バヂジョリ(バチゾリ)集材の頃

亡き父が小さな木材業を営んでいた。若い頃は私も家業に従事し、今ではほとんど見られなくなったワイヤーロープを張っての集材架線技士として集材機械の運転を主な仕事とし、冬場はティーラーを操る運材役をつとめ、バヂジョリ(バチゾリのこと・わが岩井川ではソリをショリと呼ぶ)集材の助手(バチゾリの操作は熟練が必要で、この集材法がわが村では最後になった頃に、わずかの操作経験しか私にはない)もかなり長くつとめた。

バチゾリは、いつかも記したことがある。傾斜のきつい雪道でいっきに木材を滑り下ろすソリで、木材とともにソリに乗り、あるいは半乗り状態でソリを操り、雪道からはずれないよう滑り降りる運搬法である。それで、その仕事は主には「ソリ引き」ではないので「バヂ乗り」ともいわれた。木材搬出の山仕事では土ジョリ(土ソリ)とともに最も危険な作業で、ひとつまちがえばソリにはさまれて死や大けがを招くこともある。この仕事で亡くなられた村人もおられるが、全国規模でみればそういう悲惨な事例はほかにもあるだろう。

とくに前日のソリ跡がカチンカチンに凍っている朝一番のソリは急傾斜だけに危険だらけ。したがって木材はすべてをバヂゾリに載せず片方だけソリからはずして雪道に接続させブレーキの作用をさせる。それでもスピードが増すのでさらにソリそのものにも手動の鉄製ブレーキをつけ、さらにそのブレーキがよく効くようにと、とっさに柴木をあてがう用意もするためそのための小枝も幾本かソリに積む。これがほかのソリとちがうバチゾリの構造と操作の特徴である。傾斜の緩い道では、材を引きずったままソリを懸命に引くという難儀も時に加わる。戻りはソリ全体を担いで上がる。危険と重労働の繰り返しである。

写真は、40年前の1977年(昭和52年)の春、胆沢川上流の通称ハヂベェテェ(八兵エ平)で、当時の岩手県水沢営林署から払い下げをうけた国有林のブナ材を、バヂゾリで運ぶ仕事をしていた当時、わが家に働きに来ていた人々である。むかし、胆沢川上流のブナ国有林は、岩手の地でありながらわが村岩井川の愛林組合によってひろく利用され、国有林のブナの払い下げも長年受けた。その組合は短角牛放牧組合と似た存在だった。

国道397号沿いの胆沢川上流部、大きな砂防堰堤のある「かいち橋」周辺より西北の林は、ほとんどが組合に択伐(必要なブナ材だけ選んで伐る)として払い下げられ、我が家はその材を春はバヂジョリや大ジョリ(木のソリに食用油を塗ったソリで、村では荷重の大きな材を運ぶ作業に使われた)で、夏は集材架線で搬出し販売するしごとを長年続けた。

さて、そのバヂゾリ。荷をソリに載せる時は材を転がし一方を担ぎ上る。それに使われたのが「ガンタ」と呼ぶ道具。載せた後はいっきに滑り降り、帰りはソリ全部を担いで急坂を登る。雪で肩と背中が濡れるのを防ぐために最良の作業着は犬の毛皮で、バチ仕事にはこの毛皮が欠かせなかった。徒歩で集落から県境の尾根を越え現場に着き、みんなそういう重労働なので、昼はとにかく飯の量が多くなければ。写真は、村のバチソリ集材最後の頃の様子。「魔法弁当」が出始めの頃で、まだ大きな「二食弁当」に詰めた昼飯を食べている姿もある。40年前のエシャガ(胆沢川)の春山仕事はこうだったという記録である。