温故知新 古い議事録

役場庁舎とそれに接続する山村開発センターの内部改修にあわせて、永久保存書類などの書庫の配置換えがすすんでいる。

それらの中には、議会議事録もある。村の歴史を学びたいときには「郷土誌」が私の教科書で、ふだんはそれで間に合わせている。加えて、村民がたどった近世・現代の歴史を深く知る上ではこの議事録が宝物といえるほどに貴重な資料となる。村の郷土誌編纂にあたった当時の人々も、おそらくこの議事録のページを何度もめくりかえしたことと思われる。

明治21年4月17日に市町村制が公布、翌22年4月18日に田子内村、岩井川村、椿川村が合併して東成瀬村が生まれた。議事録(終戦前は村会録)には、その翌年の明治23年から、延々と村と議会の行政の様子が書きのこされている。

今のようにコンピューター時代ではない当時のこと。直筆や、謄写、和紙などに記された128年以上前からの会議録である。戦後の地方自治法制定と公選制による選挙を経ての村長、議員の選出と村政・議会運営の当時のおおよそもこの記録から知ることができる。

戦後すぐ、自治法制定後の議事録でも、まだしばらくは要点筆記ではあるが手書きであり、一字まちがっても、ちょうど公的契約書のように「00字訂正」の文字と訂正印があり、ページをまたぐ書類には割印も押されている。

ガリ版刷りの予算書や議案書と合わせ、一つの文字、一つの数字にも神経を集中したであろう書き手の苦労がしのばれる。当時は当時なりの会議録作成や議案書づくりにあたった人々の難儀が、褐色ににじんだ紙に刻まれた文字などからしのぶことができる。

中には、質疑の経緯からみれば採決の結果が意外で「おやっ、ここで、いったい何があったのだろう」と思われる記述の一コマもある。会議録が要点筆記だからこそありえることだが、戦争直後、民主政治がまだ浸透し初めの頃の議会と議員の論議の様子を想像することもできる。

そういう歴史をたどった村で村政に携わるわれわれも、平成の市町村合併がすすめられた時の村政の当事者を経て、村はいま128年の時を刻もうとしている。その議会の会議録はいつの頃からだろうか、要点筆記から全発言が記録され同じように永久に保存される。

この会議録は、村広報や議会広報の縮刷版などとともに村のたからもの。温故知新、記録は大切に保存するとともに、それだけでなくそれを活かし、先達が苦労したその宝から学ぶ心がけが大事と思った次第である。

▼きのうは湯沢雄勝農業委員会連絡協議会の総会があり湯沢市役所へ。農業委員や農地利用最適化推進委員の公募状況など情報を交換し合い、新年度活動の方向性を決めました。

雪の精のようなキノコ

初冬と早春、いずれも雪と隣り合わせの低温下で育つめずらしい菌類、その名はユギノシタキノゴ(エノキタケ)。

私の散策コースには、雪解けにあわせて春の季節のキノコが雪の下から次々とカオを見せるようになっています。今回のキノコはそれほどでもありませんが、真っ白な雪とならんでいるその姿は「まるで雪の精」とよびたくなるようなキノコです。

むかしの人々は、積雪の下でこのキノコが育つ様子をよく観察していて、こんな名前をつけたのでしょう。名のとおり、雪の下で成長していて、春のときなら、雪が消えて見えるようになったらたちまち採り頃ということが多いですからね。

水辺にはアザミの若芽と、小さな小さなコゴミもでていて、雪の精のキノコとともに初物を味噌汁でいただきました。

▼きのうは農業委員会の4月総会の日。議案審議のほかに、今年度の農作業標準賃金・料金体系を、JAのセンター長にも協議に出席いただき、前年度と同額とすることを決めました。

肥料や農薬、燃料類などの価格動向には現在のところ大きな変化がみられないようで、それらの要素を考えながら据え置きとしたものです。

冬眠明けのクマ公さんたち

春4月は、冬眠明けのクマたちと出会えるときです。

30数年におよんだ趣味の狩猟や、あるいは山菜・キノコ採りなどで、里山から奥羽の深山までクマたちの棲む山々を歩いてきた当方。なので、むかしのマタギや先輩たちからつたえられてきた冬眠穴をはじめ、クマが今も冬眠につかっている穴、あるいはつかっているらしい穴をふくめいくつかの所在が頭のなかに入っています。

それらの冬眠穴のうち、今もクマが毎年、あるいは隔年で入り続けていることを確認できて、なおかつその場所を知るのがおそらく自分一人だけだろうというのは、私の場合は3つの冬眠穴だけでしょうか。それはつまり、銃猟をやめてからここ数年の山歩きでこちらが新しく発見した穴ということです。

そんなことで、春山歩きと冬眠明け直後のクマとの出会いを趣味とする私。里の近くにあるその越冬穴のうちの一つに出かけてみたら、たまたま冬眠を終えて穴の入り口で体をほぐしていた2頭のクマが確認され、1頭は、そばの木にのぼる姿まで目にすることができました。こちらもたまたまでかけたのですから、これは天の誘い、とりはからい。運がいいとはこんな時のことをいうのでしょう。

最初の写真で、右に写る一部の姿しか見せないほうが頭が少々大きいように見えますから母親?で、木に登っているのはフルゴ(古子・昨年の冬に生まれた1歳を過ぎた子ぐま)でしょうか。ちなみに、今年の2月頃に生まれた子グマは「ワガゴ(若子)」とよびます。

それでなければ、母親とフルゴの母子3頭がいて、姿を見せたのはたまたま2頭ということなのかもしれません。クマはまだ穴の入口だけでの動きで私からの視野が狭く、いったい母子は2頭なのか3頭なのか全体の様子が確認できませんでした。

高性能の望遠レンズを持たないので、クマまでの距離を50~60㍍ほどまで近づき撮影しました。聴力は人間以上、嗅覚は犬なみに敏感という彼らに気づかれないよう、風の向きや音にはとくに気をつかいます。木陰に身を隠しそろりそろりと雪上を這い、あらかじめ決めていた危険を避けられるギリギリの地点から、時に息を止め、写しはじめました。

クマの視線にこちらの動きが入らないことを願い意識しながら、最初はそれこそ固唾をのんでシャッターを押します。こういう時ですね、猛禽類など野鳥観察の方々が使うような高性能望遠レンズがあればと思うのは。

クマは冬眠開け直後。なかなか全体の姿を長時間見せるほどに動きがまだ活発ではなく、見える範囲で姿が確認できたのはわずか8分間だけ。冬の間にややかたばった体を少しほぐして穴の中にまた入ったらしく、いくら待っても後は姿が見えずです。しばらく粘ったものの、こちらも寒くなったのでひき上げました。

わらび座の新作ミュージカル公演

雨天底冷えの15日。わらび座の新作ミュージカル「ジバング青春記」の初日公演にご案内をいただき、仙北市田沢湖町神代のわらび劇場へ妻と二人むかいました。

物語の内容や出演者などはミュージカル紹介のチラシを載せましたのでご覧になってください。11月末まで劇場での常打ち公演がおこなわれています。

市町村の学校体育館を借りての過ぎし公演当時など、このわらび劇場が建設される前後のわらび座を知るものの一人として、発展、前進を続けてきた座の姿、次々と創造性を発揮しての開拓者精神ともいうべき姿勢には敬意をはらいたいと思います。

座は、このように毎年大きな新作を発表し劇場公演等を行っています。今回の「ジパング青春記」をふくめ、座の作品には、弱者への慈しみ、傲る権威への批判と風刺、博愛、平和希求がテーマとして貫かれていると感じながら観劇しています。

経営体としても「人は何を求めているか、時代を先取りする感覚が鋭い」わらび座のこの姿勢と実績には、老舗から新規起業まで県内の企業体も学ぶべきところが多くあるように思われます。

ミュージカルを主とした本業の演劇においてはもちろん、子供たちの体験旅行をはじめとする観光部門の先駆性、地ビール醸造など食の部門までふくめて、地域資源を活用しながら経営体として発展している国内有数の劇団がわが秋田の県南にあるということは、なんとも頼もしいことです。

文化芸術活動から出発したわらび座が、土台の活動を軸にしてそれに連なる事業を多面展開しここまで人を惹きつけ感動をよぶ。法則にかなった人間の営みには力があるものです。

今回も「すぐれた生の芸術さ、たまに、触れでおがねばな」などと二人で語り合いながら帰路につきました。

▼所用でめぐった週末の村内。入道野頭地区からは残雪の白さがきわだつ鳥海山の頂上部がくっきり。村内の人里から鳥海山がのぞめるのはここだけ、ということは鳥海山の頂上に立てば入道の家々やたんぼが見えるということです。毎年記していますが、何十年前にか、山仲間とその頂上を二度訪れ、「あそこが入道」と、ながめた日々を思い出します。

村内は、チャワンバナコ(イチゲ花の仲間たち)が真っ最中。フクジュソウも花群落をどんどんひろげ、雪消の早いところではカタクリも見え始めました。野の草の緑も日を送るごとに増えつづけ、豪雪の里だからこそのまばゆい春がまた山間の村にやってきました。

気温が上ったきのうは、成瀬川がゴーゴー、この春いちばんの雪解け濁流となりました。

50年ほど前の春山仕事コースを歩いて

過ぎた10日、仙北道筋の胆沢川流域から県境の尾根と支流域のブナの森を歩きました。

今回は、先に記していた50年ほど前の春山仕事で雪上を岩井川馬場から胆沢川の大森沢に通ったコースを意識して歩きました。当時最短で歩いたコースは、なるべく県境の尾根までまっすぐに上がることで、この日の一歩一歩は、むかしを振り返る歩みとなります。

パークゴルフ場の早期開業にむけて国道の除雪が途中まで進められています。こちらはスキー場分かれの交差点から国道を歩き開始。竹まるぎっぱ(竹まるき場)という、昔は大雪崩のあった箇所からは国道をそれて坂を上り、また舗装道路に移って荒沼へ。そこからはまた最短コースで、ほぼ直線でトンネル口に向かい県境の尾根へ上がりました。

その尾根が、エシャガ(胆沢川)のアゲの頂点です。ここは尾根のブナも途切れ、昔から展望の良いところ。先日掲載の写真でも馬などがいて、木材が並んでいた尾根で、この広場に大森沢からブナ材を架線で上げ、そこから下の林道までは馬で材を搬出したのです。(1枚目の写真)

眼下には、50年ほど前、春(伐採・搬出とナメコの種菌打ち)、夏(集材架線)、晩秋(ナメコ採り)と働いた大森沢の原生林が遠く大森山まで見えます。林に一直線にのびる真っ白な線は、集材架線の親線を張るときに支障木伐採をした痕跡です。(2枚目の写真)

国道がまだ完成せずトンネルもない当時、春には雪上を上り下りし、秋から初冬にはナメコ栽培組合のアバさんたちとナメコをどっしりと背にして大森沢入り口から上がったハッピャクヤアゴのアゲも写しておきました。(3枚目の写真)

組合で栽培したナメコは、伐倒した切り株などに種菌を春に植え、秋に組合総出で採取し組合で一括販売を繰り返しました。眼下の森の奥深くまで入って採取し、この坂をむらのアバさんたちは荷をでったり(いっぱい)背負い上がったのです。タケノコ採り人もです。

天気はよいものの、この日の尾根は木の枝を揺らすほどに冷たい風が吹くので、冬山を歩く装備と同じにしました。尾根のダシ(西風に運ばれた大量の雪)にはひび割れが随所に。

ブナの森では、昨年晩秋に発生後、樹上で凍りついてしまったカノガ(ブナハリタケ)やブナシメジらしきキノコもあり、一部はちょうどノギウヂ(エゾハリタケ)のように雪上に落ち春の陽射しで解凍されています。これらは持ち帰って、早速ごちそうになりました。

大森沢とちがって、仙北街道筋の胆沢川上流とその大きな支流域は、古来から一度も斧の入らないブナ原生林の宝庫で、見ほれるような幹が林立しています。往きと帰り、県境をはさんだ岩手と秋田両側の木肌にカメラを幾度もむけました。これら成木、老木、枯木や、もう土にかえろうとしている倒木は、50年前から私らを見つめていた木々たちです。

味噌仕込みの春

県南3箇町村議会連絡協議会の議長3名が集い、羽後町役場の議会執務の一室で今後にむけた打ち合わせなどをきのう行いました。

県南でも平野部は積雪ゼロとなって久しいですが、帰りに西から奥羽山脈にむかい村の入り口あたりまでくるとたんぼはまだ雪。高台にある羽後町の田代仙道地区もまだ雪があるそうですが、我が家のまわりもまだまだ白が支配する雪消の遅さです。きのうは一年に一度、春にやってくる自家用味噌仕込みで、妻に手伝い大きな木桶に味噌を詰めました。むかし、家族が多くて、また狩猟仲間たちと野ウサギやクマをはじめとする獣肉の鍋物をしょっちゅうつついた頃は、味噌を多くつかい、この桶も上までいっぱいになるほどだったのですが、今はこのように桶の半分にもならないほどの量で間に合います。

「毎日食べる味噌の原料は国産大豆で」ということにこだわります。もちろん麹も村の多くの農家がそうであるように自家産のお米が原料。

 

この味噌仕込みを機会に、我が家では塩漬けしていた野菜(主にナスとキュゥリ)やキノコなどが大きな桶にうつされ、今度は味噌漬けとして発酵がすすめられます。

キノコの味噌漬けで多いのは熟成すれば飴色に光り、食通には高級扱いされるノギウヂ(エゾハリタケ)と、黒みがかったトビダゲ(トンビマイタケ)の幼菌で、この二つは我が家のご飯のおかずに欠くことができない漬け物です。写真は昨年漬けた野菜やキノコの味噌漬けを桶から出したばかりの                                                                         ものです。

寒いながらもきのう午後のつかの間の陽射しで花開いていたチヂザグラ(イワウチワ)です。その後夕方からは雪となりましたから、花はつぼみを閉じて今朝はうすい新雪をのせています。冬眠明けをはじめたクマたちも、今朝の新雪をみて「こりゃぁ、まだ、穴の中がいい」とおもっているかもしれません。

広域行政のクリーンセンター竣工式

湯沢雄勝クリーンセンター(ごみ焼却場)の竣工式がきのう行われました。

総事業費約40億1100万円が投じられた施設は、施設紹介のパンフレットにあるように一日当たり74㌧のごみ処理が可能です。

県内の統一地方選ともいわれる知事選、首長選、議員補欠選が終わり、ここでもそれぞれ新たなスタートがきられました。

湯沢雄勝管内も、湯沢と羽後の首長改選、市議の補欠選がありました。広域組合と議会もあり、こちらも改選にともない管理者が代わります。勇退なされる管理者の斎藤湯沢市長さんが竣工式の式辞をのべられましたが、公務で私がいっしょになるのはこれが最後ですので、労いを申し上げました。

小さいながら何度も投票をともなう選挙をたたかった体験からして、選挙は気力を充実させるうえでも「とにかく体力がなければ」がこちらの実感です。しかも、今はまだ底冷えのする時期の選挙、候補者はともかく、アナウンサーなど選挙カーに同乗する方々の体調管理も苦労する時です。

みなさんご苦労様でした、というのが、すべての候補者とその陣営の方々への率直な想いです。結果は出ました。それぞれ多方面の意見・主張があり、それを堂々と論じ合えたのは民主主義社会が正常にまわっている証でしょう。

外国の大統領選挙などで一部陣営に特にみられたような誹謗や中傷、真実でない主張羅列の選挙戦は別にして、民主政治の選挙では、お互い、戦った相手を尊重しあい、違う意見にも謙虚に耳を傾けそこからも学ぶ度量をもちながら、それぞれの住民の期待にこたえる地方自治をしっかりと展開してほしいと思います。

政治、会社をはじめどんな組織でもリーダーにもとめられるのは「是々非々、己に真っ当な意見をいう者の重視」と私は考えます。追従や迎合の者(社員、職員)だけで己をかこえば、公でも民でも行き着く先は世界と日本の歴史がよく教えています。是は是、非は非とはっきり上にものをいえる人々を多くもち、その意見を聞く耳をもつリーダーがいる、こういう両為の組織は強いですね。

昔の山仕事の追録

先日、胆沢川上流部での木材搬出のことを記したら、「山仕事でつかう「ガンタ」とはどんな道具なの?」というおたずねをいただきました。

先の写真の中にも、「ガンタ」という道具をつかってブナ材を転がしている場面を載せましたが、道具の現物がすぐ手元にないので、そのガンタをつかって作業している様子の写真をもう一度載せてみました。1枚目の写真がそれで、3人で長さ約2㍍のブナ材を「せ~の」の声とともにガンタで担ぎあげ、バチゾリに片方の端を載せようとしている光景です。今の林業は究極の機械化となり、道具のいくつかは「古物」なのかもしれません。

バヂゾリの雪道は人力ではなく木材の自重で滑り下るために、適度な角度の坂道を林の中につけます。ただ、時にはどうしても緩い傾斜しか造れない箇所もあります。そういうところでは木材をひきずっているわけですから、操作をするバヂ乗り手はソリからすばやく降り渾身の力をこめて引かなければソリが止まってしまいます。そんな時にも、後ろにいる助手がガンタを肩にして押すというこの道具の使い方もあるのです。ただし、それは「助手がいた場合だけ」の話ですが。

ところで、余話です。胆沢川上流部の国有林大森沢でブナ材の払い下げを受けた当時は国道もトンネルも完成していません。そのため、雪上で伐り集められた木材は夏場に集材架線で空中を運び県境の尾根に上げたことも先に記しました。岩手側から県境の尾根を越して秋田側に大量の木材を搬入したというのは村の歴史ではおそらく最初のことで、それは昭和39年、こちらがまだ中学生の頃です。

エシャガ(胆沢川)上流部の大森沢に沿った県境の尾根には、私の知るところでは秋田側へ越える3箇所のアゲ(峠越えの急坂)と名のつく地名がありました。それは、夏道もふくめ昔から仙北道とならんで胆沢川流域の上下流部へ通ずる主要な山道としてつかわれたハッピャクヤァゴ(八百八歩)のアゲ、ほかは山菜採りや狩人たちが冬場に雪崩の危険のないところということで林のある斜面を上り下りしただろうナガ(中)ノアゲ、シャガヂアゲの以上3つのアゲです。

最初に木材を上げたハッピャクヤアゴは、車の着く焼石林道まで秋田側の距離が長く、県境の尾根からは馬を利用して土の道をいわゆる地引きさせたのです。使役の「馬は7頭」と亡き父の記録にあります。馬方たちはススコヤの小屋で寝泊まりし日々勤しみ、後年には村の冬山木材搬出でも我が家に宿泊しはたらきました。後にこちらが働くようになった大森沢の上流部から材を越した時は、ナガノアゲの県境から焼石林道までの距離が長くはなく、集材架線を二段にしてすべて運ぶことができたので馬方は必要なくなったのです。

ユギ担ぎなど、当時の山林労働や山のくらしでは記録にとどめておかねばと思うことがまだまだあります。最も印象に残るバヂジョリ引きとガンタ使い、胆沢川の県境を越えた架線ケーブルと馬による木材搬出、それらの一端を先の余話として昔の写真からご紹介です。

連日の雪解け濁流へ

これからは、所用で村内をめぐれば、なんらかの花たちと出会え、その種数も増えます。

週末に出会えたのはショウジョウバカマの蕾。少し寒めでしたのでこんな状態ですが、今日あたりは満開となるでしょう。

先週から村は本格的な雪解けシーズンとなりました。その証がよく表れるのは成瀬川の様子で、川面はもう連日の濁流渦巻く流れへと変わっています。

仕事部屋の障子張り替えで戸をはずしたら、成瀬川は冬の清流とは比べものにならないほどに流れの幅が広がり、瀬は波立ち暴れています。カジカたちもタマゴをかかえておなかをパンパンに膨らませ産卵にそなえているころでしょう。

きのうは、一年つとめた部落神社別当役の慰労会へ。すべてはじめての別当役で勉強になったことがたくさんありました。そして初めてだけに「これは改善しなければ、これは担い手をつくらねば」という気づきもいくつかあった一年でした。

どんな組織体も、新鮮な改革への気づきがなければ、よくいわれる「前例踏襲」ということになりがちです。いい前例はつづけるべきですが、変革すべきこと、着手すべきことはすぐに改革にとりかかることが必要ということを感じた初役柄の一年でもありました。

雪解け、春の農作業はじまりとともに、村の祭りの春が今年もやってきます。村のほとんどの部落神社のお祭りは春。秋祭りではなく春に祭りが集中したのはどんないわれがあってでしょう。豪雪の土地は全国的に春祭りが多いのでしょうか。祭りの歴史を知らないだけに、これも私の不思議のうちの一つです。

小学校18名、中学校16名の入学式

晴天3日続きのきのう、小中学校の入学式がおだやかな日和の下で行われました。

今年の入学は小学校18名、中学校16名。その結果、小学校は全校児童が101名、中学校生徒は70名と報告されました。

卒園式と卒業式で先輩として送られた子供たちがわずか一月ほどで、今度は一番の初々しさで入学です。その新鮮な姿も希望いっぱい。最上級生になった6年生と3年生をはじめとする進級した子供たちが、ちょっぴり先輩らしいまなざしで新入生をむかえる表情も希望いっぱい。「ふるさとの歌・悠久の風にのせて」は、いつお聴きしてもなんといい響きでした。

みなさん、とにかく楽しい学校生活の6年間、3年間でありますよう願うところです。

▼春らしい日々が少し続き、きのうは外気温が21℃まで上がりました。雪解けがすすんで人里がだんだんと土色に変わるこれからは、焼石連峰の名峰三界山や、それに隣り合わせる権四郎森(南本内岳)の白さがきわだちます。

土手のチヂザグラ(土桜・イワウチワ)のつぼみが赤みを増しふくらんでいます。きのう午後の成瀬川は、今年はじめての本格的な雪解け水となり、夕方には流れの勢いを朝の倍近くに変えていました。

今朝は一転して昨夜からのしとしと雨が本降りに。仕事部屋からのぞむ川は朝から濁流が水かさを増しています。今日は保育園の入園式。新しい生活へのスタートが村でもいっせいにはじまります。