先の7日付けで、岩手県に通ずる道路水沢線(現国道397号線)の開通運動の歴史を知る一端としての写真をご紹介しました。
そしたらそれを目にされた方から「関係する資料が我が家にある」とのお話をしてくださり、その資料のコピーまでご丁寧にとっておいてくださりいただくことができました。
その資料は、水澤増田間縣道開鑿促成で今度は村から水澤へ向かった一行が記した旅行記で、先に紹介した写真(大正10年、水沢から仙北道を越えてきた旅行隊)への答礼と同縣道の促成を目的とした旅と記されています。2年前に水澤側から来られた隊の道を逆の行程で歩まれた時の記録で、大正12年7月5日から7日にかけての日程だったようです。
隊を構成したのは、東成瀬村が青年団長をはじめとする団員、村長、小学校長や教員、書記など34名。西成瀬村が青年団副団長と団員、収入役、小学校教員など11名、増田町が青年団長と団員、書記、農業技術員、軍人分会委員、有志など21名。総合計66名の大視察隊です。名簿を目にすればおわかりのように、こういう内容での峠越えとしては規模においても隊員の構成においても大きな行動であったことが偲ばれます。
当時の仙北道は、現在のように豊ヶ沢をたどる車道はもちろんありませんから国道342号のあるあの手倉・椿台境の狼沢入り口から歩きです。奥州胆沢の下嵐江(おろせ・私らはオロヒェと呼ぶ)~狼沢入り口までのそれこそ全行程をすべて足だけでの通しです。
一行は朝8時に椿台を出発し(増田の方々は村内のどこかに前泊したのでしょうか。)、生出川原で昼食をとり、午後3時に追分着、下嵐江を経て午後5時に愛宕小学校石渕分教場に到着と記されています。途中、若柳、愛宕など岩手側から受けた歓迎行事や猿岩にある神社参拝を経てのこの時間到着です。当時の方々がいかに健脚であったか、いま、復活された仙北道の一部を歩いただけでも約7~8時間、その体験をされた方なら昔の人々の難儀が理解できるでしょう。しかも隊は64人の大員数、たいしたものです。
この旅行記の筆をとられたのはおそらく村内の方と思われますが、それは書記の方でしょうかよくわかりません。昔の方々は当然ながら漢文などにもよく通じておられて、文章も総じて品格の高さが感じられるものですが、この旅行記もまさに名文、教養の高さがうかがわれます。その場その場の自然と人々の様子が、今の私たちの目の前に浮かぶように濃くかつ余計な言葉なく簡明に記されていることにも私は注目しました。
県道開さくに関わるこれだけの大きな旅行隊でしたが、村の郷土誌、交通運輸の章の820ページには前後のことは記されているのにこの行動は記されていません。編集当時、こういう資料のあることがおそらくわからなかったのだと思われます。そういう意味でも、これはとても大切な記録といえるでしょう。許可を経て、写真にして全文ご紹介です。