温故知新

焼石岳山麓への赤べご自然放牧、胆沢川上流域や南本内川流域でのブナをはじめとした国有林野や材の利活用、須川温泉からの分湯実現、そして国道342号、古道仙北道や国道397号などを通じて古くから村の人々がお世話になり村とのつながりが強かった岩手県南内陸部。とりわけ奥州市水沢と胆沢の人々とは長くからの縁があり、絆を絶やさぬ交流は仙北道などを通じて今も続いています。

その交流の歴史をたどる一つの資料を、何年か前にKさんからいただきました。資料はある写真の写しで、現本はKさん宅に所蔵されているもの。

写真は大正10年(1921年)7月30日、今から96年前に撮られたもので、当時の水澤の青年旅行隊の一行が仙北道を越えて村を訪れた際の記念撮影の様子です。

交流は、当時の県道水澤十文字線(現国道397号)の実現にむけた運動の一環だったようで、仙北道の改修、復旧、踏査や県道実現のうえで水沢側で尽力された砂金兵記氏も写真のなかにおられるようです。詳しくはKさんによる画像説明の文書の一部をご参考に。

村と水沢を結ぶ交通路実現では、こうした当時の人々の尽力を経て、昭和10年には村の誇るべき遺産として美しい村の象徴とされる「田子内橋」が大橋場に完成しています。橋竣工の年の昭和10年8月14日、水沢出身で時の首相であった斉藤実氏がその「田子内橋」を視察されています。

斉藤元首相は、その翌年、2.26事件により陸軍青年将校らによるテロルに遭い凶弾(妻といた居室で48発の機関銃弾を体に受けたとされる)で命を奪われました。軍部が台頭し、日本が暗黒と悲惨の歴史を刻んだ侵略戦争へ至る道への途上でのことです。

奥羽の峰を越えて交流と交通の礎をきずいた当時の人々の熱意が伝わる写真。温故知新、私たちは、時に歴史をふりかえり先人に学びながら新しい道を拓いてゆかねばなりません。村に生きる者にとって、お隣奥州(仙北道は胆沢下嵐江までだが、そこからは衣川、平泉に至る道とつながる)は、古の時からあまりにも学べることが多く遺されている土地でもあるのです。