人の産み出したものに絶対はないだろう

昨日は、親族の葬儀があり、ほぼ一日を横手で過ごした。

同じ仏式の葬儀でもわが家とはちがった宗派のお寺さん。それに、これはその都度感ずることだが、所や葬儀会社がちがえば、儀式のすすめ方などもまたずいぶんちがうもの。法事の席ではいつもそうだが、「宗教とはなんぞや」と、人間と宗教、日本人と宗教(仏教)に思いを寄せる一日でもあった。

わが家は、地域にある一つのお寺の壇信徒ということにごく自然になっていて、みなさんと同じように檀家としてひととおりのつとめは果たしている。父が小さな山林の事業を起こしたということもあり、家にはある程度の神棚も据えてある。仏も、神も、ごく普通に拝んではいるが、日常のそれは主に妻の役目。朝ごはんが炊けると、鈴をカラカラカラーンと鳴らし、拍手を打ち、「神様さ、まま(ご飯と水)、あげ」だ。次に香を焚きロウソクに火を灯し、鐘を鳴らし、手を合わせ「ほどけ様さ、まま(ご飯と水とお茶)、あげ」だ。妻は毎朝この動作をごく日常の生活パターンとして繰り返し、わが家の朝はスタートする。

その程度のことなので、特定の宗教を特別に信奉する国内外、世界の方々からみれば、宗教にたいして「そんな浅い心がけでいいのか」ということになるのかもしれない。しかし、宗教らしい行いをしていても、信教というにはほど遠いだろうわが家はそうである。それは、何かへの絶対崇拝でその対象を信奉するということではなく、ただ、日々の安寧を願い、先祖への感謝を込め、生活として拍手を打つ、合掌する、それだけである。神社、仏閣を訪れて礼拝するのとちょうど同じような心で。

宗教は、地球上どこでも人の世界とあまりにひろく関わりをもつ。政治の党と同じように人間社会の歴史のなかで思想信条、信教の自由をかちとるうえでの象徴ともされてきた。ただ、政党も宗教もいずれ個別の人と集団が生み出したもの、人はみな対等平等なので「己が絶対の存在」ということは、内輪では通用するかもしれぬが、他に強制しようとしてもそれは無理なこと。わが国憲法も、そういうことで「人と社会は多様だから、絶対の存在はありえない」ということを土台にしているのだろう。

己の生きる指針はきちんともつ一方で、人の産み出したものに「唯一絶対存在」はまずありえないという考えの男が暮らす一つの小さな家で、今朝も、鈴を鳴らし、鐘を打ち、妻は、日常の安寧に願いを込め手を合わせ、私も時々そのようなことをしている。人みな平等・互恵の平和な社会と世界を夢みながら。

CIMG0746-1CIMG0747-1▼昨夜、トタン屋根をたたきつけるような雨が時折降り、予想したようにしごと部屋からながめる朝の成瀬川はかなりの雪解け濁流となった。今朝はやや底冷えだが、雪(とくに山の雪)は驚くほどの早さでどんどん少なくなっている。