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ありがたいお店をまた紹介

先に、わが集落でとてもありがたい役目を果たしている「お店」のことを記しました。そのお店は通称「ベッケ店」と呼ばれる、米穀とタバコ、雑貨等販売の佐藤小吉商店。

今日は、同じ地元集落でがんばって営業を続けているもう二つのお店、「魚屋(仕出し屋)さん」と「油屋さん」のご紹介です。

村で「たにようさん」と呼ばれる現在の店主で3代目となる魚屋さん(谷養鮮魚店)は、魚だけでなく食品全般も扱っていますから、地元の人々にとっては小さなスーパーマーケットのような所。それにこのお店は仕出し業も長く営まれ、また村内のほぼ半分の地域にわたる岩井川、椿川、大柳地域を巡る移動販売車での営業も長年行われていて、村人への食の提供で代々がんばってこられたお店です。

集落の真ん中にあるお店で高齢の方々も通いやすく、仕事帰りの車の方々も便利でありがたく立ち寄ります。食材を主とするお店が集落にあるというのはほんとに助かるものです。

「油屋さん」とはガソリンスタンド店のことで、村では「ささよしさん」と呼ばれる佐々由商店です。今の若店主で3代目でしょうか。やはり集落の中央にある老舗で、タバコや酒類販売と米穀集荷業等を主にしながら、雑貨販売も手掛け、ガソリンスタンド経営も長く続くお店です。

村には現在JAが経営するお店もふくめ2つのガソリンスタンドがあり、それぞれ大切な役目を果たしています。この「ささよしさん」のガソリンスタンドが人々にとってひときわありがたい役割を担われたのがあの3.11東日本大震災の時です。

震災後、県南地方のほかの一部のガソリンスタンドでは燃料入荷が早くに滞り給油できなくなった店もありました。しかし、この「ささよしさん」はその時しばらくの間営業を続けることができ、通常取引のお客さんだけでなく、自店以外のスタンドを利用していた方々へも利便をはかってくれました。これも「地域に支えられてきたお店」として、「困っている時はお互い様」の心が為された行いだったのでしょう。(写真は、その時に給油を待つ車の列)

人口減でそれぞれのお店の経営も一時のような隆盛はなかなか望めないところ。でも、今あるお店はどれも村と地域にとってなくてはならない大切な存在です。今回はご紹介できなかったほかのお店もふくめみんながんばって営業を続けてくださるよう、多くの方々が願っています。

▼自家用の味噌を仕込む適期は雪解けの春の時。わが家でもきのう大きな味噌桶に、たっぷりの麹を混ぜた2斗ほどの味噌を仕込みました。昔は大豆を煮てつぶし、塩と麹を混ぜてとすべての作業を各家々でやったのですが、今は出来上がった原料を桶に詰めるだけの作業となっています。仕込む量も、食生活の変化で昔よりグンと少なくなっています。

ユギノシタキノゴ(エノキタケ)登場

きのう、家周りの散策でこの春初めてユギノシタキノゴ(エノキタケ)と出会いました。

いつもの年だと、これだけ雪が消えればいっせいにカオを見せるエノキタケ。しかし今春はこれまで姿がまったく無し。おかしいなと思っていましたが、その原因は、おそらく3月から4月上旬の異常な高温と雨の少なさにあったのではないかと推測されます。

それが、この幾日かは雨天もあったためかわずかながら湿った空気が漂うようになり、キノコ菌が活動しやすくなり急いでカオを出したものと素人なりに判断したところです。

毎年、山菜では早く新芽をのばすノゼリ、コゴミ、カンゾウ、アザミ、ヒロッコ、そしてユギノシタキノゴなどから元気をもらって春の活動フル回転へと向かうこちら。キノコは早速あさげの味噌汁で、ペロペロ、サクサク食感の初モノをおいしくいただきました。「これで、また元気に動けるぞ!」です。

雪の県境越え往来の春山伐採を思う(その二)

やがて沼ノ又国有林のブナ材は皆伐方式ですべて切り尽くされました。以後のブナ国有林払い下げは県境を越え岩手県旧水澤営林署(今は森林管理署)愛宕担当区管轄へと移りました。北上川支流胆沢川上流域での択伐(必要な材だけを選択伐採)による搬出作業へと、わが家の事業も県境を越えたのです。

春はソリで雪上の丸太を一箇所に集め、夏場はワイヤーロープの架線を張り、その丸太を集材機で胆沢川支流大森沢から県境の尾根を越して上げ、最初はその上げた丸太を馬ソリで土の道を引き下げ秋田側の林道まで運びました。写真はその当時の様子です。写真の雪上でのバチゾリ(我々はバヂジョリと呼んだ)作業光景は、それよりもっと後年に、同じように胆沢川流域で行われた作業現場の様子です。

雪解け時の春山伐採・搬出は、岩井川集落から歩いて県境の尾根(えしゃがのアゲ)を越え、胆沢川上流大森沢流域原生林での作業です。バチゾリ作業の助手やブナの根っこ掘り(伐倒のため、木の根元周囲の堅い雪を2㍍ほど掘り下げる作業)がかなりきつい仕事だっただけに、わたしの記憶にはこの当時の体験がとくに深く刻まれています。

私もふくめみなさん、東成瀬村岩井川字馬場(昔の村営牛舎のあった所)から、歩いてあのきつく長いエシャガのアゲ(胆沢川の峠)越えをして岩手側に毎日往き来したのですから、忘れないのはあたりまえです。径の太いブナを倒し切断するために使われる、旧式の大型チェンソーに使う多くの燃料やオイルを毎日背負ってです。

事業主もふくめ働く方々は、直径1㍍もの大木を含むブナ材を伐倒、長さ2㍍に切断する者、ソリでの山林労働では最もきついバチゾリと大ゾリ(シラシメ油を塗って滑るようにした幅広のソリ。大ジョリと呼んだ。)作業にあたる者、根っこの雪を掘る者、丸太をころがし集め担いでソリに乗せる者、ソリ道を補修する者など、それぞれの持ち場でしごとに就きました。伐木・搬出作業を終えたら、また急な県境のアゲ(峠)を登り秋田の岩井川馬場まで帰るを毎日繰り返したのですから、記憶に深く残るのは当然ともいえます。

私がその作業から離れた後、伐採搬出の作業現場はエシャガ(胆沢川)のダダラ(谷が狭まり急流となる箇所)・八兵衛平周囲(はちべえてい。かいち橋、かいち沢のある箇所。胆沢川では最も上流部の大きな砂防ダムの所)までさらに下りました。そのため作業の能率を上げようと胆沢川の河川敷(砂防ダムのすぐそば)に小屋を設け泊まっての山仕事も一時行われました。バス会社から定期バス営業としては使われなくなった大型バスを譲り受け、秋田側から岩手の胆沢川上流河川敷まで運び、内部を改装。それを山小屋代わりにして寝泊り自炊し、春山の雪上伐採・搬出に明け暮れた体験をおもちの方もいたのです。

早春の思い出はほんとに多く、里山で集落の母ちゃんたちとソリで杉材搬出をしたのも雪消が始まる直前の季節でした。定時制高校の頃のこの日々も私にとっては貴重な体験でした。ここに記したほかにも、3月から5月にかけての里山から県境深山での雪消の頃の思い出は、まだまだ私の記憶の小箱にいっぱい詰められています。

県境部での春山伐採当時を思う(その一)

こちらが小中学生から定時制高校、そして20歳代にかけての頃、奥羽深山ではブナ材の春山伐採が盛んに行われました。今年3月で72歳になった私ですが、少年から青年の頃にたどってきた体験として深く思い出に刻まれているのがその春山伐採です。

私の父の家業は木材の素材生産販売業でした。木材を購入する山の多くを当時は国有林が占めていて、地元集落近くの沼ノ又国有林から払い下げを受けたブナ材を搬出、販売するのが生業でした。

搬出されたブナ材のうち、最良質の丸太は川連漆器や十文字の合板製造会社へ販売。次に良質の丸太は魚函やりんご函などの製函用として村内や近隣の製材所へ出荷。残りの材は薪炭用として、または秋田市新屋のパルプ工場へ製紙用として丸太のまま自家用トラックで運ばれました。

重機の普及がまだ少ない時でしたので、木材の搬出手段は冬の間は主にソリで車道まで集材され、後には車で運べる範囲までは集材機とワイヤーロープによる架線で行われました。架線方式による集運材を村内で業としたのはわが家がおそらく最初と思います。また、これはこの時以外は後にも先にもないことですが、県をまたいで峠に架線を張り、岩手から秋田に尾根を越してブナ材を集運材したのも私の父が林業を営んでいた時のことです。

それより少し昔になりますが、まだ秋田側の沼ノ又国有林でブナ材が払い下げられていた頃は、山小屋に泊まって働く作業員の食材運搬で、こちらの母親を含む集落の母ちゃんたちが日帰りで山に荷揚げをしました。その際、時々、子供のこちらも荷を背負って女たちの列に加わりました。荷揚げの方たちが帰った後の山小屋にもたまに泊まりました。

そこで何日かを過ごして作業員たちのバチゾリに乗せてもらったり、薪ストーブが燃えさかる中、石油ランプの灯火の下、たばこの煙もうもうの小屋で花札遊びに興ずる男たちとの夜の山小屋生活も何度か体験しました。ドラム缶の風呂にも入りました。雪消の春、小屋に通うとき最も危険な雪崩箇所がカノノサとタケマルギパの2箇所にありました。道に落ちた大きなヒラ(底雪崩)のかたまりを越えた時のこと、荷を下ろして帰る時には気温が上がって雪がゆるみ、ヒラの危険があるところでは息をひそめ足早に土のついたヒラの塊を越えたことなどを思い出します。

そんな子供の時の山仕事現場での「遊び体験」は、定時制高校時になったら今度は「仕事体験」として、夏場は旧増田営林署管轄沼ノ又の最奥部区域(現在の焼石登山道林道終点のウバシトゴロ周囲)までのブナ材搬出へと続きました。焼石林道はその時に私の父親たちが、民間の業として営林署から許可を得てブナ材を搬出するために新設した道です。重い丸太材を運ぶ道路はゆがみやすく、現場に向かう朝には下方から多くの石を手で拾い集めて丸太を運ぶトラックに載せ、手で道に敷き詰めた当時を思い起こします。私にとってはあの林道も、入り口から終点までそんな若い頃の思い出がいっぱい詰まった道です。

 

山菜が増えてきた

雪消の早い今年の春。わが家前の河川敷や湧水、堤防の土手には芽出しの早い種の野草たちがつぎつぎと顔を出し始めました。それらのなかには、私が好んで食卓にあげる山菜もいくつあります。

すでにノゼリやクレソンは初モノをたくさんいただいていますが、その2種は暖かさが増すにつれ草丈をグンと伸ばしています。

湧水の水辺では葉っぱの軟らかな沢アザミも芽を出し、陽当たりのよい土手にはカンゾウが新芽をゾクッとそろえて目につきます。カンゾウは根元に鎌を突き入れて全体がほぐれないようていねいに切り取ります。以前ならわが家ではほとんど食べなかったカンゾウですが、ほどよい甘みがあってクセもなく、早春の山菜としては今ではわが家の人気モノの一つです。

水辺で、それに加えて陽当たりもよい地面にはコゴミ(クサソテツ)が早くも顔を出しています。そばにはワサビも見られ、花が咲く寸前で茎葉を勢いよくひろげています。

朝餉も夕餉も、コゴミやアザミの味噌汁、カンゾウのおひたし、そしてそれぞれのテンプラなど初モノづくし。完全無農薬、自然の肥やしだけで育つ山の菜たちから「早春の精」をいっぱいいただきました。

▼7日は保育園の入園式でした。

令和4年度途中入園児5名、令和5年度入園児3名、計8名の0歳児から4歳児までのお子さんたちが、保護者の方々といっしょに「新入児をむかえる会」にそろわれました。

その中には、村の地域おこし協力隊メンバーの方々のお子さん3人もおられます。

在園児のみなさんからは歌のご披露プレゼントもあり、ご案内をいただいた私も、幼子たちの動く様子を目にし明るく元気な声を聞いたら、しばしの間、自分の子供が保育園に入った頃を思い出し、なんだか一瞬若返ったような気分になりました。純真無垢の児たちの中にいると心がほんとに清々しくなりますね。

入学式もそう、入園式もそう、あの子供たちをみれば、子たちがしっかりと育つことができる村、できる社会をつくるのは我々の一番のつとめであることを深く思わせられます。

この子たちが大人になった時、あるいは私と同じような70歳代になったとき、わが村は、我が国はどんな「かたちの社会」になっているだろうか、などと、入園式から戻った役場で議会事務局のみなさんと語りあったりした金曜日でした。

入学式へ

小・中学校の入学式がきのう行われました。

小学校は12名、中学校は18名の入学です。新入生と保護者のみなさんへ、議会からも心からのお祝いを申し上げます。

児童生徒たちの式場でのマスク着用は各自の判断でとされるようになり、会場もコロナ禍から少しずつ抜け出しつつあることを感じさせる雰囲気となりました。

保育園と小学校を卒園・卒業してすぐの新入生たちです。学校も、新たな校長先生や教頭先生をはじめとする転入の先生方を加え、新鮮な構えで入学の子たちをむかえる日です。

どちらの式場でも、進級した在校生たちもふくめ、先生方、児童・生徒のみなさんから「さあ、新しい生活が始まるぞ!」の初々しい意気込みが感じられるひとときでした。

こちらは、入学式への出席もふくめ学校行事への議長としての出席はこの日が最後となりました。

現構成の議会はこの29日で任期が終わりとなります。教職員の皆様の村の子たちを育てるうえでのご尽力をはじめ、これまで議会として、学校のみなさんにいろいろとご協力いただいたことへ深く敬意をあらわし感謝を申し上げます。ありがとうございました。そして、今後の議会活動へのご協力も、どうかよろしくお願いいたします。

思い出いっぱいの社にも早い春が

豪雪の村にくらしているから余計そうなのでしょうか、私の過去の体験を記憶に残っていることで季節区分けをすると、雪解けの春の出来事がいちばん多い気がします。

子供の頃の遊びでは、雪原がかたく締まった上を歩く「堅雪渡り」はほとんどの方が体験したことであり、堆肥運搬用のカナジョリ(鉄ソリ)を持ち出しての乗り遊びも雪国の男児なら体験者は多かったはず。実益を伴いながら遊び心も大きく躍った、児たちだけでのヒロッコ(野草のアサツキの仲間)掘りも、雪国の児らにとっては記憶に濃く刻まれた体験です。

それらのほかに、遊びであげれば、バッケなど新芽を出した野草などを摘んで女の子たちといっしょになっての「ままごと」遊びもよくやったもの。マメボッチ(キブシ)の枝を切って白い中芯を抜き、笛をつくったり、手頃な太さの柴木で木刀をつくってチャンバラごっこをしたり、やはり柴木のマッカ(Y字に枝分かれした部分)などでパチンコをつくり小鳥をおいかけ、雪解け水とは関係ない湧水の澄んだ流れに棲む産卵前のカジカをノゼリ摘みをしながら獲ったりと、早春の児たちはいま振り返ればなんと忙しいものでした。

チャンバラごっこでは、このブログに幾度か記したこともあります。わが家脇の小高い森にある2つの神社(ひとつは三吉様の名がある)(写真)をそれぞれの根城に分けての「ただがいっこ」(チャンバラごっこ)にも没頭、それが最高潮となるのも堅雪を渡って新しい木刀をつくった雪消の春でした。

それぞれの児たちが、「名を名のれ!」とまずは叫び、二刀流が得手の児は「宮本武蔵」だ、ひときわ長い木刀を造った児は「佐々木小次郎だ」と名のり、「赤胴鈴乃助だ、真空切りだ」とか、「鞍馬天狗の東千代の助だ」、傘を差して歩く真似をしての「春雨じゃ、濡れて参ろうの月形半平太だ」とか、「市川歌右衛門だ」「長谷川一夫だ」「月形龍之介だ」等々、正義の味方同士の「争いごっこ」に明け暮れした当時が記憶に深くきざまれているのもこの季節です。

写真は、その当時に遊んだ2つの社のこの春の小さな「城跡」です。今年は雪解けが早く、チャンバラごっこの主舞台となった小さな広場は雪がすべてなくなりました。いまも管理・参られているのは広場にある三吉様の名があるひとつの社だけ。上にあるもう1つの社は廃れたままで、これを見るとなんだかさみしくなります。

 

転入教職員との合同挨拶会

きのう午後、村の学校へ転入された教職員のみなさんとの合同あいさつ会がありました。

小学校へ転入された先生方は校長先生をふくめ5名、中学校は、校長、教頭先生をふくめ5名で、今年は比較的大人数の異動による転入となりました。

私からは、これまで転入のみなさんへ申しあげてきた2つのこと、1.教育行政に力をいれてきた村の歴史をより深く知っていただきたいこと、2.その村のとりくみを視察目的でおとずれていただくと思われる全国の地方議会のみなさんへの対応について、学校や教育委員会(教育長)に受け入れご協力をあおぎたいことなどの旨でおねがいを申し上げました。視察のご一行が学校をもたずねるとなれば、教育機関ではない議会でもその主な目的が学校経営(教える姿、学ぶ姿も含む)にあることはもちろんであります。

よく「知は力」といわれます。人類が積み重ねてきた知の宝を広く深くとらえるために教育という制度がつくられ、その教育とみずから学ぼうとする力によって我々は科学で物事をとらえる判断力を培います。それにあるべき徳の道の学びを重ねて人間らしく歩むことができるのだとも思います。

教育基本法のみならず、国連総会で定められた子供の権利条約では、第29条(教育の目的)の最初に(a)子供の人格、才能ならびに精神的および身体的能力を可能な限り全面的に発達させること。をかかげており、わが国は子供の権利をうたうこの条約を1994年に批准しています。

法や条例、そして条約にもとづく教育行政がおこなわれることは大の前提です。あわせて子どもの発達にとりわけ大きな影響をおよぼすのは教えの力でしょう。古今東西、人生のうえで教師の果たす役割の大きさは大方の人々がひろくみとめるところと思われます。「あの先生のおかげで、心豊かな人生をおくることができた」という方は少なくないはず。私から申すまでもなく子供たちへそういう大きな影響をあたえる存在が教職であります。

昭和も平成も市町村合併に加わらない道を選択したわが村の自立の柱は人づくり、そのカナメを担うのが教職員のみなさんです。そんな大きなつとめをもって村の教育に携わっていただくことになりましたみなさんです。議会としても心から大いなる期待を込めてみなさんを、厚く、熱く、応援したいと思います。

おだやかお天気の休日

きのうも暖かでしたが、同じように過ぎた日曜日も外気温17℃、晴天で風もなし。黄砂もなく杉花粉も飛ばずで遠くまですっきりと見通しも利く一日でした。一年のうちでも「こんなに、すっきりと、おだやかな日はそうはない」というとってもゆったりの休日でした。

こんな素敵な日和に高い山々へ春山登山された方々がおられたら、遠くまで眺望のきくすばらしい絶景を楽しむことができたはず。そろそろ雪もよく固まってきて歩きも快適ですからね。

山には行けなかった休日でしたが、そのかわりに久しぶりに訪れた童(わらし)たちとともに河川敷の散策です。湧水に育つノゼリやクレソンとともに芽を出し始めたカンゾウを摘んだり、成瀬川の岸辺で思い思いに体を動かし暖かな春の陽を浴びました。

いつもの年ならまだ残雪の上だけを歩いての河川敷散策となるのですが、雪解けの早い今年は河川敷も所々雪がなくなりまだら模様で、堅雪を渡ったり地面を踏んだりの散策となりました。地面は落葉後の晩秋よりもなお藪が少なく、自由に歩ける範囲が広くなっています。雪消のより早い湧水そばではミズバショウも早春の装いで登場です。

わが家前の小沢には、1日から解禁となったイワナやヤマメをめざす渓流釣りの姿もみられ、沢沿い残雪の上には彼らがポイントポイントで立ち止まった足跡が残っていました。

冬備えを解く

3月は、一ヶ月間のうち除雪作業を一日もすることなく終わりました。3年前の冬も雪が少なかったのですが、今年は3月に除雪作業を必要とする規模の降積雪がないというめずらしい年でした。

おかけで雪消は早く、わが家はおととい、住家や農作業小屋の冬囲いを解きました。

この後も降雪はないようですので、車のタイヤもきのう交換。少しずつ冬備えを解き、雪から放れるくらしが村でもはじまります。

高台にあるわが家の田畑には雪がまだあり、そこで解けた水が田んぼに溜まり、まるで田植え時のような量で尻水口(しりみなぐち・排水口)から流れ出ています。それを見れば雪が解ける時の水量がいかに多いかがよくわかります。積雪量の多い深山の雪解けが本格化すれば成瀬川が洪水に匹敵する規模の濁流となるのも当然なわけです。今年は雪解けが早いので、耕起など土と向き合う作業も平年よりも早くとりくめそうです。

昨秋、収穫しないで畑に残していた白菜が雪解けとともに顔を出しはじめました。軟らかな菜を摘んで早速ごちそうになりました。

落雪構造の車庫の屋根から落ちて積み重なった雪も今年は少なく、平年なら開花の遅れる軒下日影で厚い雪に覆われるフクジュソウでさえ、今年はもう芽を出し花を咲かせています。

▼世界的に活躍された音楽家の坂本龍一氏が3月28日に亡くなられました。芸術家としてだけでなく、坂本氏の平和・反戦への主張や行動などに私は共感することが多く、あまりにも存在の大きな方だっただけに、71歳と早すぎるご逝去が残念でなりません。心からのご冥福をお祈りいたします。