戦争の過ちを繰り返さぬために

ためていた書類などの整理をしながら、一年でもっとも読書の時間がとれる日々をも過ごしています。そのためにいくらかの本の買いだめもしているのですが、とくに目を通しているのは一度か二度読んでいて、「さらに、もう一度」と、繰り返し手がのびる著書です。

先日、NHKBSテレビは、第二次世界大戦当時、中国大陸にあった旧日本軍731部隊の特集番組を報じました。内容は、戦争のなかで捕らえた侵略地の人々に対する同部隊の「様々な人体実験」について、「悪魔の行為」ともいえる非道の事実を知らせるものです。

私は、人体実験の対象にされた「マルタ」とよばれた人々の無念さへの情とともに、731部隊の幹部の方(軍医を含む)が、再生された裁判の録音テープのなかで、自らが冒した非道の実験について涙を見せ痛恨の反省をする、人としてのあるべき本来の姿に胸がしめつけられました。部隊のうち幹部の多くは、戦後の国際裁判でも罪が問われず、国公立大学医学部等の教授や薬剤会社への職務につき戦後を生きたことを放送は伝えました。

実は、それとはかなりちがいますが、あの戦中、満州への開拓移民などが全国から募られたという歴史がわが国にはあります。満州へはわが村からもむかっています。敗戦時にはこの移民のみなさんが大変な状況におかれ、わが湯沢雄勝地方でも多くの方々が犠牲(集団自決もふくめ)になった惨状が毎年報道されます。

この移民策でやはり多数の人々を満州へ送り出した当時の長野県。そこの旧河野村(現豊岡村)村長・胡桃澤盛氏は、満州へ多くの村民を送り出し、その方々の72人が終戦の混乱の中で集団自決に追い込まれたことへの自責の念から、終戦の翌年、46歳で自死しています。わたしがこのことを知ったのは「それでも日本人は「戦争を選んだ」東大大学院教授加藤陽子著、新潮文庫」によってですが、故胡桃沢氏は、終戦直後の11月の日記で「何故に過去の日本は自国の敗けた歴史を真実のまゝに伝える事を為さなかったか」と記していることを加藤教授は著書のなかでとりあげています。この旧河野村のこと、胡桃澤氏のことが、明後日10日の日本放送テレビ「決壊」の題で10時半から放映されます。たまたま同じ日のNHKBS1でも、2時から「731部隊」が再放送されます。

戦争と人間。人間と権力争い。日本が内外で冒した大戦時の罪(治安維持法も含む)だけではなく、ヒトラーのドイツ、ベトナムや広島・長崎でのアメリカの残虐、旧ソ連や中国によるアフガンやベトナム侵攻、スターリン、毛沢東、ポルポト政権の幾百万人が犠牲となった大粛正も、みな、人間社会がうんだ出来事です。なぜ、社会は、幾度もの戦争、粛正、残虐をとめられなかったのか、止められなかったどころか、なぜ戦争や粛正に高揚したのか。未来社会を展望するうえでも、歴史の事実をよくとらえねばならず、それでも日本人は「戦争を選んだ」の前述の著書をまた取り出しました。それと、あのヒトラーが実は圧倒的に支持された歴史がドイツにはあり、そういうなかでの反ナチの運動を書いた「ヒトラーに抵抗した人々(對島達雄著・中公新書)」の著書をこれもまた取り出しました。みな、戦争と粛正の「なぜ」を知り、過ちをおかさない社会になってほしいためにです。

陳情の方々へ対応

春闘の時期ということもあってでしょうが、先に県労連などの方々から議会に届いていた陳情についてきのう役場への説明ご訪問があり、内容をお聞きしました。

陳情のみなさんは、地方と大都市部の最低賃金には時給で200円近くも差があるのに、生計費ではほとんど違いがないという現状を引き出した調査資料を前にして、最低賃金の改善必要を力説されました。

全労連という労働組合の全国組織がおこなった、全国の25歳単身者の生計費資産調査というのがその資料です。それによれば、秋田市は最低賃金額が2017年で738円、大阪府堺市はそれが909円、ところが、秋田市の月額最低生計費は約21万7千円で、堺市は約21万1千円という調査数字がはじきだされています。

「賃金には大きな格差があるのに、生計費はほとんど同じ」というのがこの調査にもとずく説明の論拠で「だから、最低賃金の差をなくして」が主張のようです。陳情の方々は、地方の賃金引き上げは中小企業経営者の方々への国による支援策があわせてとられることが必要と語り、とりわけ中小業者の社会保険料事業主負担への支援や税の減免支援策、そして大企業と中小企業間の地位の改善について法整備なども必要と語りました。

人がくらす上で指標のカナメとなる賃金。全体としての生計費が地方も大都市も同じならば、賃金の高い方へ労働力はむかう、これは必定でしょう。一極集中を止め、地方の創生を本気ではかるのであれば、賃金の改善はもちろん、地方中小企業への国による特別の支援策が必要でしょう。これは、人類が築きあげ到達している「資本の論理」を越えた、新しい資本主義の考えにもとずく国策がもとめられているということかもしれません。

参考のために、前記の調査資料を写真にして載せてみました。青年のみなさん、自分の現状と比べてみて、いかがですか。

タッチラの木の皮をみて

むかし、ノウサギ猟で雪の季節の冬山を歩けば、待ち役、追い役を繰り返し、一日に3万歩ほどはおそらく歩いたでしょう。所と季節によっては、それをはるかに上回る一日中歩きの猟があたりまえでした。

同じ歩数でも雪歩きです。靴での歩きとちがい、カンジキ履きで、しかも深い雪こぎ(はでこぎ・ラッセル)ですから、これはなかなか疲れるし、汗もかき、おなかもすくもの。

朝に出かけるときのリュックには、二食分たっぷりの「握りまま(にぎり飯)」を詰め込むのが猟には欠かせぬ「心得」でもありました。時代がさかのぼるほどに、それはなぜか、ただのにぎり飯ではなく、大きなにぎり飯を焼いたもの。

「心得」というとやや大げさめいてきますが、この言葉には理由があります。まずは猟場に着くまでに長い雪こぎがあります。昼飯時ににぎり飯を食べますが、「全部は食うな」が冬山歩きでの長い体験からくる教え。後のために必ずいくらかのにぎり飯は残しました。

天気の急変する冬山では、それから夕方まで何があるかわかりませんし、昼飯後の猟でも歩きはさらに続き、撃ち獲ったノウサギが幾羽も背のリュックに重なり(私の体験では、最高7羽・わが集落ではノウサギを数えるには匹ではなく羽の言葉をつかう)、それに銃、銃弾、双眼鏡、食料、飲料、などが加わりますから、さらに荷は重くなり、体内のエネルギーは最大限に消耗されます。さすがに、7羽となるとウサギでも重い。

ですから、夕方、山中や下山の雪上で二食目を摂るのはごくざらにあったものです。そういうこともあって、奥羽深山、遠出の猟では、帰りの荷を軽くするために、ノウサギの腹を割き内臓を取り出し、雪に埋め残してくるという方も。県境部など遠出のノウサギ猟では、天候急変や遅い刻までの猟などで帰りが真夜中になることもあり、こんな時は、山中で3食ということもままありました。

先日に記していた山中でのこと。下山途中の斜面にタッチラの木(ダケカンバ)がありました(写真)。自然にめくれるこの木の薄い外皮は、焚きつけ材として最適で、狩りをしながらこの薄皮をいくらか手ではがして懐に入れ、昼食時の焚き火につかったむかしを思い出したのです。思いは山とにぎり飯にも及び、それで記してみたのです。

 

 

 

 

それは、まだ銃をもたない中学生の頃のことだったでしょうか。主にノウサギ猟や釣り、山菜、きのこ採りで生業をたてていた亡きTさんたちに連れられ、里山のヘゴ(勢子・追い出し役)役で猟に加わった当時のことだったと思うのですが、もう半世紀ほど前のことで、記憶がおぼろげになりはじめています。

ふんわり降雪の都内

1日~2日は、予定通り仙台と都内での要望活動に副村長とともに出席。山形新庄最上地方すべての市町村、湯沢市、横手市の首長や議長、その代理のみなさんとうごきを共にしました。

厳しさで今冬2度目の寒波による積雪予報(大雪警報も)が首都圏に出されたなかでの滞在でしたが、今回の雪は大きなトラブルをおこすほどではありませんでした。

それでも、朝、ホテルの部屋のカーテンをあけたらふんわりふんわりとした降雪が続いていて、自民党本部、議員会館、国交省、財務省と30数人の要望団一行がすべて徒歩での移動中も、傘をさしての歩きとなりました。降雪の中での都内歩きは、こちらにとっては久しぶりのことです。

今回の要望活動は、会長職をご難儀いただいている山形・金山町さんの手配ですすめられ、省庁、政府などへのご案内も山形側の国会議員さんと秘書さんにご苦労をおかけしました。また、秋田側からも中泉参議院議員の秘書さんに同行いただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼3日は、狩猟や山にまつわる怪談などに主なる的を定めて活動しておられるとうかがう、カメラマン、ジャーナリスト、作家の田中康弘氏の取材をうけひとときを過ごしました。

これは村のまるごと自然館を通じてアポがとられていたもの。こういうのを偶然というのでしょうか、あるいは何かの縁ともいうのでしょうか。取材に応じた後日にわかったことですが、実は、雑誌「狩猟生活((株)地球丸社発行)」の2017年VOL2、罠猟特集号をこちらは購入していて、たまたまこの号に、北秋田市阿仁でナガサ(マタギ鉈)をうつN鍛冶店を取材した田中氏の記事(豊富な写真と文)が載せられていたのです。

こちらも、そのN鍛冶店の鉈を長年愛用していて、ワナ猟免許もあり、また別記事としてあった熊掌料理など内容にも気がひかれました。それでその特集号をふと手にし初めて買い求めたのでしたが、その雑誌の終覧4ページをしめる写真と記事が田中氏によるものだったのです。

田中氏の名刺には、旅マタギ 撮影・取材・執筆の字が職名としてでしょう記されています。世の中、人の生きる道というものはまことに多彩なものだと、氏と別れた後、仕事部屋にある前述「狩猟生活」誌を脇にながめながら感じたところです。

▼きのうは、村の要望活動などでつねがねお世話になっているみのり川信英代議士の湯沢雄勝地区新春懇談会・国政報告会に出席。会場内の移動がたやすくできないほど満席のもとでの集いでした。国政や県南地域の状況について、代議士ご本人のあいさつをふくめ、来賓の国会議員など様々な方々の考えと言葉にふれることができました。

えッ、白いオオトカゲ?

新雪が降り重なり、キャンジギ(カンジキ)をつけてもなお腿のあたりまで足が沈むほど雪深いたんぼの雪原を歩いていたら、オヤッと思う姿が雪の上に。

 

 

 

 

オヤッの姿は、木に登っているオオトカゲのように見えたからです。この間は、ここの木についた雪がまるで梵でんのような形にも見えたのを紹介しました。雪は、厳しいばかりでなく、時々見事な景色や、感心するような芸術や造形をつくりあげてもくれます。

ウルシの実に集まるカラス

豪雪の村で生きるには、人間にとってもなかなかの覚悟がいりますが、野の生きものたちにとっての雪国の冬は、命の糧を得るうえでわれわれには想像できない厳しさがあるように感じます。

先日朝、役場へ向かう通りすがり、ウルシの実を食べている数羽のカラスを見て、「ほほう、カラスも、ついに、柿の実を食べ終え、漆の実にあつまるようになったか」と、かれらのおかれている食の厳しい季節到来を思いました。

雪国に生きるカラスやヤマドリなどやや大きめの鳥たちにとって、寒中の食をささえる最後の大切なささえのひとつがこのウルシの実。

むかしの狩人たちは「ヤマドリを獲るなら、ウルシの木へ向かえ」とよくいったもの。主に朝と夕に食事にむかうヤマドリなどは、一本のウルシの木に幾羽もの群れで飛来、ゆっさりの房実を食べていて、それを「下から順番に撃てばみんな獲れる」などと、冗談まじえで我々は教えられたものです。(ただし、メスヤマドリは狩猟禁止)

昔は、塗料としての樹液採りでウルシの木は大切にされたものですが、狩人たちにとっても「あそこのウルシの木は、誰それがヤマドリを獲る木」としてお定まりの木があり、それぞれの集落に幾本かあるウルシの名木がありがたがられていたものです。

そのウルシの木にカラスも集まるようになったのです。自然から淘汰されるか生き残れるか、これから春までの彼らの本格的な生存をかけた日々がはじまったといってもよいでしょう。それだけ厳しい雪国の2月入りです。

▼今日は仙台の国交省東北地方整備局へ、明日は都内で政府省庁、国会へ、山形のみなさんと要望活動です。

大雪対応予算補正などで議会開く

大柳地区で昨日朝の積雪2㍍72㌢。以後の日中も雪は降り続きましたから今朝などもしかしたら3㍍を越えたかもしれません。わが岩井川地区も、今朝で2㍍は優に越えたでしょうから、村の大半の人々は、2~3㍍近い積雪のなかでくらしていることになります。

昨日時点ではまだ豪雪対策本部設置に至ってはおりませんが、とうとう平年並みをはるかに上回る豪雪ラインとなり、今後の除雪費用かかり増しを予測した補正予算案を議題として議会の臨時会議がきのう開会されました。


 

 

 

当初予算の冬期交通対策費は約1億700万円でしたが、それに2千500万円ほど追加などの項目を含む予算案が審議可決されました。補正後の一般会計総額は約36億9千500万円。

積雪2㍍前後で多くの村民が暮らす日々となりましたので、議会は来月初めに村内の雪状況などを視察・調査することにしました。雪と関係する住民の日々のくらしのことをはじめ、災害防止、あるいは今冬のことだけでなく今後の豪雪対応などへもふくめて見回る予定です。要望やお気づきの点などありましたら、役場民生課や建設課、議会事務局、議員へ是非ご一報ください。

明日1日と2日は村を離れるので、その前にと、我が家も残していた雪下ろしの仕上げにかかりました。今日でとりあえずすべてを終えて、今後の寒波襲来に備えるところですが、今冬は、すでに5回ほどの本格雪下ろしをした勘定になります。

我が家では、自然落雪の車庫や農機具格納庫などの軒が雪でいっぱいになり落雪できなくなるラインになれば、「さあ、これからが大変」となり、心の持ちようはわが家個別の「豪雪対策本部」設置みたいになります。それにしても、きのうわが地方があんなに大雪になるという予報はおととい夕方にはききませんでしたから、「冬の天気予報は、週間予報だけでなく、半日後の予報も、当たらないものだなぁ」と、きのうはつくづく思いました。

要望活動スタート

村や県南地域がかかえる国政への今年の要望活動がスタートしました。

きのう行われたのは東北中央自動車道新庄~湯沢地域間の高速道路建設についての湯沢河川国道事務所への要望。山形新庄・最上地方と秋田県南の首長、議長のみなさんといっしょの行動です。来月初めには仙台の出先機関、そして中央省庁・国会へも要望が予定されています。

山形大蔵村の議長さんと席が隣あわせましたので「わが村は2㍍の集落もあるが、そちらの雪は?」とお聞きしたら、冗談半分でしょうが、笑顔をまじえながらそれをはるかに上回る雪の量を数字で語りました。おととい記したばかりですが、大蔵村さんも、わが村も
世界有数の豪雪の村、しかも日本で最も美しい村連合の一員同士でもあります。おかれた環境が共通すると、また固有の親しみが湧いてくるものです。

▼家々の軒下につるされていた自家用の凍み大根が、強烈寒気のなかでほぼできあがりつつあります。

「今年の冬は、平年並みの雪で済むかな?」などと早合点するところでしたが、わが集落で2㍍近くの積雪になりました。あとひと月は積雪の重なる可能性ありで、連続する寒波と降りっぷりのよさに「はたしてどれだけ積もるのか」、心の警戒度数はかなり高めに変わりつつあります。

西和賀町の農家に学ぶつどい

27日、恒例の農業を語るつどいが開かれました。

村の担い手農業者組織「田畑会」の主催で毎年この時期に行われている行事です。

つどいは講演と懇親の二部構成。今年の講演は、お隣岩手県西和賀町のやまに農産(株)代表取締役・高橋医久子氏によるもの。高橋氏は「わらびとカシスふたつの日本一を目指して」を演題に熱く語りました。

高橋氏は、昭和29年生まれの63歳。会社の社長として農産加工品の開発をはじめ「おもしろい、やりがい、利益」をキーワードにくみたててきた経営の大筋を説明しました。

当日は、同じ会社の常務に就いておられる夫の明氏(元町議)もお越しになり、懇親の場でもみなさんと交流を深めあうことに。

わが集落と隣接している西和賀町(合併前の湯田町)は、木材業、林業労働や国有林利活用によるつながりをふくめ昔から村と集落にとってなにかと縁の深いところ。しかも、奥羽脊梁の豪雪の土地として共通の条件にあるだけに、よく知られた先進的な医療政策とともに、豪雪のなかでの農業振興ということでもずいぶん教えられることが多い自治体です。

全国には、国内有数、ということは世界有数の豪雪の土地で、その条件を活かした意欲的な農業振興をはかっているところがたくさんあります。たとえばトマト産地として名が高い山形の大蔵村、農業の町として知られる新潟の津南町などは、町や村をあげて豪雪の条件をプラスにとらえ奮闘されている典型でしょう。西和賀町もそうですし、秋田でも、個々の経営体として、雪とまみえながら高原で牧場経営と加工品の生産販売、観光にまでむすびつけ活躍しておられる仁賀保高原のT牧場さんなども、私はその一つとみています。

今年もすでに各集落で2㍍前後の積雪となったわが村もそれは同じで、古くは繭の生産や葉たばこ生産で全県一の規模を誇った歴史があり、今は今で、食味抜群のお米や名産のトマトなどは豪雪の村だからこその高い評価を誇ります。りんどう、いちご、菌床しいたけ、肉牛、そしてこれはまったくの自然からの贈り物となる山菜や天然キノコも、豪雪とブナやナラ類をはじめとする落葉広葉樹林、広い牧野がある土地だからこその特産物です。農家、経営体個々の特性にそって、ぶれずに試され済みの作目に地道に力をいれ、あわせて新しい分野の開拓も見すえる、村農業発展のカナメはいつもここら辺にあるのでしょう。

▼2枚目の写真は、強烈寒波最中だった26日の入道地区です。27日、28日は、その寒波がもたらした雪下ろし作業が村のあちこちで見られました。わが家も、童たちをまじえながら、歓声にぎやかな雪下ろしの休日となりました。

今度はノウサギ

先日のヤマドリとの出会いの続きです。寒中の美の象徴ともいえる凜としたオスヤマドリの姿を目の奥に焼きつけたまま、今度は斜度のきつい上りのはじまりです。

雪が深ければ深いでここの上りは足腰にこたえるのですが、この日のように堅雪状態だときつい斜度の歩きではカンジキの爪が雪によく刺さらず足が滑り、踏み抜きが苦労でこれもまた疲れます。それでも足が沈まないのはあまりに楽。時折左のブナ樹林の間から鳥海山をながめつつ、どんどん高度を上げます。

郡境近く、いつもの大ブナの下でまずは小休止。あたりに2匹のノウサギの足跡が見え、うち1匹の足跡を100㍍ほど先まで目でたどると、行きつ戻りつ、時にはカギ跡をつけ、途中でトッパネ(天敵を警戒し大きく横に跳ねる動作)跡をつけた様子を雪上に確認。この足跡を目にすれば緊張し、また心が躍ります。ノウサギはそこらに伏せているからです。

 

 

 

「ははぁ、そこらに、隠れているな」と、その100㍍先周辺の小柴の根元を見回したら、いる、いる、ノウサギが低木の下にじっと伏せています。とっくにこちらを発見しているようですが、この距離では、いくらカレ(カノジョ)でもまだ無駄な逃げ出しはしません。日中はクマタカなど猛禽類からの襲撃を避けるため、走り回りは極力避けるからです。

「伏せている山ウサギ(ノウサギ)に近づくなら、上方から」が、マタギの鉄則であり、こちらの体験からもそれは100㌫あたっている教え言葉。それで、カレからずっと離れるように遠回りしてカレが警戒をやや緩めるほど上がり、それから尾根のカゲに出てカレの伏せている場所近くまで静かに下がりました。

およその見当をつけていた所で尾根から出て、カレの伏せている低木を確認。その距離約5㍍。カレの姿は見えませんが、根元から跳び出した足跡はありませんからカレはまだそこにいるはずです。ノウサギの跳び出しスタート姿勢は、人の100㍍走スタート姿勢よりもまだ低く、体を極端に伏せ状態にするのですから、雪に隠れていて見えないのです。

下から迫られればとっくに逃げ出しているウサギですが、上から迫られたのでギリギリまで逃げ出さず、間合いをはかっている様子です。こちらがさらにもう1、2歩近づくと、こんどはとうとうカレの姿が見えました。見てください、敵が上方4㍍ほどまで近づいた時のこの野生のウサギの目と表情。いっきにカレは跳び出し、100㍍ほど走っては一休み、こちらの姿を見つけてはまた走り、それを二度ほど繰り返し、それこそ脱兎のごとく郡境を上り越え、山内三又の山に逃げ下りました。走り姿は条件が悪く撮れませんでした。

 

 

 

 

ノウサギとの出会いの共演を楽しんだ後、郡境の尾根から奥羽の山並みを遠望。お天気は曇りで岩手山などはのぞめず、近くの焼石連峰から栗駒連山までの県境の山々は確認できました。なじみのブナ林を通りぬけ、岩井沢に下り帰宅。いつもなら4~5時間を要するコースですが、堅雪のおかげで、カンジキ履きでも2時間半ほどしかかからぬ歩きでした。