新たな出会いの日々が続く

きのうは村へ転入となった小中の先生方との合同挨拶会がありました。

小学校の新教頭先生は昨年まで同じ職場に勤められそこで昇格された方ですが、ほかの皆さんは文字通りの転入です。それで、まずは明治の市町村制施行以来、昭和、平成と二つの市町村合併の激動を経てなお、自立を保ち続けている村の自治の特徴と、そのためにも地方自治では100年の計とされる人づくりが大事であることに少し触れてあいさつとしました。

きのうは、今春役場に新採用となった若者諸君4人(3人は村出身の方、1人は横手市大雄出身の方)のごあいさつも受けました。身の丈にあった職員数となりますから、当然、少数精鋭でしごとを切り盛りすることが求められ、一人の職員にかかる責務が大きいことを自覚しなければならないでしょう。全体の奉仕者という憲法の定めをはなさず、村づくりの要として成長・活躍されることを願いながら激励をしました。

▼水稲の育苗に備えて、ハウス設置箇所の雪消しが方々で真っ最中です。豪雪対策本部の設置もなくそれほど雪の多い冬ではなかったのですが、相変わらず雪解けの進みは鈍しです。大型ブルドーザーでの作業でも、小型ロータリー除雪機での作業でも、動かす雪の量は豪雪の年とそれほど変わらぬ多さになってみえます。

きのう、おとといと晴れの天気でしたが、本格的な堅雪続きはまだで、きのう朝の雪原でも雪に足がやや沈みました。飛び上がってもぬからないほどに雪が完全に締まるまでには果たしてもう何日を要するのでしょうか。

緑も、花も、少しずつ種類を増やして

久しぶりに晴れ渡ったきのうは、朝一番で、異動となって新たな任務に就かれた広域消防本部の消防長や次長さん、課長さんなど幹部のみなさんがそろってあいさつに来庁され、後には村の新消防分署長さんたちも見えられました。

消防団長をつとめている副議長と席を共にしながら、村の無火災記録を伸ばし続けることや、やがて始まる山菜(タケノコ)採り遭難対策など、村の特徴を話題にしてあいさつを交わし合いました。

分署には、村内五里台出身の若いTさんもよその署から転勤で配属となり同行されました。役場には、もう少しの間「転勤」や「新採用」にともなう新鮮な気が漂い続けるでしょう。
やる気にあふれた新鮮さに触れると、こちらも年が若返るような気分になります。

▼朝から夕までの久しぶりの長い陽射しに野の花たちも満開。冬眠から醒めた虫たちが、蜜をもとめて忙しく動き回っていました。

フクジュソウに続いてチャワンバナコ(イチゲ花の仲間たち)もようやく咲き始め、よく食べられる野草の仲間としてはバッケに次いで出の早いヘリザグ(シャク)やヒロッコ(ノビル)も雪ととなりあわせでおいしそうな芽をいっぱい出しています。

村内の様子をみながら椿川地区に上がり、これも久しぶりに明通沢や柏峠、そして東山をながめ、「ようし、今年も、春の雪山シーズン、きたぞ」と期待をふくらませました。

50年~100年の体験だけでは判断できぬことも

多くの若い命が一瞬にして奪われ負傷者も出た那須の雪崩事故。事故のニュースが流れる都度、ご家族や関係される方々の悔しさ、亡くなられた方々の無念を思うと、なんともいわれぬ悼みがこみあげてきます。

雪崩事故では、とくにこの季節におきるヒラ(底雪崩)をはじめ、過去に村人が幾度か犠牲になっていて、よそごととは思えぬ注意をはらって関連のニュースを視聴しています。

事故を起こした雪崩はどんな構造の雪崩かまだ確定はできないようですが、状況によればワス(表層雪崩)の可能性が高いとみられているようです。ヒラだけでなくワスでも、わが集落の人々の事故遭遇が過去にはあります。入道から県境の峠を越えた岩手和賀川支流・南本内川流域の国有林内で、3月はじめ大きなワスによる惨事がおきているのです。

それは、昭和38年、営林署の作業員としてはたらく方々の宿舎がワスの直撃を受けたもの。やはり積雪面がある程度締まった後に時ならぬ大雪が新雪として降り、ワスが予想もしない距離を猛スピードで滑り下り、夕食後だったのでしょう7時40分頃、くつろいでいた宿舎の人々を直撃した事故です。私の母の従兄弟二人もこの事故で亡くなりました。

国有林に何十年も入山している方々も、「まさか、そこにワスがくる」などとは思えないから宿舎を建てたのでしょう。山のそういうベテランの方々の判断範囲をこえたワスがおきたのですから、自然災害は、50年から100年の直接体験だけでなく、もっと長く広い体験や歴史から学ぶことが大事ということをあらためて感じます。東日本大震災も、千年という長い歴史刻みで注意を払わなければならなかったといわれることと同じです。

実は、「狭い(50年~100年)体験だけをたよりに行動すれば危ない」ということを、昨日の朝、自宅向かいの山の雪崩をみて再度痛感したためこんなことを記しています。

同じ斜面を前日に写真で載せています(左の写真)。雪崩止めのないところのヒラ(底雪崩)の跡を紹介しようと載せたのですが、その時はまだ左の大きな斜面のヒラは落ちていません。ここには下に雪崩止めがあり、その上部で大きな割れ目ができていますが滑りはまだとどまっています。

私はいつもの体験から「割れ目の下はそのうち崩れるだろう」程度に思っていました。ところがなんと、昨日朝見たら、割れ目の上部全体の膨大な量の雪がすべて雪崩止めをこえて落ちたのです(右の写真)。こういうことは数年に一度はありますが、「まさか、今、割れ目の上が落ちるとは」と、狭い体験から来る自分の判断の甘さを知らされました。

4月、いよいよヒラが本格化します。道路の春山除雪や春山登山も始まります。100年の間何もなかったから大丈夫ではなく、山と雪の状態をよく見て、皆、危険を察知することに怠りがないよう今後もつとめねば、です。

清水の生きものたちとご対面

土曜日、集落まわりの山々で本格化したヒラ(底雪崩)が各所に見られるなか、ズブズブと雪に足がとられるほどぬかる雪原を、童とともに清水の湧き口へ向かいました。

目的は、ここに棲むセモリ(サンショウウオの仲間)とサワガニを目にすること。

今年は、サンショウウオもカニもいつもの年よりはるかに数が多く、石を起こす度に「あっ、いる、いる」の声が続いてあがるほど。おまけに今年はなんといまの季節にカエルも石の下の流水にじっとしていて3匹。さらにおまけに名を知らぬ昆虫の幼虫や石の下で冬を越していたクモ(メキリグモとかの仲間かな?)も童は見つけ大喜び。加えて、秋にそばの木からでも落ちたのでしょう長~い芽が出ている栗の実も石を動かしていて発見。驚きと喜びがいくつも重なった石起こしでした。

サンショウウオはこの時期になると動きが夏場とほぼ変わらぬほど。さすがにカニはまだ動きがまったく鈍し。でも、種によって違いはあるでしょうが石の下にじっとしていたこのカエル(アカガエルの仲間で冬から繁殖活動するというタゴガエルでしょうか)は予想外に動きが活発でした。

あいかわらず雪解けの早くない春ですが、清水に生きるミズバショウも新芽をわずかに見せるようになりました。雪解け箇所にはどんどん数が増えているバッケ(フキノトウ)を「かっか(母)におみやげ」「こうやれば、採れるんだね」といいながら童はだんだんと手際よくなり摘み採ります。

成瀬川はやや雪解け水を加え始め、ほんの少し笹濁りの瀬色となっています。帰宅して我が家前からその川をはさんだ向山を肉眼でながめたら、二匹のカモシカが雪崩跡にいます。双眼鏡でのぞいたら、冬の間は常食としている柴木の小枝やまだ堅く閉じている木の芽を食べています。

雪崩のあった急斜面は雪がなくなり低木類や多年草が出ていてそこはカモシカにとってこの季節としては食の宝庫。しかし斜面にはまだ崩れやすい雪が方々に見られます。雪崩跡でカモシカの死体を見ることが時々ありますが、命をつなぐ食と危険な雪崩が隣り合わせる場にくらすカモシカ、こんな光景が自宅前で見られるのも豪雪の村ならではのことです。

広域行政でも送別の集い

きのうも別れの言葉が多く交わされる日となりました。

異動となった商工会事務局長さんがご挨拶でみえられ、夜には広域市町村圏組合の管理者を退任となる斉藤湯沢市長さんや定年や転任をむかえられた職員のみなさんとの送別会も催されました。

斉藤管理者は、氏が旧稲川町議時代からのつながりで、広域行政で8年間をともに過ごす縁ともなりました。こちらが広域市町村圏組合議会にはじめて選出されたのが平成11年春で、以来、ともに広域行政で過ごした職員さんの多くも次々と定年をむかえています。

管理者と消防長や次長など勇退、定年退職、転任のみなさんの労をねぎらい、ご苦労に感謝しながら言葉を交わし合った2時間は、時局柄、あのことこのことと話題がまことに豊富で、あっという間に時が過ぎてしまいました。

▼先日ご紹介したネコくんは、今も遠征を繰り返し我が家前を時々通ります。そのたくましさは並ではありません。この歴戦を思わせる面構え、生きる力の強さ、彼からわれわれが学ばねばならぬことがいくらかはあるような気がします。

 

別れの日々です

きのうは小中学校の離任式の日だったそうです。子供たちとお別れの言葉を交わされた後でしょう、11時から役場庁舎内でも、転出される先生方との小中合同でのあいさつ会がいつものように行われました。

職場・同僚との別れ、地域との別れ、そして何よりも子供たちとの別れという定めがある教職員のみなさんにとって、異動発表後のこの月末は、4月からの新たな職場でのスタートにむけた気持ちの切り替えとあわせて、なかなかつらくて複雑な心境におかれる日々と察せられます。

子供たちをしっかりと育てていただいたことへの感謝とお礼を込めながら、新しい任地でのご活躍をお祈りして一言ご挨拶を申し上げました。

▼それが終わってすぐに、村のために尽力された方や小中学校で今年度スポーツや文化・芸術活動ですぐれた成績を上げ活躍された児童生徒のみなさんの表彰式へ。晴れ晴れとした表情で賞状を受けるみなさんの姿、外も春本番に少しずつ近づいていますが、みなさんの笑顔で会場内は春のようなほっこりとした雰囲気につつまれました。

何かの遺跡みたい

冬の間、除雪機械で道路から寄せられた雪がたんぼや畑に盛り上がっていました。道路の除雪がほとんど必要なくなった今、その寄せられた雪をユンボーで掘り崩して消えやすくしている作業が村内各地で進められています。

ユンボーが堀り置いた雪の塊は「あれ、なんだか古代文明の遺跡みたい?」とでも思える「雪塊群」が並んでいるように見えます。

3月末はまだ寒し。ビニルハウスで野菜苗を準備しようとしている方々も、「雪、ながなが、けねぇ(雪が、なかなか消えない)」と語っているそうです。大雪でなかった割には残雪量の多い、寒い春が続いています。

それでもまもなく4月。まわりはまだ1㍍を越す積雪ですが、清水の湧くそばでは、やわらかな新芽とともにつぼみを膨らませたワサビが見られるようになりました。

バヂジョリ(バチゾリ)集材の頃

亡き父が小さな木材業を営んでいた。若い頃は私も家業に従事し、今ではほとんど見られなくなったワイヤーロープを張っての集材架線技士として集材機械の運転を主な仕事とし、冬場はティーラーを操る運材役をつとめ、バヂジョリ(バチゾリのこと・わが岩井川ではソリをショリと呼ぶ)集材の助手(バチゾリの操作は熟練が必要で、この集材法がわが村では最後になった頃に、わずかの操作経験しか私にはない)もかなり長くつとめた。

バチゾリは、いつかも記したことがある。傾斜のきつい雪道でいっきに木材を滑り下ろすソリで、木材とともにソリに乗り、あるいは半乗り状態でソリを操り、雪道からはずれないよう滑り降りる運搬法である。それで、その仕事は主には「ソリ引き」ではないので「バヂ乗り」ともいわれた。木材搬出の山仕事では土ジョリ(土ソリ)とともに最も危険な作業で、ひとつまちがえばソリにはさまれて死や大けがを招くこともある。この仕事で亡くなられた村人もおられるが、全国規模でみればそういう悲惨な事例はほかにもあるだろう。

とくに前日のソリ跡がカチンカチンに凍っている朝一番のソリは急傾斜だけに危険だらけ。したがって木材はすべてをバヂゾリに載せず片方だけソリからはずして雪道に接続させブレーキの作用をさせる。それでもスピードが増すのでさらにソリそのものにも手動の鉄製ブレーキをつけ、さらにそのブレーキがよく効くようにと、とっさに柴木をあてがう用意もするためそのための小枝も幾本かソリに積む。これがほかのソリとちがうバチゾリの構造と操作の特徴である。傾斜の緩い道では、材を引きずったままソリを懸命に引くという難儀も時に加わる。戻りはソリ全体を担いで上がる。危険と重労働の繰り返しである。

写真は、40年前の1977年(昭和52年)の春、胆沢川上流の通称ハヂベェテェ(八兵エ平)で、当時の岩手県水沢営林署から払い下げをうけた国有林のブナ材を、バヂゾリで運ぶ仕事をしていた当時、わが家に働きに来ていた人々である。むかし、胆沢川上流のブナ国有林は、岩手の地でありながらわが村岩井川の愛林組合によってひろく利用され、国有林のブナの払い下げも長年受けた。その組合は短角牛放牧組合と似た存在だった。

国道397号沿いの胆沢川上流部、大きな砂防堰堤のある「かいち橋」周辺より西北の林は、ほとんどが組合に択伐(必要なブナ材だけ選んで伐る)として払い下げられ、我が家はその材を春はバヂジョリや大ジョリ(木のソリに食用油を塗ったソリで、村では荷重の大きな材を運ぶ作業に使われた)で、夏は集材架線で搬出し販売するしごとを長年続けた。

さて、そのバヂゾリ。荷をソリに載せる時は材を転がし一方を担ぎ上る。それに使われたのが「ガンタ」と呼ぶ道具。載せた後はいっきに滑り降り、帰りはソリ全部を担いで急坂を登る。雪で肩と背中が濡れるのを防ぐために最良の作業着は犬の毛皮で、バチ仕事にはこの毛皮が欠かせなかった。徒歩で集落から県境の尾根を越え現場に着き、みんなそういう重労働なので、昼はとにかく飯の量が多くなければ。写真は、村のバチソリ集材最後の頃の様子。「魔法弁当」が出始めの頃で、まだ大きな「二食弁当」に詰めた昼飯を食べている姿もある。40年前のエシャガ(胆沢川)の春山仕事はこうだったという記録である。

雪降るなかの卒園式

過ぎた週末は、これぞ「寒のもどり」の雪降り。今冬最後の除雪かな、と思いながら土曜日朝はトラクターを動かすことに。

▼その前日は保育園の卒園式へ。昨年から祖父母の出席もみられるようになったお祝いの式は、外に大きな名残雪が流れ降るなか行われました。

19名の卒園児たちが、親へ「ありがとう」とのべる姿は、ほんとに可愛いものです。よく育ってくれた、よく育ててくれた、と、子供たち、親、家族、保育士のみなさんへ感謝しながら、胸が熱くなるひとときを過ごしました。

▼きのうは同じ県内でも太平洋側のように降雪が少なく、春の訪れがわが集落よりも一月近くは早いでしょう象潟経由で酒田市へ出かけました。日本海側であっても、暖流が寄せる土地は積雪がゼロ、少し大げさにいえば「異国」のような印象をうけます。鳥海山をはさんで東、西のわずかな距離での気象のちがいに驚く3月の末です。

平野が雪解けの季節は、山容全体が真白き鳥海山の秀麗さが際立つ時。北へ渡る前の白鳥が飛び交う横手盆地、にかほ市方面、酒田市土門拳記念館方面からと、東、北、西、南から鳥海山の麓を一周して眺め、月山、最上川河口、そして穏やかな日本海をながめつづけました。

映画「おくりびと」のロケ地で知られ、夕日の景色がすばらしいという酒田市の日和山公園界隈では梅が咲き始め、桜のつぼみもだいぶふくらんでいます。里山では、サシボ(オオイタドリの新芽)採りをしているのでしょうか、お年寄りの姿がちらほら見られましたが、風はやはり今年はまだ寒しです。

成瀬ダム工事事務所開所式

彼岸明けというのに時折の吹雪模様、肌寒い一日となったきのう。成瀬ダム工事事務所開所式が、役場向かいへ新築されていた国交省の工事事務所で行われました。

式は、国交省東北地方整備局河川部長畠山愼一氏の挨拶ではじまり、関係する市町村長の除幕によって事務所が開所となりました。

ダムの通称「本体」といわれる堤体の工事は平成31年春から始まる計画で、工事は平成36年の完成をめざして進められます。

▼開所式の前には、この3月で定年退職となる広域市町村圏組合の消防長と次長さんがあいさつで見えられました。

午後は湯沢雄勝農業委員会連絡協議会の会議で湯沢市へ。農業委員会の新たな選任制度に基づく手続きが各市町村で進められていて、公募作業が先行していた自治体ではすでに募集の締め切りがされたところもあるようです。それらのところでは定数をはるかに上回る応募数のところもあるとききます。

連絡協議会は、現体制ではいわば最後の会議であり、異動や定年で農業委員会の職務から離れる事務局長さんたちもおられて、さびしげな雰囲気と労いの心が混じり合った会議となりました。

▼農業委員会の新たな選任作業は全国的なとりくみですが、わが秋田、そして県南は、ほかにもっとたくさんの「選ぶ」動きがかさなります。

きのうは知事選が告示され、雪の中に立つ掲示板にポスターが張られていました。

管内では市や町の首長、JAの役員、土地改良区役員などもそれぞれ改選期をむかえたところがあり、議員の補欠選も予定されているようです。選ぶ側も、えらばれる側も、いろいろと重なる「めまぐるしい時がやってきた」との声がきかれます。