あのナウマンが手倉越(仙北街道)を

あのナウマンがわが村を通り、手倉越(仙北街道)をして胆沢へ至り、北上から遠野を経て釜石に向かったという事実をこのほど初めて知った。

その驚きともいえる事実を知ることになったのは、村の元教育長で恩師でもある佐々木克郎氏の秋田地学に投稿された研究ノートの別刷り冊子によってである。

地学に関しての専門的な学びも知識もまったくない私だが、学業成績とかは別にして学校の勉強でいちばん好きなのが岩石や生きもの、地球や宇宙など地学や生物や星のことだった。だから、それら教科の教諭であった佐々木克郎氏の授業時間は楽しかった。

今でもわが書棚や枕元には、地球と宇宙、生きものなどの書籍が多い。それらに惹かれてだろうか時々、「こつこつと地道に物事にとりくむ大切さとともに、時には星を見て、太陽系、銀河系、もっと広大な宇宙から地球を観るような心で生きたいもの」と思うことがある。私の人生観にも星と宇宙は軸となる影響を与えているようだ。日々を大切に生きるとともに、大宇宙からみればわずか一つの点にもならぬ星に生きていて、人間社会の悲惨、醜態、憎悪、汚れた出来事へ、あまりにも情けなさを思ったりもするのである。

さて、そんな私がナウマンの名をはじめて知ったのは、みなさんと同じかもしれないがナウマンゾウによってである。(私は、地質関係のある図書で確か野尻湖のナウマンゾウ発掘から知った)日本で発見された新種のゾウの化石はあまりに有名だが、それに地質学者ナウマンの名を日本の学者はつけた。フォッサマグナの名付け親もナウマンという。

佐々木氏のノートでは、そのナウマンが、明治14年(1881年)5月から11月にわたり、宮城、山形、新潟、秋田、岩手の約半年に及ぶ地形地質予察を行い、同年⒏月にわが村の田子内から手倉越(仙北街道)をして胆沢に至ったという行程を、ナウマン自身がドイツ帰国後に行った講演を引用しつつ紹介されている。手倉越(仙北街道)だけで24㎞、ナウマン一行がこの日歩いた距離は前後計54㎞、10数時間を要したということである。仙北街道はその直後から廃れ、以後100年以上経た1990年の後に復元された。

手倉越は、出羽南部仙北地方から胆沢、衣川を経て平泉に通ずる古代からの最短の道であり、私は時々、源義経などをあげながらこの古道へ抱くロマンをここでも記してきた。街道は、古代以降も幕藩体制下の要路として役割を果たし続け、たとえば通行人として、高野長英、放浪画人・蓑虫山人、津軽の殿様の名も、この古道を記す村の郷土誌にはあげられている。なんとそこを、廃道直前の頃にエドムント・ナウマンも通ったというのである。

その手倉越(仙北街道)は、昨年、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。去る11月5日付の秋田魁新報は17面トップ「地域発」の記事(藤田祥子記者)で6段にわたりそれをとりあげ仙北街道を大きく報じた。その歴史の道にナウマンも足跡を遺していたということ。そのうれしい事実は、私の街道に寄せるロマンをまた一段と深めた。