「さよなら ぼくたちの ほいくえん」

23日(金)は保育園の卒園式。

今年の卒園児は15名。卒園証書を手に「僕は、私は、00になりたいです。」と大きな声で人生最初?の公への夢発表。目を潤ませている母親、笑顔の母親へ「おいしいりょうりをつくってくれて、ありがとう」等々とお礼をのべる場面。そして「さよなら ぼくたちのほいくえん」の合唱には、こちらも、毎年のことながらジーンと胸にくるものがあります。「消防士になりたい」、「警察官になりたい」、「アイドルになりたい」などなど。時代がかわっても変わらぬ子供の人気の的となる対象もあれば、時代をうつす「なりたい」対象もあり。まったく純な夢言葉をきくのもいいものですね。

子育てはまことに苦労が多し。それだけに、とりわけ同じ親でも母性という特有の愛情を子に注ぐ母親と、卒園児担任(だった、もふくめ)の保育士さんの喜びは大きなものがあると会場の雰囲気から感じます。「あの子が、この子が、こんなにりっぱに育ってくれて」と、感きわまるシーンに今年も触れることができました。

「♪♪~さよなら ぼくたちの ほいくえん~♪♪」よかったですね。子たちはよく育った、そして、保護者も保育園もよく育ててくれた、ありがとう、おめでとう、です。

ところで、これまで何十年もお聴きしていてなんとも思わずにいたのですが、この歌は「ぼくたちのほいくえん」ということで、「ぼく」はありますが「わたし」がないのはどうしてなのでしょうね。歌の場合は「ぼく」に「たち」の言葉がついているということで、男女児すべてをくくるように理解できるからそんなに気にすることではないかもしれませんが。「さよなら 『わたしたち』の ほいくえん」との詞にならなかった理由がきっとあるのでしょうね。

▼24日は彼岸の明け。わが家のお墓参りはこの日が習わしで、菩提寺境内の雪の墓地に向かいました。お墓はごらんのようにまだ厚い雪の下。スコップで少しだけ雪を掘って壇をつけ、村のお年寄りのみなさん手作りの彼岸花、ローソク、線香を、みんな雪に立てて拝みました。

18日の彼岸入りからこの彼岸明けまで、そして月命日と、仏前のお膳には家族が「この冬を越してきた食べ物」が妻の手でいつものように供えられました。まもなく春本番、これからの月命日には、貯蔵された食べ物ではなく採りたての山菜料理などを供えることができるようになります。

広域組合の議会へ

広域市町村圏組合の3月定例議会がきのう開かれました。

湯沢も羽後もわが村も、20日に3月議会を終えています。きのうの広域議会で管内のすべての市町村が責任を負う行政は新年度に向かう方針・計画、その裏付けとなる予算を決めたことになります。

今年度の広域行政で最大の事業は新消防庁舎と関連施設の建設。一般会計の継続費として30年度と31年度にわたり消防庁舎で17億2,140万円 、消防指令センター整備に3億6,675万8千円の予算がくまれました。そのため一般会計の当初予算も前年度当初予算比で47.4㌫増の約40億6,100万円となりました。

消防庁舎は今年の夏に工事着手で14ヶ月後に完成予定の計画。訓練棟は平成31年夏頃に着手で約4ヶ月後に完成の計画。外構は平成31年の夏頃に着手し約7ヶ月から10ヶ月後に完成予定という計画でそれぞれ進められます。

年度末、人事異動の直後でもあり、議会を終えてからは年に一度の懇親の場が設けられ、お互いの労をねぎらい合いながら語り合うひとときを過ごしました。日中午前の村は本降りの雨。帰宅の夜中には新雪で、わだち以外の道路面は真っ白に。

暑さ寒さは彼岸までですが、その言葉は列島真ん中あたりまでになら通用する表しかたか。春は確かに来ましたが、豪雪の村はまだまだ寒い日が続きます。ただ、今年は開花が早いとされた関東圏の桜の花びらにもおととい雪が降りました。気団の流れが尋常ではない年となる、これはその前触れなのでしょうか。

3月議会を終える

村議会の3月定例会議は20日に終わりました。議会は本会議をいったん休会とし散会され、これから6月までは常任委員会活動が続きます。

議会事務局提供

当初予算案などをはじめとする議案はすべて可決されましたが、予算案の審査を行った予算特別委員会の委員長報告では、「財政運営上、さらなる事務事業の見直しと経費の縮減、財源の確保等に努力し、持続可能な財政運営に向け、先を見据えた行財政改革の推進に取り組んでいただきたい」などを旨とする言葉が「委員会の総意」としてのべられました。将来にわたって持続可能な村づくりに心がけることの重要性、予算案を可決した委員会としての、これは村政に責任を負う強い意志の表明と受けとめました。

村の政治に関わるものの一人として私も常々おもうのは、今現在の村とともに、中長期の将来にわたる村においても、村に誇りをもてる村民(言葉にあらわして誇りを語るかどうかは別にして)がいっぱいおられるということが念願であり、理想であり、よろこびでもあります。「そのために、執行当局側も議会も、お互いの役割をしっかり果たすために、新年度にむけて力を尽くし合いたいもの」と、平成30年度をむかえるにあたって意を堅め直しているところです。

▼きのうは彼岸の中日。親の仏前にお参りで訪れた親族たちへおつきあいをしたり、数日前突然断水した自家用水道の破損箇所点検と修理に追われたりで、あっという間に一日は過ぎました。

その自家用水道の点検見回りに出かけようと歩き始めたら、この間ノウサギが伏せていた同じ柴木の下にまたノウサギが伏せていました。その前々日の点検時もまったく同じ所に伏せていましたから、これが同じ柴木の下で3度目のご対面です。

 

狩猟時代もふくめ私の長い山歩きのなかでも、同じ柴木の下におそらく同じノウサギが3度も短期間に繰り返し「ねぐら」をとっていたのを見るのははじめてのこと。家からわずか200㍍ばかり離れた斜面でのことですが、このノウサギは、よほどこの地形と柴の下がお気に入りのようです。

私と顔を合わせる度に逃げ走らなければなければならないムコウさんは「休んだ気がしない」ときっと思っているでしょう。でも、この様子だとここから離れそうもないので、まだ雪のあるうちは4度目、5度目のご対面もできそうです。

肥える土を運ぶ大ヒラ(大底雪崩)

先日ご紹介した、わが集落真向かい山の斜面、通称「キノギッピラ」に毎年見られるヒラ(底雪崩)。豪雪の今年は例年に増して雪崩の規模が大きく、日曜日にその雪崩跡そばに近寄ってみて、大雪崩のすさまじさをあらためて感じました。

雪崩の3月になると、私の記憶は今から50数年前にさかのぼります。沼又沢のブナ材伐り出しで山小屋に泊まる作業員たちへ食材などを背負い運ぶ女たちの列に混じって山へ歩いた昔のことです。馬場から沼又オドヂ(大栃)やススコヤ(すずこや)の山小屋があった沢までの間に大きな雪崩の落ちる箇所が何ヵ所かありました。

そのうちの一箇所はとくに大雪崩で、雪崩跡のデコボコの雪の間をあっちに曲がり、こっちに曲がりしながら女たちと雪崩を越え歩いた当時を想います。

さて、キノギッピラのこの大雪崩もふくめてヒラは、同じ雪崩でもワス(表層雪崩)とちがい雪とともに大量の土肌を削り取って滑り落ちます。雪崩の落ち止まるそこは肥えた成分を含む土がいっぱい溜まる箇所でもあり、アエコやホンナなどとりわけ良質の山菜が植生する場所ともなります。なにしろ、何百年、何千年と土が溜まり続けるわけですから。「いい山菜を採るなら土が多く落ちる雪崩の下へ行け」なのです。ただし、そこは、常に落石や、残っていれば落雪の危険もあるので厳重注意の箇所ではあります。

ヒラの落ちる下方には清水が湧き出ていて、ミズバショウも小さな新芽をのぞかせるようになりました。成瀬川も連日淡い雪解けの笹濁り色となり、流れの勢いを日ごとに増しています。

童といっしょに大きなヤマメを捕れる小川も、一つ、二つ、三つと渕にかぶさっている雪も次々になくなり、まもなく渓流釣りの足跡がのこされはじめるシーズンとなります。(写真のヤマメはその小川での昨年夏のこと)

 

猛威をふるうインフルエンザ

9日は小学校の卒業式。村内4つの小学校が統合されて後の新生の東小17期目の卒業生は19名。

心配されたようにインフルエンザの猛威は続き、式典に出ることができない卒業生もいて、これにはほんとに気の毒でした。式典には出席、卒業証書を授与されてすぐに退席の卒業生もほかにいて、インフルのために後の祝賀会にも出られなくなった卒業生とそのご家族もおられました。

在校生も、1年と4年は学年閉鎖。閉鎖こそないもののほかのクラスにも幾人か罹患の子がおり、送る子たちも、我々にとってこんなことはあまり体験がないほどの少なさでした。

せっかくのお祝いの式典と祝賀会に出られなかったみなさんのお気持ちを察したところです。この時期のインフルエンザには困ったものですね。

猛烈ウィルスのためにそういう異例なもとでの卒業式でしたが、式典そのものは、いつものように感動いっぱいにすすめられました。卒業生たちの学校生活への思いと、夢や目標を語る言葉、在校生たちの送ることば、全員による「心の中にきらめいて」の歌、そして「さようなら」の言葉に、なんとも頼もしい、子たちの立派な成長の姿を感じました。

▼日曜日の午前は、「村の自然に触れたい」と、娘の友人で秋田市からかけつけた若い女性の方をご案内して家の近くを散策。清水の湧き場所でセモリ(トウホクサンショウウオ)やカエルを見たり、バッケ、ノゼリ、クレソンを摘んだりで過ごしていただきました。

こういう散策がてらに楽しめる里山も村の貴重な資源。これからの堅雪シーズンは、里山からちょっとしたブナの森の深山まで、簡単な雪上歩きで楽しめるところが村にはいっぱい。春先のこの「資源」も村を訪れる方々を増やせる「村ならではの大切な宝」と私は思います。

この冬、ウン十年来のおつきあいの宮城県のキノコ同好会のS氏からご連絡があり、同好会のみなさんが大勢で秋、10月に村を訪れブランに泊まっていただく予定にもなっています。みなさんには何十年か前にも一度泊まっていただいております。そんなことからも、もっと季節ごとの「豊かな村の資源」に目を注ぎ、観光や交流に結びつけていきたいものです。

▼午後は猟友会のノウサギ巻き狩りに招待をいただき、鍋をかこむ夕方の宴会に参加。狩りへの参加者も年を経るごとに少なくなっていますが、今シーズンの猟のこと、クマのこと、新たな話題として取り上げられるようになった村でのシカの出没、湯沢雄勝管内での幾頭ものイノシシ捕獲のことなどが語り合われていました。

花も咲き、虫も飛び

豪雪の村でいきる春をむかえた人々は、「ゆぎは、降るように、ける。(雪は、降るように、消える。)」とよく言います。

豪雪というだけあって冬は、1日か2日の間だけでまれに50㌢~1㍍も降り積もることがある雪ですが、それと同じように、春になればたちまちのうちに雪が少なくなる雪解けの早さを「降るように、ける」と言い表してきたのです。

その降るように解け始めた雪。山や里の斜面やヘギ(堰・用水路)の所々で土肌が見え始めたと思ったら、早速、セキショウやフクジュソウ、バッケ、ギシギシ、ウドザグ(ハナウドの仲間)、ヒロッコ(ノビルの仲間)などが顔を出し、または花を見せています。

常緑のセキショウをのぞけばみんな雪の下ですでに新芽を出していて、雪解けとともに陽射しを浴び萌葱色となり、あるいは蕾をひろげたのでしょう。フクジュソウには、野生のニホンミツバチなのか、早くも雪の上を飛来し蜜をもとめて花から花への飛び移りを繰り返していました。

明後日は彼岸の入り。春の花も咲きはじめ春の虫も動き出しました。豪雪のむらも、冬とはいよいよサヨウナラの3月半ばです。

▼きのうは、広域市町村圏組合の幹部職員のみなさんにお出でいただき、組合の3月定例議会に提出の議案説明を受けました。

午後は、厚生連雄勝中央病院の運営委員会へ。運営の最大課題は医師確保の安定化。万全な医療体制を築くことは地方の振興発展に欠かせぬ政治の要でもあります。課題解決のためには医療機関の固有の努力がもとめられることはもちろんですが、国の医療政策の根本見直しがやはり大前提としてなければ、です。われわれ議会は、そういう面への努力をひきつづき傾けたいと思います。

豪雪の村で最深積雪期にシカ生息

議会の予算委員会を午前に終えたきのう、「この春は、大日向山のクマに会いに行こうか」と思っていて、午後、雪の様子を下見に成瀬砕石場のある車道終点に向かいました。

実は、ここの現場で、去る2月28日にシカが突然姿を見せ、現場事務所ではたらいていたTさんがそのシカをカメラにおさめていたことをこの月初めにお聞きしていました。

写真に写っていたのは立派なニホンジカのオスで、事務所すぐ前の除雪した広場と車道を歩いている姿です。(掲載のシカが、Tさん撮影のそのオスジカの写真)2018年2月28日、午後2:02分に撮影されています。近年ならなおのこと、江戸以降もふくめてといってもよいかもしれませんが、わが村でニホンジカの生息が確認されたという「記録」はないと思うのですが、どうでしょうか。はるか昔の時代なら棲息していたでしょうが。

なるせ砕石場 T氏提供

しかも今度の確認は、雪のない夏期ならまだしも、豪雪の年の最深積雪期の2月末の生息。これは、狩猟などを通じて野の生きものたちをみてきた私にとっても小さくない驚き。

岩手県を主にして隣県からのシカの侵入がジワリジワリと増えていた秋田県南部でしたから、「いつかは、村への侵入(復興?)も」とは思っていました。ただ「同じ雪の地方でも、豪雪の村の、厳冬、しかも最深積雪期の山でニホンジカが冬を越すことはないだろう」と決めつけていたこちらの認識は、今度の生息確認で正しくないことがわかりました。

国内有数、世界有数の豪雪の地でも、ニホンジカは冬を越して生きていけることがわかりました。先年、厳冬期の雄勝でイノシシが捕獲されたように、豪雪の土地では生きることがむずかしいだろうと思われていた動物たちの姿が村でも確認されるようになったのですから、彼らの分布域が我々の思案をこえる規模で広がっていることは確かのようです。

ただし、クマとちがい、豪雪の村では半年間の雪深い季節がありますから、狩猟獣(場合によっては有害獣)とされているシカやイノシシが大きく繁殖できるということはほとんどないはず。雪の浅い地方とちがい、雪が深ければいとも簡単に捕獲されますから。しかし、最大の「天敵」その人間の手がもし及ばなくなれば、どうなるかはわかりません。

今回生息が確認されたのはオス一頭。それは「まだ、採石場周辺に生息しているようで、いまも足跡があるようだ」とTさんは語ります。ほかに、メスの群れがいるのかどうかわかりませんが、村で一個体でも発見されたということは、村より雪の少ない横手市や湯沢市周辺などでは、群れで生息しているという可能性はかなり大きいとみてもよさそうです。

同じ県内でも雪の量がはるかに少ない県央部や沿岸地方、県北部では、シカが猛烈に増え続けている岩手など東北各地と雪ということでは自然条件がほとんど同じです。秋田でもそれら雪の少ない地区では、「シカやイノシシの被害が深刻」という事態も近い将来は充分に予測されるのでは、そんなことを思わせられた、今回の豪雪の村のシカ生息でした。

 「ああ、ええなぁ!この景色」(その3)

空模様の変化にあわせた尾根と沢への上がり下りを終え、今度は帰りの道で尾根を北へ移ります。そこで空の青がさらに増してきたのでまた氷雪をまとう小さなブナたちにカメラを向け、下山を開始です。

途中、ウルヰのワス(表層雪崩)跡にもカメラを向けました。カントリーパークにもスキー場ゲレンデのリフト最終地点から圧雪車が下りていて、従業員のみなさんが施設を覆っている雪寄せ作業などにはたらく様子を見下ろしました。

村側のブナの林では、昨年はブナの実が大不作だったのに、例外のように実を結んだと思われる木もまれにあり、その木をみのがさずに登り実を食べたクマの食事跡が二箇所ほどにありました。太い枝のことごとくをへし折った跡と、新しい爪痕が無数につけられています。爪跡の大きさからしてどうやらこれは親子連れのクマのようです。

車に到着は2時頃。帰宅してすぐ、成瀬川の岸辺に向かい、この日半日滞在していた県境の尾根を下からまた眺めました。晴天なのに気温は夕方まで上がらず、尾根の木々をまとう白い輝きは朝からそのまんまの美しさでした。

それからウルヰの雪崩場所に向かい、ワス(表層雪崩)の跡を確認しました。少しの新雪量でもこの規模の雪崩ですから、新雪がもっと多かった時を想定もしました。

これから先、道路の春山除雪や栗駒山荘開業準備で人々の山行きが始まります。春先の新雪ドカ雪によるワスにも、そして何よりも豪雪の年ですからヒラ(底雪崩)には要特別警戒です。おととい記したように、ひび割れ前兆無しで、いっきに滑り落ちるヒラ(底雪崩)
も山では時々みかけますから、なおさらです。

▼きのうは予算特別委員会が開かれ、補正予算案と、一般会計当初予算案までの審査が行われました。

議会事務局提供

小学校でまたインフルエンザへの罹患児童が増え始め、1年生と4年生が学年閉鎖になる事態ということをお聞きしました。16日は待ちに待った卒業式。これ以上流行が広まらなければよいのですが、なんともこれは心配です。

「ああ、ええなぁ!この景色」(その2)

ここの県境尾根は特別に北西の風が強いためでしょう、背高の木々の植生が途切れていて、胆沢川上流部のほぼ全容と、西には横手盆地南部と村の一部がよくのぞめる所です。

昼近くなったら、主峰のタゲ(焼石岳)も含め連峰全体の姿が晴れ空に浮かびました。

尾根筋に大きなダシ(雪庇)をつくる強烈な季節風があたるため、ここの雪原はカチンカチンに凍っていて、カンジキの木製の爪では歯止めがききません。平坦な尾根だからと油断していたら転倒してしまいました。その氷の雪原をうむ強風は、雪とブナの枝にも見事な結晶と造形をつくり、それが陽射しや空の青に映えるとき、その景色はまるでブナの木に咲いた「雪の花」のように見えます。

この尾根に来ると決まってむかしを思います。子供の頃や若い頃、春から夏、そして秋、冬と、エシャガイチゴ(胆沢川イチゴ・ノウゴウイチゴのこと)を摘み、イワナやカジカを捕り、山菜(主にフキやタケノコ)を採り、切り株栽培のナメコ採りをしたり、ブナの伐り出しをしたり、冬山、春山歩きをした胆沢川の林や幾筋もの小沢を見下ろします。

いっぱいのキノコや山菜などを背にして、あるいは雪の上での春山伐採とソリ引きで大森沢入り口から県境の尾根にのぼった「はっひゃくやあご(八百八あご)」の峠越えの道筋を、ここに来るとみんな思い出します。この地は私にとって、少年、青年の頃の思い出がとても深く刻まれている「回想の尾根」ともいえるところです。

大森沢と胆沢川にかかる二つの橋上は、盛り上がるほどの積雪でその厚さは4㍍ほどはあるでしょうか。冬山歩きでこの橋の上を歩く時は、並の積雪の年でも「どこまでが橋か、雪か」と、橋の幅が見えずわからずで狭く感じ、渡るのに不気味でした。現場で橋の上に立ったら、豪雪の今年などその不気味さは尋常ではないでしょう。

雲の流れが速いこともあって、尾根に休んでいるとたちまちのうちに空模様が変わります。それにあわせて、青空が多くなったら岩ノ目沢に下り、また沢から上がり、またもっと青空が多くなるとまた沢に下りを繰り返しました。足腰の疲れへの心配よりも、「もっと、いい景色を」を優先、よりよい写しの対象をもとめて5回ほど尾根と沢の間の上がり下がりを続け、「ええなぁ、ええなぁ」とため息をつきながらシャッターを押しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつも申し上げるように撮影の技はまったくの未熟者を自覚しているこちら。ただ、ため息をつくほどに「ええなぁ」と感じた私の気持ちだけは、写真のいくらかでお伝えできればと思っているのですが、はたしてどうでしょうか。

▼11日の遅くなってからでしょうか、春告げのムゲの大ヒラ(向山の大底雪崩)が落ちました。目立つヒビ割れをほとんど視せないでいてのいきなりの大雪崩でした。こういうこともありますから、ほかの山々や道路沿いなどヒビ割れがない斜面でも、万全の警戒を。

巣立ちの春

9日は3月議会の本会議2日目で、一般質問が行われました。今回は佐々木正利議員一名だけによる質問。一般質問が1名のみというのは最近ではあまりなかったことです。

この後13,14日には予算特別委員会の審議が行われます。市町村の多くに共通する課題を巡っても、そして個別のわが村の政治についても、諸々の課題が山積しておりますので、特別委員会の審議にむけて議員各位の準備が入念にすすめられているでしょう。

9日の開会冒頭、東日本大震災で亡くなられた方々への追悼として黙祷を行いました。翌日の10日は東京大空襲の日で、これによる死者は10万人以上。東日本大震災の死者と行方不明者は1万8,434人。未曾有の自然災害と人災、尊い命が一瞬にして奪われる災害の恐ろしさを忘れられない日々となりました。平穏なくらしが奪われた原発事故による避難の方々の「今」にも心が痛みます。我が家では、テレビのニュースが流れる度に「普通のくらしが奪われて、ほんとうに、大変なことだ」と何度も何度も語り合っております。

▼10日は中学校の卒業式と祝賀会へ。「笑顔あふれる、まとまったクラス」ということをお聞きした今年の卒業生は21名。これまでは義務教育でしたが、これからはよりいっそう「自分から進んで学ぶ」心がけがもとめられる場に身をおくことになるみなさんです。持ち前の明るさを発揮されて、今後の大いなるご活躍を願いたいものです。

卒業生と在校生による全校合唱は、村の小中学生たちが歌詞を考え、県出身の橋本祥路先生作曲の、村をたたえる歌「ふるさとの歌~悠久の風にのせて~」。式典会場全体に響き渡る心こもる見事なハーモニーは胸にせまりました。この合唱曲はほんとにすばらしい、いつお聴きしてもいい歌ですね。インターネット、ラジオやテレビなどで全国のみなさんにお聴かせしたいほどです。

ところで、今年の卒業生の中には、村への特別な縁がまったくないなか埼玉から移住されたご両親のもと、この村で誕生となり、東成瀬中学校を卒業されたHさんがおられます。一定の人口を保つうえで村も移住や若者定住をことのほか重視していますが、今から18年前のご両親の突然移住には私も少々驚いたものですし、なによりも大歓迎、喜びでした。

豪雪の村へ移住、そして生をうけてからの10数年、ご両親と、Hさんのこの日にのぞむ心境は又格別のものがあったと思われます。すべての卒業生と保護者のみなさんおめでとう。そして、Hさんとご両親へもそういうことで格別の思いをこめて、おめでとう、です。

▼前日の卒業式よりなお穏やかで温かだった11日は、久しぶりにまとまって訪れた童たちと雪上の時を過ごしました。河川敷でいつものようにブランコ、伏流水でノゼリとクレソン摘み、雪解け水が流れ始めた成瀬川の岸辺では、生きもの好きの童が「あっ、虫いる」と小石の下や水中、泥の中からつかまえて戯れ、また、バッケの見え始めた道ばた散歩にも出かけてと、訪れた春のしるしをまた一つ、二つと確かめるひとときを過ごしました。