県境部での春山伐採当時を思う(その一)

こちらが小中学生から定時制高校、そして20歳代にかけての頃、奥羽深山ではブナ材の春山伐採が盛んに行われました。今年3月で72歳になった私ですが、少年から青年の頃にたどってきた体験として深く思い出に刻まれているのがその春山伐採です。

私の父の家業は木材の素材生産販売業でした。木材を購入する山の多くを当時は国有林が占めていて、地元集落近くの沼ノ又国有林から払い下げを受けたブナ材を搬出、販売するのが生業でした。

搬出されたブナ材のうち、最良質の丸太は川連漆器や十文字の合板製造会社へ販売。次に良質の丸太は魚函やりんご函などの製函用として村内や近隣の製材所へ出荷。残りの材は薪炭用として、または秋田市新屋のパルプ工場へ製紙用として丸太のまま自家用トラックで運ばれました。

重機の普及がまだ少ない時でしたので、木材の搬出手段は冬の間は主にソリで車道まで集材され、後には車で運べる範囲までは集材機とワイヤーロープによる架線で行われました。架線方式による集運材を村内で業としたのはわが家がおそらく最初と思います。また、これはこの時以外は後にも先にもないことですが、県をまたいで峠に架線を張り、岩手から秋田に尾根を越してブナ材を集運材したのも私の父が林業を営んでいた時のことです。

それより少し昔になりますが、まだ秋田側の沼ノ又国有林でブナ材が払い下げられていた頃は、山小屋に泊まって働く作業員の食材運搬で、こちらの母親を含む集落の母ちゃんたちが日帰りで山に荷揚げをしました。その際、時々、子供のこちらも荷を背負って女たちの列に加わりました。荷揚げの方たちが帰った後の山小屋にもたまに泊まりました。

そこで何日かを過ごして作業員たちのバチゾリに乗せてもらったり、薪ストーブが燃えさかる中、石油ランプの灯火の下、たばこの煙もうもうの小屋で花札遊びに興ずる男たちとの夜の山小屋生活も何度か体験しました。ドラム缶の風呂にも入りました。雪消の春、小屋に通うとき最も危険な雪崩箇所がカノノサとタケマルギパの2箇所にありました。道に落ちた大きなヒラ(底雪崩)のかたまりを越えた時のこと、荷を下ろして帰る時には気温が上がって雪がゆるみ、ヒラの危険があるところでは息をひそめ足早に土のついたヒラの塊を越えたことなどを思い出します。

そんな子供の時の山仕事現場での「遊び体験」は、定時制高校時になったら今度は「仕事体験」として、夏場は旧増田営林署管轄沼ノ又の最奥部区域(現在の焼石登山道林道終点のウバシトゴロ周囲)までのブナ材搬出へと続きました。焼石林道はその時に私の父親たちが、民間の業として営林署から許可を得てブナ材を搬出するために新設した道です。重い丸太材を運ぶ道路はゆがみやすく、現場に向かう朝には下方から多くの石を手で拾い集めて丸太を運ぶトラックに載せ、手で道に敷き詰めた当時を思い起こします。私にとってはあの林道も、入り口から終点までそんな若い頃の思い出がいっぱい詰まった道です。