟、秋田、岩手の約半年に及ぶ地形地質予察を行い、同年⒏月にわが村の田子内から手倉越(仙北街道)をして胆沢に至ったという行程を、ナウマン自身がドイツ帰国後に行った講演を引用しつつ紹介されている。手倉越(仙北街道)だけで24㎞、ナウマン一行がこの日歩いた距離は前後計54㎞、10数時間を要したということである。仙北街道はその直後から廃れ、以後100年以上経た1990年の後に復元された。

手倉越は、出羽南部仙北地方から胆沢、衣川を経て平泉に通ずる古代からの最短の道であり、私は時々、源義経などをあげながらこの古道へ抱くロマンをここでも記してきた。街道は、古代以降も幕藩体制下の要路として役割を果たし続け、たとえば通行人として、高野長英、放浪画人・蓑虫山人、津軽の殿様の名も、この古道を記す村の郷土誌にはあげられている。なんとそこを、廃道直前の頃にエドムント・ナウマンも通ったというのである。

その手倉越(仙北街道)は、昨年、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。去る11月5日付の秋田魁新報は17面トップ「地域発」の記事(藤田祥子記者)で6段にわたりそれをとりあげ仙北街道を大きく報じた。その歴史の道にナウマンも足跡を遺していたということ。そのうれしい事実は、私の街道に寄せるロマンをまた一段と深めた。

全国町村議会議長大会開く

第64回全国町村議会議長全国大会が25日に行われました。

新型コロナ禍なので「密」を避けるために出席者が限定され、各都道県議長会の役員だけの大会となり(秋田は4人)、事務局随行者も2人以内という規模です。会場もコロナ対策が徹底され、冒頭の国歌斉唱も声を出さず「メロディに合わせ心で歌ってください」というほど。座席配置も左右1席と前後1段ずつのすべての座席が完全に空けられた括りです。

このため会場となったあの大きなNHKホールは、例年より極端に出席者が少なく、座席指定も前記のとおりですからまさに「異例」の大会となりました。

菅首相は国会予算委員会の集中審議が始まった日でメッセージによる挨拶となりました。衆参両院議長や大臣をはじめ出席の来賓の方々は、NHKホールでこんなに人数の少ない集いを見るのはあまり例のないことなのでしょう、会場の最前列席に座っていたこちらの目に映る来賓のみなさんの中には、このガランとした光景にやや驚き・意外と思われたらしい表情を見せた方もおりました。

出席人数は少ないものの、大会はステージに掲げられたスローガンを柱とした、宣言、決議、特別決議、重点要望を議決し、後には大森彌東大名誉教授による「町村の議会-その価値と課題」と題する講演を拝聴しました。大森氏は講演の中で「憲法の第8章 地方自治で、議事機関として議会があげられていること」に触れ、地方議会は憲法に明記された存在であることとの関連で議会活動の重要性を力説されました。

おだやか天気に誘われて県境深山へ

22日は予想したよりもおだやかな天気となりました。

休日で空模様は風もなく静かな晴れ。しかも山をみたら積雪の白さはほとんどなしという朝をむかえたので、「こんな日は逃されない!」と早速山へ向かいました。午前は単独、午後は「高い所に行きたい」という娘と二人の山中ドライブと散策です。

午前にめざしたのは「風景の写真を撮りながらの里山散策を」で、もちろんキノコもお目当てに入ります。

いったん林に入ると、いつものユギノシタキノゴ(エノキタケ)やナメラコ(ナメコ)、ムギダゲ(ムキタケ)など初冬のキノコたちが予想外に多く出ていて、もう風景撮りどころではありません。それとも、こうなればキノコも一つの風景写真に入るのでしょうか。エノキタケのなかには、木の葉に隠されていて陽射しがあたらず傘が真っ白なのも見られます。茎が黒いのでモヤシ栽培のエノキタケの白さとは違いますが、裏のヒダが透き通るような白の美しさです。

エノキタケとナメコのそばには、度々とりあげている猛毒のニガクリタケがさらに生長を続けて姿を目立たせています。その猛毒ニガクリタケがナメコと並んで発生している姿もありました。縦写真の上、やや小さな姿がニガクリタケ、下のやや大きめの黄金色がナメコです。この写真では二つの種の大きさも色も比較的違いがはっきりしていますから「判別・同定・見分け」は容易ですが、キノコは環境の違いや生長途上で大きさも、色もずいぶんちがいます。つまり、こうして並んでいると、食のナメコやクリタケと、毒のニガクリタケの見分けができず誤ることは充分にありうるのです。この写真の食・毒二つのキノコの姿は、その間違いの可能性を知るのによい材料だと思い載せておきました。

キノコたちとの時間を過ごしている最中に、林の中で幹の途中に穴が見え、その穴の周りや幹の樹皮が剥がされた跡があります。「何だろう?」と近寄ったら、幹にはクマの爪跡がいっぱいあり、根元には蜂の巣の一部がたくさん散らかっています。そうです、蜂の巣はもちろん野生のニホンミツバチの巣でしょう、クマ公が巣を見つけて襲いかかり、穴口を広げて巣を取り出し、蜜や蜂の子を食べた跡だったのです。

▼さて、この日午後は、娘の言葉に応えて「半日で簡単に向かえる最も高い所」、岩手との県境を越えてブナ原生林をのぞめる深山行きです。初冬の季節になればよく向かうところで、行き先は、地元集落から西和賀町湯田に越える峠付近の県境。

わが集落は、昔から岩手との縁が深い所。現在の奥州市胆沢の胆沢川上流域と、西和賀町湯田・川尻の南本内川流域は、集落と隣接するブナの森の国有林野です。このブログで度々とりあげているように国有林野の払い下げ(ブナ材の伐採・搬出)や利活用(ナメコ栽培、短角牛の自然放牧)などをふくめ、岩手の山でありながらも集落の人々は「わが集落の山」のようにして、様々な利用契約を旧営林署と結び利用してきていたもの。

時代の反映で今ではそれらの利活用はなくなったものの、両県をまたぐ国道改良推進、国定公園の焼石連峰や仙北街道などをふくむ観光・文化面などでの連携は続いています。

例年、この季節になると標高の高い県境には何度も雪が降り、簡単に向かうことができなくなることもあるのですが、この日はいったん降り積もった雪もほとんど無くなりまだだいじょうぶ。岩手南本内川支流の小板沢と成瀬川支流の土倉沢の分水嶺にまで上がり車を止めます。そこはひろくみれば北上川と雄物川の分水嶺の峠ということでもあります。

峠付近を源流とする小板沢の北方にひとつ尾根を越せば、ツルクラという沢があり、昔はそこへ向かうために大がかりな林道が崖を削ってつくられました。その林道は今は廃道となり、車の通行はもちろんムリ。途中からは藪が繁り、落葉後のこの季節でも歩くことさえ難儀です。残雪の春山歩きで横手市山内三又の方が滑落事故で亡くなられたり、わが集落の方々をはじめ多くの山林労働者が春山作業で過ごしていた宿舎が3月のワス(表層雪崩)に襲われ、数人が命を奪われた雪崩発生の危険な崖もすぐ先に待ち受けています。

この日は、散策気分で歩ける程度のところまで向かい、南本内川流域を広く望むのが目的。

落葉後の山は見通しがききます。峠そばにでんと構えるのはホンネガァアリス(本内川蟻巣・蟻巣山のこと)。それから左に小さく一部の山体が雪を載せて見えるのは焼石岳隣の南の森です。焼石岳は三界山に隠されています。北のこの方角からだと、いつも西から眺めているサンサゲェ(三界山)も、権四郎森(南本内岳)もやや違った山体になって見えます。さすがに権四郎森は全体がよく望めます。

昔、雪の春山をよく歩いた時のように、蟻巣山麓を経由して三界山に登り、胆沢川流域との境を経て大森山に至り焼石登山道の起点に下りるという合居川周回コースの山行を来春に計画しています。その時を思いながら、眼前に広がる歩く予定のコースを目で追い、後の山行のためにカメラにも収めました。

歩きの終点では、大きなブナの倒木に食べ頃に輝いたナメコがいっぱい。途中ではキクラゲやジェンコシナダケ(オツネンタケモドキ)も。ジェンコ(銭)の形をした、しない茸という方言の意味でしょうか、とにかく噛みきるのはなかなか大変なキノコのオツネン(越年)タケモドキです。乾燥すれば味が濃くなり、その旨味はうどんなどの出汁としても、味噌汁に入れても楽しめます。

帰りには、土倉蟻巣山そばの尾根からカビラ沢(合居北沢)を眼下に眺め、合居川渓谷全体から雲に覆われた焼石や連峰の嶺を望みました。残雪の春山でならよく眺められる景色ですが、落葉後の初冬、積雪前に渓谷のほぼ全体を展望したのは久しぶりのことでした。

新過疎法制定に向け総決起大会

期限を定めた法律として施行されている現行の過疎法が令和3年3月でその期限切れとなります。この過疎法を新たな法律として継続制定されるよう求める全国過疎地域自立促進連盟の総決起大会が、20日に都内浜松町芝のメルパルクホールで行われ、大会前には第51回の定期総会も開かれました。

大会には総務大臣や秋田にゆかりのある総務省の黒田事務次官も参席。各党の代表が来賓として全員あいさつを述べました。超党派でとりくまなければならないほどに、この課題は我が国がかかえる大きな内容をもつことが来賓構成からもよくうかがえます。

われわれの社会では極端な格差の問題が様々な分野で指摘されます。過疎の現実とそれがさらに深刻化していることはまさにその格差が起因するものであり、格差の顕著な結果ともいえます。今回の来賓挨拶でもどなたかが、「地方や過疎地域を発展させることは国の安全保障の観点からも重要」という旨を語られましたが、その通りでしょう。国土を保全し、食料生産の基地となっている「地方、過疎地が滅びれば国が滅ぶ」ということを念頭においた国づくりを、国政に携わる方々には常々着目されて職務に励んでいただきたいものです。大地震をはじめとする大災害時を筆頭に有事の際にも、過疎地域の農山漁村がその時に支援で果たせる役割はどなたも想像できるでしょう。今、過疎地域振興に真剣な目をむけなければ、国の安全保障も揺らぐことを国民全体でとらえなおしたいものです。

さて、連日、一日あたりの感染確認者の増加がひろがる新型コロナ禍でしたが、「過疎法は地方の命の砦」ともいえ、地方自治体の命運を握っているだけに、大会には全国から首長、地方議会議長が多数参加。大会運営では、検温、消毒、マスク、ウィルスフェイスガードの着用など新型コロナ感染防止策が入念にとられていたものの、ホール内の着席は通常年とそれほど変わらぬ予想外の「密」状態。若干の不安がもたれるほどでした。

18日の都内の会議と同じでこの日も日帰りです。時間に余裕をもって着き、夏のようなお天気だったので、「なるべく外にいよう」と、11時半からの会議が始まる前に会場そばの増上寺と東京タワーを目の前にしながらいつものように芝公園そばのベンチで昼食をとり一休み。街や公園を歩く人々は、スーツの上着を脱いだり半袖姿が見られるほどに暖かな一日となりました。

▼21日、積雪がない家まわりの林を散策。いつものようにユギノシタキノゴ(エノキタケ)や晩生のナメラコ(ナメコ)が黄金のように輝いています。まるで栽培しているキノコを採るようにして、ほぼ3日ほどの間隔で天然の輝きを手にしました。湧水そばでは、クレソンがおいしそうな緑を映えさせてきたので、今冬の初モノをいただきです。

あいかわらずハイイロシメジの仲間も元気にカオを出し続けています。手にとって、いかにも食べられそうな上品な香りを感じ取り、カメラに収めただけにしておきました。毒キノコに入るという仲間のなかでは、食を強く誘われる香りをもつキノコの代表格でしょう。

知事と市町村議会議長との行政懇談会

知事と市町村議会議長との行政懇談会がきのう県市町村会館で開かれました。

会議は、市議会議長会から5項目、町村議会議長会から3項目、計8項目にしぼってあらかじめ提出されていた要望について県の各部署の責任者がまず答え、さらに質疑応答が行われます。

続いてほかにもこの機会を活かして県政と関わる様々な質問や意見、要望等について議論できる時間もとられ、最後に知事が当面する県政の重要課題などをあげながら要望や質疑応答に関しても総括的な発言をするという運びで会議は進められます。

要望内容は別掲の通りです。佐竹知事は、新型コロナがいずれ収束をみた後の、経済活動をふくめた社会の変化、再生可能エネルギー開発の重要性、電気自動車が近い将来世界の大勢になるという産業構造の変化と地球温暖化防止対策の流れを見据えることの大切さ、農業の重要性がさらに増す、という視点などをいくつか上げながら、先をみたとりくみが必要という旨をとりわけ強調したように感じられ、それには共感するものがありました。

私からは、山岳遭難の多発による捜索救助活動について、地上と共に空からの捜索が果たしてきた役割・効果の大きさをあげ、その重い役割を担うヘリの捜索活動を補ううえで、ドローンの活用を重視してほしい旨をのべました。

山岳遭難救助活動におけるドローンの活用については、①より早く遭難者を発見できる②高齢化もあり、山を熟知する捜難救助隊員の減が顕著で、その人員確保の弱点と苦労を補える③捜索時間の短縮④捜索隊員の二次遭難の防止⑤ヘリで捜索できない天候時や、遭難同時多発の時に空からの捜索活動がより有効に行える⑥捜索活動全体にかかる多額の費用を低減できる………等々、多くの効果が期待されます。

全国的には、ドローンによる捜索活動訓練や実際の経験の蓄積もあり、ドローン特有の課題についても改善策がかなりとられているようです。空からの捜索で大きな役割を果たし感謝されているヘリの活動を補う上でも、捜索現場でドローンの飛ぶ姿がごく当たり前になるような時が早く来ることを願いたいものです。

遭難発生のないことがいちばん大切ですが、山菜採りや登山者の増加、高齢化の加速による認知症の増、それにツキノワグマの生息数増による山入の方々への被害などとも関連して遭難発生は減るどころかむしろ増加が懸念されます。そのためにも、ある程度小回りのきく体制でできる空からの捜索活動としてドローンの有効性をみんなで考え、捜索における普遍的な活動として位置づけとりくみを強めてほしいという考えからの一言ということです。

地方議会議長会3団体が全国大会

「活気ある地方議会を目指す全国大会」がきのう都内のホテルグランドアーク半蔵門で開かれ、秋田県町村議会議長会の会長代理として出席しました。

新型コロナ禍により、今年度に入ってから都内で開かれるすべての行事や会議が中止となったりあるいは自主的な配慮で欠席していて、こちらは春以来初めての都内行きとなりました。

都の新型コロナ感染確認者が一日で過去最多の493人、国内でも新たに2203人の感染確認で過去最多を更新したこの日、会議の運営は当然のことながら感染防止をとって進められ、大会の構成員も極力少なくし、それぞれの都道府県を代表する各地方それぞれの議会議長会代表一人ずつだけのようでした。

大会は、全国都道府県議長会、市議会議長会、町村議会議長会3団体共催で、総務大臣、衆参両院の総務委員長を来賓にむかえ、国に対して別掲のような内容の実現を求める決議を上げました。

大会では、東北大学大学院の河村和徳准教授による「地方議会・議員のあり方について」と題する講演も行われ、地方議会がかかえる課題の要点を衝いた講話を拝聴しました。

▼往き来の新幹線の乗客の少なさ(一車両の座席数の約一割ほどの乗客)。▼東京駅から会場往復のタクシーの運転手さん(ご年輩)のお一人が語られた「コロナで、4割も月給が減った。自分は年金を受給しながら働いているのでなんとかなるが、食われないので会社を辞める人が出てきた。働き盛り世代はほんとに困っている」と自分から語り出した言葉。▼もうお一人の個人タクシーの方(やはりご年輩)が「稼ぎは以前の半分。車のローンが終わったからいいものの、大変だ」と嘆いた言葉。▼新幹線の車内、駅、大会会場、昼食時などにコロナ感染防止を意識しつづけた動き。▼大会の会長挨拶、来賓挨拶、決議、講演などにちりばめられた新型コロナ禍をあらわす言葉もふくめ、一挙一動作の手先から頭のてっぺんまでコロナが思案から離れない一日となりました。

きのう日中の都内は暖かく、正午からの会議が始まる前に、皇居半蔵門そばの千鳥ヶ淵脇の公園ベンチに腰掛けて温かな陽射しをひととき浴びました。

観桜スポットとして名高い千鳥ヶ淵ですが、桜だけでなく様々な公園樹も多い所。でも、この日歩いたお堀のそばでは冬の花サザンカを見ることはできませんでした。

父の七回忌法要

きのうは、この時期としてはそうは訪れないだろう小春日和。父親の命日を26日にひかえて七回忌の法事をしていただきました。

初雪の頃を過ぎれば、我が家の鉢植えのサザンカはつぼみをいっきに開き花盛り。小春日和に誘われてまだ冬ごもりをしていないミツバチの仲間たちが、どこからどうやって花の気配を感じたのか花びらに集まってきました。

ほっこりとしたやわらかな陽射し、赤と白のさざんかの花、そして初雪をみた後の思わぬ蜂のうごき。いずれも雪国の冬本番になれば体験できなくなる陽射し、見られなくなる光景なので、きのうは、同じ一日でも、「もっと昼間が長くあってほしい」と、お日様のありがたさをとっても感ずる一日でした。

その陽射しに誘われ、妻と道路沿いの林を散策。積雪がないおかげで初冬のキノコたちがまだまだカオを出しつづけています。おかげで、味噌汁、納豆汁、おでん、吸い物など、食卓はもうしばらくおいしいキノコたちに主役をつとめていただけます。

キノコは、最初の4枚がユギノシタキノゴ(エノキタケ)。次はトヂナメラコ(栃ナメコ・ヌメリスギタケの仲間)です。同じヌメリスギタケの仲間でも、手のひらよりも大きいのを見たのは初めて。おでんの具で味わってみようと思います。

次にヤマドリモダシ(クリタケ)、ナメラコ(ナメコ)と続き、ねずみ色で倒木に出ているのは、うどんなどの出汁用にするジェンコシナタゲ(オツネンタケモドキ)、そして灰白色のかたちのよい株は最晩生のハタケシメジです。

最後の黄色いキノコが先日も載せました最強猛毒で死亡例もあるニガクリタケ。秋田でも食中毒による死亡例が幾度かあったそうで、ほかにも東北では一家6人が中毒し、両親をのぞく子ども4人が亡くなるという悲惨な事故例もあったという恐ろしいキノコです。名前はニガクリタケで、文字どおり苦いクリタケですが、クリタケとともに一見してはエノキタケとも間違うほどよく似ています。初冬にもこうしていきいきと生長をつづけていて、クリタケやエノキタケと並んで出ています。それに毒のようにも見えませんから、混ぜて採られる可能性がありほんとに注意が必要なわけです。そういう危険なキノコですのであえてまたとりあげておきました。なんだかキノコのガイド調になりましたね。

国道沿いにあるウメボドゲ(ツルウメモドキ)が、相変わらず際立つ赤い実をつけ鳥たちを誘っています。ヤマドリも、ヤマブドウとともにこの実が大好き。ほかの木の実が少なくなるこれからは、朝夕になると数羽の群れで実を啄む姿を見かけることがあります。

NHK・三百名山の旅にわが村が

NHKBSの「グレートトラバース3日本三百名山全山人力踏破」という番組が11月14日に再開されました。冒険アドベンチャーの田中陽希さんが日本三百名山を人力で列島を辿り登る山旅の放送で、登山を愛する人々にとっては待望の再開でした。

南から始まった登山の旅(まさに冒険)は、新型コロナによる移動の制約などがあり、春の鳥海山を終えたところで思わぬ停滞を余儀なくされていたようです。

田中さんは、山形・酒田市で以後長期間の滞在を決め、夏になってようやく冒険の旅は再開されました。再開後の最初の放送にくまれた列島歩行の旅と三百座の登山行程は、神室山に始まり、花の百名山のわが栗駒山と焼石岳、そして太平洋沿岸の確かレンゲツツジで名高い五葉山、遠野郷を麓にひかえるハヤチネウスユキソウの名峰・早池峰山、終わりは奥羽山脈最高峰の秀麗・岩手山でした。(ちなみに、このブログを開いた時に出てくる上部の日の出の写真は、焼石岳の頂上からとらえたご来光で、雲海に浮かぶ左の頂が岩手山、ご来光すぐそばの頂が早池峰山。)

前回の二百名山踏破の時も、栗駒と焼石に田中さんは登られたようですが、その時は最悪の天候。放送でも栗駒や焼石の誇りとする花景観は残念というシーンで終わっていました。

今回は、新型コロナで溜まっていたっぷんをすべて取り払ってくれるかのような晴天の下、秣岳を経ての栗駒、村側のルートを経ての焼石を歩くことができたようで、花の百名山にふさわしい村と村に関わる山々のまさに百花繚乱、雄大な景色が堪能できたようです。それはこの日放送されたほかの山々も同じで、北東北特有の山景色が全国に紹介され、楽しい時間を私も過ごしました。

実はこの放送を心待ちにしていたのには、もう一つのささやかな理由が私にはあったのです。それは、焼石岳の放送部分では、花景色の紹介とともに、村側からの登山道と8合目焼石沼周囲についてそれが赤ベゴ(短角牛)の放牧による「牛の道」、「放牧」と関わるかたちで、短角牛自然放牧に視点が定められた内容もありそうだったからなのです。

国定公園内のあの広大なブナ原生林と1000㍍を越える高山植物いっぱいの高原一帯には、日本短角種という牛、村で言う「赤ベゴ」が長い間自然放牧されていました。今も、村は短角牛の飼育に力を注いでいますが、放牧ということでは焼石登山道やその山麓に当時の面影はほとんどなくなり、そんなに遠い昔ではありませんがもう自然放牧は過去の出来事になっています。

初夏に放牧された牛たちは、毎年の放牧で山と川を自らよく知っていて、大自然に生きる野生の生きものたちと同じように短角牛に特有の強健な体を活かし、県境を越え北上川支流の胆沢川流域で草を食みながらどんどん上流をめざしました。8合目焼石沼が最終的に牛たちの行き留まる拠点で、南の森や三界山、南本内川上流域まで彼らは草を食む範囲を時々さらに広げました。

その放牧牛の生育を観察する目的とともに、場所が柵のない自然林放牧でもあることから監視人が必要で、長い間夏季常勤の監視人(時には2人)がいました。8合目周囲に牛がとどまる夏場はそこに臨時の監視小屋が建てられ、彼らはそこで寝起きし、あるいは通い、牛の様子を観察する仕事に務めたのです。私がよくこのブログでも記す「小学生だけで夏休みに何日もの寝泊まりをした」のがこの小屋です。8合目の最初の監視小屋は、焼石沼草原手前のタゲ(焼石岳)のスズ(湧水)そばのすぐ脇にありましたが、後に焼石沼脇に移動して建てられました。小屋の柱や骨材となる軽量鉄骨や波トタンは組合の人々が背負い上げたものです。

監視小屋は、短角牛を飼育する組合が夏に建て、秋に解体し管理しましたが、登山者も無料でよく利用させてもらい、牛飼いの関係者はもちろんのこと、村内外の焼石を愛する多くの方々までもが泊めてもらいました。唯一の秋田・東成瀬側コースには避難小屋がないこともあって、この小屋を利用した登山者の方は全国にかなりいるでしょう。(脇道にそれるが、今でも、秋田側からのコース、8合目に避難小屋建設を!の声は大きい。場所は岩手県域なので、岩手、秋田双方の登山愛好者や団体、行政などが連携して、その実現をのぞみたいものである。)

さて、牛のことです。放送された焼石の登山では、花の名山の百花繚乱とともに8合目の放牧牛のことが牛の道とあわせてクローズアップされていました。その画面には焼石沼の草原で草を食む赤ベゴの姿と、山登りで草原に憩い遊ぶ子どもたちの姿が入っています。

実は、その写真は今から30幾年か前に、友人夫妻の3家族連れで一泊の焼石登山をした時に写したものだったのです。放送局側から「焼石で短角牛放牧をしている当時の写真がないか」という旨の要請を、ある方を通じ受けて知り、それに応えてお届けした写真のうちのそれが一枚です。放送をささやかな楽しみにしていたというもうひとつの理由はこの写真のことで、「どの写真を、どんな場面に使うのか?」と心待ちにしていたのです。

あの8合目の周囲百花繚乱の草原では、赤ベゴがまるで自然の牛のように柵のない天然の牧場で草を食み、腹に水が触れるほどの深さまで沼につかり、その水を飲みつつ、のんびり涼をとる姿がありました。当時を知らない方々、あるいはそういう場面を目にしたことのない方々なら「そんなこと、考えられない!」という人と牛の織りなす光景が、あの花と清水の焼石岳・東成瀬村側コースにはあったのです。

番組はきっと近いうちに再放送されるはずです。そんな昔の焼石岳も連想しながら番組をご覧になっていただければと思います。

※写真はすべて、11月14日放送のNHKBS番組からのものです。