タケノコ採りシーズン終わる

6月を過ぎ、村のタケノコ採りは深山をふくめほぼ終わりとなりました。それはワラビ採りも同じでしょう。

このタケノコとワラビ採り、近年は、おそらく村の人々よりも村外の方が多いようで、県南地方からはもちろんですが、県外からも相当数の人々が見えられ、タケノコ採りなら山形ナンバーの車、ワラビ採りなら宮城ナンバーの車というのは、もう村では定着している光景のようです。

およそひと月の間、遠くは山形からまで村外の方々をふくめ多くのタケノコ採り人をむかえたブナの森。それも6月でまずは終わりです。これで村役場や消防団、遭難救助隊、警察、空から捜索のヘリ部隊のみなさんも「捜索出動」への備えがまずは落ち着き、一安心でしょう。

しばらくの間、クマさんの食事場所は人の声でにぎわいましたが、深山のクマさんも、雪消の遅い場所でゆっくりとタケノコやサグ(エゾニュウ)を食べているはず。栗駒や焼石の雪渓でクマの姿がよくみられるのもこの季節です。(写真は、2017年に焼石連峰・三界山麓の雪渓にいた大グマ)

さて、シーズン最もはじめに採った我が家のタケノコは、妻の手で40数本が瓶詰めにされました。先日は薪づくりのことで「煙を出すまでの作業が大変」と記しましたが、この瓶詰めもそれと同じで「出来上がるまでが大変」と、作業をそばで見ていてつくづく思います。

「水を飲む時は井戸を掘った人の苦労を思え」という言葉のように、日々のくらしでありがたく使い食べ飲んでいる多くのモノは、人々の数多の手間を積み重ねた結果であることにたまには心を寄せたいものです。

▼家周りでは今も木イチゴが熟れ続けていて、我が家では食後のデザートに時々登場しています。

梅雨末期、豪雨への備えを

きのう夕刻の短時間の豪雨のすさまじさには驚いた。

集落の基幹用水路・遠藤堰も、用水路に直交する各小沢が瞬時に増水し、水路の下を沢が通過している所をのぞき、そうでない箇所の沢からあふれた水を側溝がのみ込めず、水は道を流れ、すべて堰に入りこんだ。

このため、堰が短時間で増水し、場所によってはあふれ寸前にまで水かさが増した。尋常でない降りようなのでそれぞれ住民同士が連絡を取り合うなどして必要な対応をし、こちらも用意してあった「土嚢」を道に積むなどでかろうじて水止め措置をしたが、「豪雨には油断がならない」とあらためて思わせられた。

今朝になって集落を巡回したが、やはり側溝が水を処理仕切れない小沢では、道に水があふれた箇所がほかにもあった。田んぼ用水路からの溢水もみられた。集落の真東に見える焼石連峰の一座となる「三界山」の裾近くにある「鎧の滝」も、きのう夕刻より水量がだいぶ落ちただろうが増水でその姿がくっきりと見えた。今朝の成瀬川と合居川合流点もかなり水が引いてこんな状態。

土は雨をたっぷり吸って飽和状態。これからも雨予報が続く。気象情報をよくとらえながら、お互い必要な備えを怠りなくとろう。梅雨末期は村でも洪水の歴史が多い。昭和22年の村と県の歴史にのこる大洪水もそれは7月23日だった。昭和44年も、昭和47年も、県南を襲った豪雨は7月だった。

ハート型の庭石と「山の神木(やまのがみき)」

私の先輩や同級生、同窓生には農業の技に秀でている方々がたくさんおり、先輩のAさんもそのお一人。

なにしろAさんは、自分の田んぼで獲れたお米から種を取り、その種を作付けして稲作を営んでいるのです。少し前までならどこの農家でもごく当たり前の水稲種の自家採取。今はなかなかそこまで徹底できる方は少ないでしょう。

実は、そのAさんの種を取る田んぼは自宅のすぐ庭先にあり、そこには当然ながらいくつかの庭石が置かれ庭木が植えられています。

その庭石と庭木にご注目。庭石のひとつが、よく見ると「ハート型」をしているではありませんか。それに庭木のヤマボウシ。それは、幹をよく見ると「山の神木(やまのがみき)」と昔から村の杣人たちが崇めて呼んできた木と同じなのです。

「山の神木」とは、いったん幹から出た枝が何かの作用でまた幹の中に取り込まれてしまったのか、原因はわかりませんが、とにかく一本の幹が途中で二本に分かれ、またくっついて一本になった木です。自然の林の中でも稀にこういう木を見かけることがあります。樹木の素材生産業を営んでいた我が家では、国の払い下げや民間から求めた林などで稀にこういう幹があったときは、それを拝んで、たいがいは伐らずにそのまま残したものです。

めずらしく稲の種を取るためだけの小さな圃場を庭先に今も確保し、それを借景にハートの庭石と、杣人が崇めてきた山神にちなむ庭木がある。そこは、なんとも時がゆったりと流れているようで、ほんのりとした愛と尊さが置かれている庭なのです。

▼おとといは議会運営委員会の開催。きのうは田んぼ雑草の2度目のビッキの鼻通し(クログワイ)取りへ。

議会運営委員会を開いたのは、6月定例会の運営全体を振り返り、その内容を今後の議会運営や常任委員会活動をはじめ議会全体の活動に活かすためで、定例会を終えてすぐの開催というのははじめての試みです。

運営委員会は、議会活動の経験の長い委員長、副議長、そして、2つある常任委員会の両委員長、広報対策特別委員長の5人で構成されています。議会運営はもちろんですが、議会活動全体についても方針や行動計画の軸となる方々ですので、定例会議を終えた直後にこの場でまず振り返りを行い、運営上の課題や今後の活動などを協議し合いました。

田んぼの雑草取りは、きりがないのでこれでまずは打ち止め。茎の分けつ状態を見て、まもなく田んぼの水をいったん抜く「中干し」の時期へと向かい、その直後には水はけをよくするための溝切り仕事、半ば過ぎには7月の畦草刈りが待っています。

思い出の男鹿・加茂青砂の海

このほど男鹿市を訪れる機会がありました。途中、アジサイで名の通るお寺さんに立ち寄り、「ここまで来たなら」と加茂青砂の海岸に下りて久しぶりに海の水に触れてきました。

加茂青砂を訪れるのは何十年ぶりのこと。そばはすべて切り立つ崖の海岸のなかで、ここだけはめずらしく砂利(丸い石粒)の浜で名の通るところ。その砂利が青いので「青砂」という地名となったのでしょうか。名のごとく、とにかく水清らかで石が美しい浜です。

今から半世紀ほど前のこと。仕事のうえでの先輩に、ちょうどこの浜の漁師の家出身の方がおられました。その先輩の実家がこの浜で漁をしながら民宿を営んでいたことから誘われ始め、以後、何度もここへ通ったものです。今ならそんなことはできないでしょうが、地元の漁師さんの小舟に乗せてもらい、少し沖に出て岩礁に棲みつくサザエやカキ、アワビなどを潜って獲る様子を船上から見学し、時にはその方の指導で10㍍近くも潜水してサザエや岩に群棲しているカキなどを見る体験をさせてもらったことがあります。

夜は、岸に寄せた流木を集めて火を焚き、買い求めた獲りたてのサザエやカキ、ニタリガイ?、魚などをその熾火で焼き、食べ、熱く語り、呑み、歌ったのがこの浜です。

その後も、仕事仲間や友人達と、あるいはそれぞれ子ども達を連れ合って、時には家族だけでと、男鹿の温泉や民宿をめざしてよく通い続けた加茂青砂。この磯浜は、若い頃ともに過ごした方々や家族との思い出がいっぱい詰まっている海岸です。

その浜が、日本海中部地震の津波により、遠足に来ていた旧合川南小学校4・5年生たち13人の命を奪う場になったことは今でもほんとうに信じられず無念でなりません。あの地震の日は、ちょうど私の身内が秋田大学付属病院で心臓手術をしていた時で、手術の真っ最中に地震が発生、手術室そばで私たちが待っていた時に病院が大きく揺れ、まわりの木々や電線などの揺れる様子も目に入りました。手術は続行され無事終わりました。

後に、深刻・悲惨な被害状況が次々と報道され、とくに加茂青砂の状況が克明に何度も何度もテレビで報道され「あの、加茂青砂で」と、その海岸と防波堤をよく知っていただけに「何でこんなことに」との思いが途切れずに湧いてきたことを鮮明に思い起こします。

それから今年で37年。浜には、命を奪われた13人の子たちの霊を鎮め慰める碑が建立されています。この日はその碑に手を合わせご冥福をお祈りしてきました。私にとっての加茂青砂は、およそ半世紀近く前の青春、友人、家族、仕事仲間との楽しい思い出がいっぱい積もっている場であるとともに、そういう悲しい歴史を振り返る場でもあるのです。

この日の海はよく凪いで、磯には小さな貝たちが動いていました。津波の日の児童たちもおだやかできれいな磯浜と貝を目にし心が躍ったはず。いつか、童たちを連れてここを訪れ、遠い日のこの美しい砂利浜の思い出と、津波のことを語り聞かせようと思っています。

2日続けて共同の草刈り作業

土曜日は田んぼ用水路の共同草刈り、日曜日は幹線生活用水路や村管理の公園、国道沿いのいっせい草刈りと、それぞれ朝5時からの共同作業に繰り出しました。

ほとんどの集落や水利組合、そして個々の農家がこの季節に道路や水路、畦の草刈りを行いますので、村全体が一時の間すっきりした感じになります。

▼度々紹介しているモミジイチゴは熟れ続けていて。作業の合間にも熟れ盛りの実をいっぱいつけて見えます。今年は、ほんとに実のつきがよいようです。

それに続いて里のクマイチゴの仲間も熟れ始め、いよいよ甘さ真っ盛りのカンゴの実(桑の実)をふくめ、山里は初夏の木の実をいっぱいいただける季節入りです。

桑の葉っぱには、小さなジャゴムシ・アネコムシ(カメムシ)が集団で羽化したのでしょうか、まとまって留まっているのが目に入りました。クマさんだけでなくカメムシもこの実が大好き。われわれがガキの頃は、カンゴの実についているカメムシをよく見ないで口に入れ噛みつぶしてしまい、口中にあの苦々しい体液がよくひろがったもの。「赤とんぼ」に叙情豊かに歌われ当時を思い出すのも桑の実、ジャゴムシを噛んだ思い出が口と記憶に刻まれているのも桑の実です。

梅雨時なので、刈り作業をする草木には時々カタツムリさんも見られます。これ、昔は、せっせと集めて塩を振り壺焼きのようにしておいしくごちそうになったものですが、今では「カタツムリを、あぶって食べる」などと言ったら、童たちは「エーッ」とびっくりしてしまいます。フランス料理では、養殖カタツムリが人気のようですが、それはどんな味がするのでしょうね。

▼朝はこうして共同作業、日中は薪割り作業で、やっと5立方㍍の薪を割り終えました。割り終えたら、今度は野積みの作業に入ります。

先日、私がずっと前から視つづけている「イタリアの小さな村」というテレビ番組で、薪づくりをしているある小さな村の住人が、生前の父親の言葉を引きながら「薪は、煙を出すまで、なかなか大変。いつか、(おまえにも)それをわかる時がくる」という旨の言葉を亡き父にいわれたことを語っておりました。

薪は、ほんと「煙を出すまで」なかなか手間がかかります。世界のどこでも、みんな、おんなじことを考え感じているものだと思い、笑いながら「んだ、んだ(そうだ、そうだ)」とうなづいてしまいました。

例年とはちがう集団検診

村の集団検診がはじまっています。

きのうはわが集落の検診日。世帯数200を少し越える集落ですが、いつもの年だと集落全体が同じ日に行われ、さらにほかの集落の方々も都合によって加わるので人数が多く時間もかかります。

しかし、きのうは、新型コロナ禍のなかでの検診なので、集落を2つに分けて別々の日に検診が行われ、さらにほかの集落の方々は受診できないという枠組を決めて実施されました。受付時間も地区によって分けられ、検診会場のなかも、検診部門ごとに部屋ができるだけ細分化されていました。いずれも、コロナ予防対応で3密を避けるための工夫のようです。おかげでとても円滑に検診は終わりました。

こちらの体は、腰や膝をはじめ衰えガタがきていることは自覚していますが、今のところ食欲は旺盛で血圧も常に正常。医者に通うほどの痛みなど自覚症状はなく、たまに歯石除去で通う歯医者さんは半ば冗談で「歯だけでみれば、100まで長生きできる」という旨を笑いながら語ってくれます。常時服薬はもちろん何十年も前から無しです。ピロリ菌もすでに除去しています。ですが、果たして今年はどんな検査結果が送られてくるか。

検診会場では、若い頃に横手で仕事をしていた当時お世話になった方が偶然二人もおられました。互いにマスク姿ですからよくはわからなかったのですが、名前を書いたこちらの受診票を見て「オッ、あら、久しぶり」にはじまり挨拶を交わし合うひとときも。世の中、いつ、どこで、どんな方との出会いがあるかわからないものですね。

▼ところで、全国的に集団検診が行われていて、ほとんどの受診者が検査に必要な血液の採取をしてもらいます。その血液を、新型コロナの感染有無(抗体検査でしたか?)を調べることと結びつけたら、全国的な感染状況の把握ができると素人には思えるのですが、なぜこういう機会にそういうことが活かされないのでしょうか。結果公表の可否や方法、内容とかは別に考慮するとしても、今後のコロナ対策のうえでも集団検診での血液検査を活用したほうがよいと思うのですが、なにか特別に不都合なことがあるのでしょうか。

▼里山で木イチゴや桑の実が熟れ始める頃は、県南の湯沢や横手(十文字、増田)でさくらんぼの女王様ともいえる美味さピカイチの「佐藤錦」も収穫真っ盛りとなります。

贈答用として買い求めることの多いさくらんぼ。梅雨入りの頃からしばらくの間、秋田県南特産の味覚が都会などに向けて運ばれ続けるでしょう。

都市近郊農業を営んでいた若い頃お世話になった相模原市のSさん宅からは、初夏の定期便トウモロコシが今年も贈り届けられました。南から北へ、北から南へと、それぞれの地で獲れた特産の贈り物が往き来する梅雨時の列島です。

岡山さんから新著届く

先日この欄でご紹介した我が家の隣ご出身で、現在は名古屋市に住んでおられる岡山ミサ子さんが、5月に新著を出されました。

医療や介護、とくに看護・介護職に従事される方々むけの教本のような著書ですが、伝えたいと思われる内容は様々な職場や生活にも通ずるもので、円滑な人間関係を保つのに参考となる啓発書ともいえるものです。岡山さんは、愛知自殺防止センターの電話相談員も長くつとめられており、その体験を通じて心と命のつながりについての洞察にも注目される内容をのべております。

著書は、岡山さんの健筆ぶりがひしと伝わる内容です。村ご出身の多くの方々が首都圏をはじめ全国各地で活躍されております。この機会に、岡山さんをふくめみなさんのご活躍にあらためて敬意と感謝をあらわし、さらなる頑張りを願うものです。

カンゴ(桑の実)も黒く

田んぼ見回りに朝4時半頃出かけますが、6月に入ってから今朝までほぼ毎朝のように「キョロロロロ~ン」とアカショウビンの鳴き声が聞こえます。先日などは自宅すぐ脇の小さな社の林からも鳴き声が聞こえ、「朱い(火の鳥)をとらえたい」と急いでカメラを取り出し駆け寄りましたが、「声は聞こえど姿は見えず」です。

そんな季節入りのなかで、きのうは木イチゴ、今日はカンゴ(桑の実)の熟れ便りです。

真夏日のような晴天が続いているためか、木の実の熟れる進みが早く、モミジイチゴも桑の実も、たった一日経つだけで「もう、こんなに」と思うほど熟した実をたくさんつけています。

きのうは田んぼの草取りをひとまず終え(土用干しの水抜き前には、もう一度ビッキの鼻通し取りを行います)、甘酸っぱい木の実を摘み取って口にふくみ一休みです。

人里の桑の実が熟れ始めると、それに喜んで集まるのはクマ公たち。彼らはこの実が大好きです。これからは、散歩やジョギング、山菜採り、農作業、草刈りなどで藪の近くを通る時に桑の実が多くあるところは要注意。とくに早朝や夕方はクマ公たちも動きが活発ですから、声をあげたり、ラジオを鳴らすなど念入りな備えが必要です。

野イチゴ熟れる

田植えからほぼ一月も経つと、水稲は生長の勢いを増し株も増えます。そうなると、田んぼはだんだんと水面が見えにくくなり緑がいっそう深くなります。

稲作農家は、穂が出そろい傾き始める8月の田んぼもめんこい(可愛い)ですが、同じように、株が勢いを増してくる梅雨入りの頃からの深緑の田んぼもめんこく(可愛く)なるものです。

ちょうどその田んぼがめんこくなりはじめる夏至の頃に熟れるのがモミジイチゴです。里山の木イチゴのなかでもっとも早く熟れるのがモミジイチゴ。我が家田んぼわきの道沿いにはイチゴの木がならんであり、どことなく気品のある甘~い実がいっぱい熟れ始めています。今年は花の着きが多かったので実も多く生るだろうと期待した通りで、ここ数年の間では最も多くの稔りとなっています。

イチゴのそばではアザミの花も咲き始め、ナルコユリの仲間も可愛い花を連なりで咲かせ、クワの実も熟れ出しています。これからは、亜高山帯のエシャガエヂゴ(胆沢川イチゴ・ノウゴウイチゴのこと)が熟れ、続いてやはり亜高山帯のエゾノクサイチゴ、深山のクマイチゴ、里のバライチゴ(ナワシロイチゴ)、モヂエヂゴ(餅イチゴ・エビカライチゴのこと)と、野でも草木の実の熟し続ける季節入りです。

ビッキの鼻通し取り

過ぎた週末~日曜は、燃料用の薪割り作業や、田んぼの雑草「ビッキの鼻通し(クログワイ)」取りをはじめました。

田植え直後の除草剤散布でも効果のないクログワイは、害虫のカメムシとともに我が家の稲作りの最強の敵。この雑草駆除ではこれから除草剤を散布する方法がもっとも効果があるようです。でも、我が家は「春以降は除草剤を使わぬ」が方針。手作業でこの雑草を毎年抜き取り続けています。

薪割は3年ほど前から機械割りですから、時代劇のようにマサカリを振り下ろすことはなくなりました。でもその代わりにかがめる腰はずいぶん痛みます。草取りはそれよりなお腰の痛いしごとで、これを何日も続けてやった昔をしのびながらの作業となります。昔の草取りは、私の体験でいえば田んぼ仕事のなかでももっともつらく嫌な仕事でした。腰が痛む、手首が痛む、指が痛む、眼が痛むの四重苦のその作業を知るのは、我々の世代あたりが境目でしょうか。

そういうつらい作業だったので、家々が作業を手伝い合う「結いっこ」があり、その共同作業時にはひとつの楽しみもありました。それは、作業をする方の中にとりわけ話題が豊富の方、あるいは話術に長けた方が必ずおられて、その方の漫談のような語りや、政治などを風刺した話、男女や夫婦のことを脚色した話がなんともおもしろく、愉快で、そのおかげで、つらい「痛み」が一時の間どこかに失せ、あるいは和らいだりしたものです。草取り仕事の田んぼに時折聞こえる男や女たちの笑い声。私のビッキの鼻通し取りは、そういう当時をしのぶ作業の日でもあります。

▼そんな作業の合間に、「終わり初モノ」のタケノコを食べたくなり夕刻近くなってから1時間ほどブナの森へ出かけました。

ブナの森では、まだヒメアオキの実が真っ赤っかで健在。マイズルソウ(舞鶴草)が花盛りとなり、そばのブナの幹にはにぎやかな鳴き声が聞こえるエゾハルゼミでしょうか、脱け殻があちこちに。

森の地面には、「これが、植物?」とみんなに不思議がられるギンリョウソウ(銀竜草)がいっせいに顔を出し始めました。