眼の治療を終える

両眼の手術後、1年間にわたって点眼治療を受けていたが、主治医さんから「少し、気になるところがあるが、まずよいでしょう」との診察で眼科通いをようやく終えた。

「翼状片」という眼の病で、原因としては紫外線の浴びすぎなどがあげられている。仕事でも趣味でも、子供の頃から現在まで、山と雪上でのうごきが多く、しかもサングラスを使わなかったので「紫外線が原因」にはうなづけるところがある。

2回にわたる短時間の手術で「翼状片」は切除され、ひどかった乱視もほぼ正常になったが、老眼だけは相変わらずで、眼鏡なしでは本も新聞も読みにくいままだ。

「外出時にはサングラスを」と、これまでかけたことのないほど私にしては高価なサングラスを眼鏡屋さんでこしらえプレゼントしていただいたが、治療が終われば眼のことはいつの間にか忘れてしまい、サングラスは車のダッシュボードにおさまりっぱなしがつづいている。「病治りて医者を忘るる」のいい類いである。

私の老化は、手術にあうほどのことという部位ではまず眼からきて、それは一時の補修をした。これから先、今度はどこに老化のあらわれ、医師のお世話になるところが出てくるのか、頭か、足か、腰か、内臓か、それとも……などと、そんなことが気になってきてだろうか、山科正平氏(北里大学名誉教授)著の「新しい人体の教科書・上下(講談社)」をいましょっちゅう眺めている。

眺めているというのには理由がある。これは文字どおりむずかしい教科書だからである。それで、文章のわかるところだけをひろい読み、カラー図解のわかるところだけを「眺め」るわけである。眺めるだけしかできなくても、これは、老化そして病が避けられないだろう自分の体を知るうえでとても参考になる。病治りて医者を忘れても、この著書だけは時々ひらくことがこの先もありそうだ。

▼きのうは農業委員会の年末懇談会へ。今年は、農業委員の公選制度が廃止され、新しい制度のもとで農業委員会業務にたずさわる方々が選任され活動している。昨年から、この制度移行にあわせた枠組みをつくるためにご尽力いただいた各位と、新たな職務につかれたみなさんへ感謝を申し上げ、挨拶の一言とした。

旬のハタハタ

秋田名物とうたわれるハタハタ。今年は同じ沿岸でも男鹿をはじめとする昔からの本場漁場への接岸が遅く、漁期のはじまりで新聞やテレビをにぎわしたのは仁賀保市の各漁場でした。

男鹿でハタハタがトンという単位で獲れだしたのは先週。過ぎた週末に所用で集落をまわったら、家々の玄関に箱入りのハタハタが一つ、二つと目に入りました。毎年のことで、魚屋さんへ注文していたのがやっと入荷の運びとなったようです。男鹿でも獲れ始めたのでようやくこちらにも大量にまわってくるほどの流通量になったのでしょうか。

わが家もブリコ(卵)入りハタハタ大小50数匹が入った一箱を4,700円とかで求めてきたそうで、いちばんおいしい時の初物を焼いてごちそうになりました。

粘るブリッコ、なんとも表現しがたい上質の薄い脂がのった焼き魚の味、一年の締めくくり年末、そして明ける年始と、ハタハタがなければなんだかものごとのケジメ、始まりがつかないほどくらしから離れない我が家、というより秋田ケンミン。ハタハタは鰰、雷神(神鳴り)様がつかわしたおめでたい魚との説もあるそうですが、神の字がつく魚のいわれがわかるような気もしてきます。

ところで、ハタハタといえば、普段は釣りなどまったく縁のない方々もふくめて沿岸部へ釣り人が集中する秋田。餌釣りではなく、漁港などに接岸したハタハタの群れにいくつもの針を垂れて魚体のどこかに引っかけ釣り上げる方法の釣りらしく、鮎のとも釣りにやや似たものなのでしょうか。ともかく、ご夫婦連れなどもふくめ、俄にうまれたハタハタ釣り人口はこのようなわけで急速に増えているようです。

毎年のことながら、それら釣り人の海への転落が多発しているため、近年は釣り許可の場所が特定され狭まっている由。関係者の取り締まりパトロールもよく見かけるそうです。加えて今年は、北朝鮮からとみられる木造漁船や遺体などの漂流漂着が多発していますから、いつもの年よりはるかにパトロールは強化されている模様。沿岸部はそれがために、許可場所は以前よりさらに混み合う現象もあるとのこと。

そんな中、ハタハタ釣りとはまったく別に昔から海へ川へと釣りを大の趣味とする友人が、16日、例年のようにハタハタ釣りにも出かけたようです。でも、「今年の釣果はよくない」と聞きました。初めの頃に出かけた「ハタハタ限定釣り人」中には一定の「漁獲」を得た方々もおられたようですが、今年は接岸数がやはり少なかったのでしょうか。

▼25日に広域市町村圏組合の12月定例議会が予定されていて、きのうはその議会に提出される議案や全員協議会で協議される案件などの説明を各課長さんたちから受けました。

スキー場安全祈願、雪下ろし

15日はスキー場安全祈願祭。我が家の集落ですでにこの日で80㌢をこえる積雪でしたから、スキー場はそれを上回る雪。まだ一部ゲレンデの運用だけのようですが、おかげで、昨年と同じように早い営業スタートがきれました。

「まだ雪下ろしはやらなくてよい」などと思っていましたが、先月末から積もっていた雪に断続して雨が降り、通常より何倍も目方がかかった雪で屋根は重みに耐えている様子。それで、作業小屋や車庫、小物置小屋や住宅下屋などの雪下ろしに今冬はじめて本格稼働。

案の定、雪は重く、積雪量も案外多く作業は体のすべての力を注ぐほどのなかみ。日に肌着を二度替えるほどに汗を流しました。下ろした後のきのうからも雪は降り続き、この調子だと年内にもう一度の雪下ろしは避けられない空模様です。

▼小屋の作業に向かった際、そばの雪上に新しいヤマドリの羽とキツネの足跡が。猛禽類に襲われるか追われたのでしょうかよくわかりませんが、この様子だと、おそらくヤマドリを仕留めたのはキツネ。尾羽はオス、まだそんなに羽の長さはなく光沢も弱いので若鳥でしょう。

 

雪のシーズンになれば、このように動物たちの「生きるための動きの跡」がとってもよくわかるようになります。生きものたち観察のうれしい冬本番が今年もまたやってきました。

雪を寄せながら

農作業場前の除雪作業でロータリー除雪機をきのう動かしました。今冬初めての稼働で、屋根から下ろした雪がやがて高く重なり、そのままにしておいては雪下ろしが出来なくなるための作業です。

近年の村は自然落雪方式の屋根構造が多くなり、2階建ての家でも屋根全体の雪が滑り落ちるとたちまちのうちに軒下に雪が重なります。当然、その雪を除雪しておかないといずれは屋根雪がつかえて落下できなくなるので、屋根からの雪下ろし作業はないものの、落下して堅く締まった雪を除雪する作業はつきもの。その主役は機械です。

水が豊富で条件のよい方は軒下に池(雪消しエド)をつくり自然消雪をはかる方もいます。しかし、そういう豊かな条件、環境をもつ方はごく限られるでしょう。

豪雪の村の家々でロータリー除雪機が購入されるようになり、あるいは個人でも小型のショベルローダーなどを購入される時代になったのにあわせて、落雪方式の屋根構造がいっきに増えたような印象をもちますが、どうでしょうか。それに、世間の多くも、大工さんも、「片屋根の住宅はつくらない」というおかしな昔流儀が以前はあって、それも落雪方式の家屋づくりを遅らせた一要因とも思われます。「型を重視し、現実の難儀を軽視した」ということでしょうか。

いまの村の新築家屋は、落雪構造か、雪下ろしが必要な家屋でも危険のない平たい屋根構造になっています。「雪下ろし」などは少数派になりつつあるのかな。ですから、いずれこれから50年後ほどには、「住宅の雪下ろしで事故」ということは、村内ではほとんどなくなるかもしれません。下ろす作業にも危険防止策が強調、工夫されてきましたからね。

場所が狭くて落雪構造もできない、雪もロータリーなどで寄せ難い家屋密集の市街地は今後もしばらくは「雪下ろし」が続くでしょうが、それももっと簡易で費用も安い「下ろさなくてよい方式」がきっと考えられるはず。

それにしても、ちょうど道路にまかれる融雪剤(塩)で自動車の車体が腐食するのを何十年も克服できない(どうして、車のメーカーは、塩腐食に強い車体をつくらないのでしょう)でいるように、わが国は、「雪からの差障りを克服する手だて」においてもっと頭脳の集積をはかってよいのではないかと、塩でサビついた車をみる度に思います。そういう思案がなぜはたらかないのか、当方にとっては不思議なことのひとつでもあります。

▼サツマイモ、ジャガイモと、冬はお芋のおいしい季節。関東方面の友人、親戚などからおいしいお芋が毎年秋から冬にかけて届きますが、そのうちのひとつが相模野の台地で獲れた芋は芋でもやまと芋。20歳の頃1年間農業先進地研修でお世話になった相模原Sさん宅からのおいしい冬の部の定期便です。とろろにしたり、焼いたり、てんぷらにと、若い頃はたらいた台地や、近くを流れる相模川を思い出しながらごちそうになっています。

真冬日、たくわえものたちが食卓に

「ほんとの、冬、した。(ほんとうの、冬が、来た。)」といえるほどに、吹雪いて、寒くての日がやってきました。

今朝、今冬初めて屋根のマブ(雪庇)をカギ(落とすこと)に上がりましたが、屋根上の雪をみて、これだと年内に一度は本番の雪下ろしを迫られるだろうと覚悟をしたところです。

 

冬本番なので、食卓には春から秋までたくわえていた山菜やキノコが次々と登場です。おでんにはサグ(エゾニュウの仲間)やウド、ホギ(フキ)、納豆汁にはサモダシ(ナラタケ)とワラビ、色鮮やかなアエコ(ミヤマイラクサ)が。それにジェンメェ(ゼンマイ)は一本煮や味噌汁へと、山の幸たちが春4月まで私の食を満足させてくれます。

冬の山里の家々ではまだまだおいしい貯えものがいっぱい。たとえば我が家の場合なら、ほかに、タケノコの瓶詰め、ミャゴ(マイタケ)、コナラ(シモフリシメジ)、ハタケシメジ、シシタケ、ヒメジ(ホンシメジ)、ユギノシタキノゴ(エノキタケ)の瓶詰めが眠っています。さらに塩蔵・味噌漬けものでは、ハギモダシ(ホウキタケ)、クリカラモダシ(クリフウセンタケ)、トビダゲ(トンビマイタケ)、ノギウヂ(エゾハリタケ)、カノガ(ブナハリタケ)、アガキノゴ(サクラシメジ)、シトリテデ(ウラベニホテイシメジ)等々も、みんな出番を待っています。

こじつけ気味の感じがしないでもありませんが、たくわえを思えばいつも災害時へ考えが及びます。山里の農家なら(農家でなくても)半年分の野菜と一年分のお米もたいがいたくわえていて、我が家も味噌は約2年分、飲料水も湧水源の上水道はもちろんのこと、自家用の湧水を引いた水道や、いまでは小沢のたんぼがすべて耕作されなくなったため近くを流れる清冽な沢水も当座の飲料水には充分利用できます。

山里はそういう備えができていますから、都市部での大地震をはじめとするくらしに壊滅的な有事の際、様々な分野で全国の農山村は都市部の人々の頼りどころともなれるはずです。山里、農山村をまもることは国の備えのうえでも欠かせぬこと。「トーキョウの兄弟、姉妹、親戚、子や孫さんたちが、最後の頼りとするのは、いつの時代も、ふるさとのあたたかいイエ」そういう面からも、国土の過疎はくいとめておく必要があると、サグや納豆汁を口にしながら思ったりもする師走の真冬日です。

94年前、64名の奥羽山脈突破岩手縣水澤視察旅行記

先の7日付けで、岩手県に通ずる道路水沢線(現国道397号線)の開通運動の歴史を知る一端としての写真をご紹介しました。

そしたらそれを目にされた方から「関係する資料が我が家にある」とのお話をしてくださり、その資料のコピーまでご丁寧にとっておいてくださりいただくことができました。

その資料は、水澤増田間縣道開鑿促成で今度は村から水澤へ向かった一行が記した旅行記で、先に紹介した写真(大正10年、水沢から仙北道を越えてきた旅行隊)への答礼と同縣道の促成を目的とした旅と記されています。2年前に水澤側から来られた隊の道を逆の行程で歩まれた時の記録で、大正12年7月5日から7日にかけての日程だったようです。

隊を構成したのは、東成瀬村が青年団長をはじめとする団員、村長、小学校長や教員、書記など34名。西成瀬村が青年団副団長と団員、収入役、小学校教員など11名、増田町が青年団長と団員、書記、農業技術員、軍人分会委員、有志など21名。総合計66名の大視察隊です。名簿を目にすればおわかりのように、こういう内容での峠越えとしては規模においても隊員の構成においても大きな行動であったことが偲ばれます。

当時の仙北道は、現在のように豊ヶ沢をたどる車道はもちろんありませんから国道342号のあるあの手倉・椿台境の狼沢入り口から歩きです。奥州胆沢の下嵐江(おろせ・私らはオロヒェと呼ぶ)~狼沢入り口までのそれこそ全行程をすべて足だけでの通しです。

一行は朝8時に椿台を出発し(増田の方々は村内のどこかに前泊したのでしょうか。)、生出川原で昼食をとり、午後3時に追分着、下嵐江を経て午後5時に愛宕小学校石渕分教場に到着と記されています。途中、若柳、愛宕など岩手側から受けた歓迎行事や猿岩にある神社参拝を経てのこの時間到着です。当時の方々がいかに健脚であったか、いま、復活された仙北道の一部を歩いただけでも約7~8時間、その体験をされた方なら昔の人々の難儀が理解できるでしょう。しかも隊は64人の大員数、たいしたものです。

この旅行記の筆をとられたのはおそらく村内の方と思われますが、それは書記の方でしょうかよくわかりません。昔の方々は当然ながら漢文などにもよく通じておられて、文章も総じて品格の高さが感じられるものですが、この旅行記もまさに名文、教養の高さがうかがわれます。その場その場の自然と人々の様子が、今の私たちの目の前に浮かぶように濃くかつ余計な言葉なく簡明に記されていることにも私は注目しました。

県道開さくに関わるこれだけの大きな旅行隊でしたが、村の郷土誌、交通運輸の章の820ページには前後のことは記されているのにこの行動は記されていません。編集当時、こういう資料のあることがおそらくわからなかったのだと思われます。そういう意味でも、これはとても大切な記録といえるでしょう。許可を経て、写真にして全文ご紹介です。


 

 

 

童と過ごす

先月4日に誕生していた孫(男子)と、日曜日久しぶりに対面。

いわゆるところのウチ孫(同居はしていない)で、これでウチ、ソトふくめて5人の孫たちの笑顔、泣き顔、愉快なうごきをまた見つめてゆくことになります。

誕生直後の幼いいのちもふくめ孫たちとその母たちを見つめていると、妊娠、お産の大事をふくめ「元始、実に女性は太陽であった(平塚らいてう)」といわれた女性たち、母親たちの偉大さを思います。

分子生物学者の福岡伸一氏(青山学院大学教授)は、著書「動的平衡(小学館)」のなかで次のようにのべています。一部をご紹介します。

「卵子と精子が出会って合体するとき、精子からはそのDNAだけが卵子の中に入る。精子のミトコンドリアは卵子に入り込まない。だから新たにできた受精卵の内部のミトコンドリアはすべて卵子由来、つまり母親のものである。」「ミトコンドリアDNAは必ず母親から子に受け継がれ、父親から受け継がれることはない」

犯罪捜査の報道でよく聞くDNA鑑定。生命を科学で解明したら、やはり女性、母体という存在はいのちの始まりからみても特別のものだったということです。地球上では生命進化の頂点にある人体の受精卵、それをつつみまもる子宮はいわば小さな宇宙のようにも私には思えます。

遡ることアフリカの地から、そのいのちを生み育ててきた世界の母親たちのはかり知れない尊さを思い、父と母によってつながれてきた命の連鎖を思えば、童たちは、地球のすべての人々の宝と思えてきます。

日曜日は、その赤ん坊を抱き、ちょっと成長株童とは散歩し、さらに成長株童とは雪上の河川敷を散策です。

今シーズン一度目の大雪が積もっていた雪原は、初めの積雪層が締まって固まりちょうど春先の堅雪のようになっていて足が雪に沈まず。なので、その上に新雪がふんわりと重なった後の日曜日は雪原歩きがまことに快適でした。

いつものように河川敷のノゼリとクレソン(オランダガラシ)を摘み、少々のこしていたユギノシタキノゴ(エノキタケ)を採り、お正月の飾りものとして木の実の枝を手折りました。童はセリ摘みをしながら泥土に手をやや深く挿して冬休み中のイモリと水中の生きものたちを引っ張り出し喜んでいました。湧水なのでイモリも深く潜らずにいたようです。

通年議会を閉じ、南部地区簡易水道の竣工式へ

村議会12月定例会議が8日に終わりました。1月4日から12月8日までの通年会期で進められてきた定例会がこれで閉じられました。

村議会発行の議会だよりを通じて議会活動の主な動きは伝えられております。定例会議を終えるごとに、私自身いろいろと「ここは、こうしなくては」、「慣例でこうやってきたが、これは今度から改めてみよう」とか、諸々のふりかえりをするようにしています。

会期を終えた12月定例会議、今度は、1年間全体の活動をふりかえる時でもあります。この機会に、みなさんからも、議会へのご意見感想を直接議会事務局、あるいは議員を通じてなどでお寄せいただければありがたいです。よろしくお願いいたします。

▼議会最終日の8日は、大字椿川地区で進められていた村簡易水道南部地区の水道施設整備事業が完成、竣工式展へ向かいました。これで、計画された3つの簡易水道施設の更新・統合事業のうち大字田子内地区と大字椿川地区が終わり、のこすは今年度に調査、測量がなされ来年度から工事予定の大字岩井川地区となります。

議会事務局提供
議会事務局提供

 

 

村内にはかつて12の簡易水道があり村民のいのちが育まれてきました。それらは1箇所をのぞきすべて湧水口から導水した水道でした。もちろん現在更新・統合された、あるいは予定の施設もすべて湧水が水源です。

こうしたことがありますから、教育視察や集いなどで村を訪れる人々に、村の誇りの一つとして「水道水源はすべて湧水、水の豊かな村」をよくご紹介の言葉にいれてきました。

議員活動2期目で総務教育民生常任委員長をつとめていた平成14年10月31日、12箇所すべての旧水源地の視察調査をしたことがありました。簡易水道の更新・統合計画が村から初めてしめされたため、所管常任委員会として検討の一環でとられた活動でした。その時、「水の豊かさ」とともに、それぞれの特徴ある各水源から集落まで水を円滑に引き、あるいは安全に給水するため、地区住民、村役場の代々の人々が重ねた苦労も知ることになりました。

以後、住民要望を発端として統合計画の一定の変更がなされたということを経て、現計画に落ち着いた歴史も簡易水道事業にはあります。計画どおり3つへの統合が終われば、管理の範囲も大幅に減じ、大地震時に発生したかっての一部簡易水道の濁りなどもふくめ、災害対応でも一定の難解消がはかられると思われます。

3議員が一般質問

12月定例会議本会議2日目のきのうは、3議員による一般質問、請願・陳情審議が行われました。

当議会の一般質問は、よくいわれるところの一問一答方式ではありませんが、最初に質問項目全体を問い、それに対してまず全体への答弁がなされ、再質問からは項目ごとに分けて一つずつ質問と答弁が再々質問まで時間制限なしで行われます。

ですから、事実上の一問一答方式ともいえます。この方式になってからまだ幾年もたっていませんが、質問、答弁双方にとって、内容が整理しやすく、議論を聞いている質問者以外の議員にとっても理解しやすくこの方式は好評のようです。

時間制限は設けてありませんが、問いは再々質問までであり(議案質疑での問いはもっと柔軟性をもたせた運営をしている)、時間についても、いかに制限がないとはいえ質問側が常識の範囲を理解していますから、これまで時間の長さが問題となったことは私が知る限りの議会ではありません。

現状をよく調査・把握し、課題を整理・提起し、解決・発展策をしめすということが質問や質疑のひとつのカナメといわれます。昨日の議論結果をふまえ、質問と答弁の結果が村政にどんなかたちで反映されるか、注目される議論がなされました。

陳情はすべて採択とされ、今日の本会議で関連する意見書案が審議されます。

きのう日中はお天気予報が大外れだったようで、予想だにしなかったポカポカ陽気。帰路、焼石連峰のさんさげぇ(三界山)と権四郎森(南本内岳)がいい輝きを見せていました。

温故知新

焼石岳山麓への赤べご自然放牧、胆沢川上流域や南本内川流域でのブナをはじめとした国有林野や材の利活用、須川温泉からの分湯実現、そして国道342号、古道仙北道や国道397号などを通じて古くから村の人々がお世話になり村とのつながりが強かった岩手県南内陸部。とりわけ奥州市水沢と胆沢の人々とは長くからの縁があり、絆を絶やさぬ交流は仙北道などを通じて今も続いています。

その交流の歴史をたどる一つの資料を、何年か前にKさんからいただきました。資料はある写真の写しで、現本はKさん宅に所蔵されているもの。

写真は大正10年(1921年)7月30日、今から96年前に撮られたもので、当時の水澤の青年旅行隊の一行が仙北道を越えて村を訪れた際の記念撮影の様子です。

交流は、当時の県道水澤十文字線(現国道397号)の実現にむけた運動の一環だったようで、仙北道の改修、復旧、踏査や県道実現のうえで水沢側で尽力された砂金兵記氏も写真のなかにおられるようです。詳しくはKさんによる画像説明の文書の一部をご参考に。

村と水沢を結ぶ交通路実現では、こうした当時の人々の尽力を経て、昭和10年には村の誇るべき遺産として美しい村の象徴とされる「田子内橋」が大橋場に完成しています。橋竣工の年の昭和10年8月14日、水沢出身で時の首相であった斉藤実氏がその「田子内橋」を視察されています。

斉藤元首相は、その翌年、2.26事件により陸軍青年将校らによるテロルに遭い凶弾(妻といた居室で48発の機関銃弾を体に受けたとされる)で命を奪われました。軍部が台頭し、日本が暗黒と悲惨の歴史を刻んだ侵略戦争へ至る道への途上でのことです。

奥羽の峰を越えて交流と交通の礎をきずいた当時の人々の熱意が伝わる写真。温故知新、私たちは、時に歴史をふりかえり先人に学びながら新しい道を拓いてゆかねばなりません。村に生きる者にとって、お隣奥州(仙北道は胆沢下嵐江までだが、そこからは衣川、平泉に至る道とつながる)は、古の時からあまりにも学べることが多く遺されている土地でもあるのです。