崩れた堰跡がおしえるもの

村のあちこちをめぐり歩くとき、私の心に強く留まるいくつかの風景があります。

そのうちの一つが、はるか昔に田んぼへ水を引くためつくられ、今は使われなくなってしまい崩れた堰(用水路)の跡です。

写真の一枚目は椿川のウムシノ橋からのぞめる成瀬川沿いの断崖につくられた堰。二枚目は岩井川のやはり成瀬川河川敷南方の黒滝地区(通称・むげ)につくられた崖沿いの堰。

いずれも、崖を削ってつくられながら現在は廃れてしまった堰です。これを見れば、米づくりに尽くした昔の人々の苦労がひしひしと感じられ、当時の「お米の価値」のありがたさ大きさをうかがうことができます。

ウムシノの堰は、写真部分よりすぐ上流の崖が崩れるなどで廃れたものの、それより下流は別の引水方式(ポンプアップ)に切り替えられ今も手倉西地区の田んぼをうるおしています。一方、岩井川黒滝の堰は完全に崩れ、もちろんそこから水を引いた田んぼもかなり以前から耕されず、今では農地であったことがやっとわかるほどに80㌃ほどの地は廃れてしまいました。

二つの堰とも廃れ崩れてしまいましたが、岩を削ってつくられた箇所には堰の跡がはっきりと遺ります。それは、主食の米を得るために人々が糊の汗を流した苦労を知る遺跡であり、この国や村の歴史を動かすうえで大きな役割を果たし続けた稲作の歴史がうかがえる遺跡でもあります。

童と「生きもの探し」

新型コロナウィルス禍、学校が突然のいっせい休校となった童とともに、雪上歩きと生きもの探しで少しの時間を共に過ごしました。

異常といえる降雪量、積雪量の少なかった寒中に加え、立春以降も2月、3月と温暖な日が続き、雪解けはいつもの年よりはるかに早い速度で進んでいます。

雪解けの進み具合がそうなので、カンジキ履きでめざしたのは清水の湧き出るいつもの場所。毎年春先に2人でここを決まって訪れます。目的は、まだ冬ごもりから目覚めていないカエル(アカガエルの仲間でしょうか)やサワガニ、それに小さなサンショウウオと出会うこと。

例年2㍍以上の積雪がまわりにある真冬でも、ここは清水の湧口ですから雪が積もらず。ミズバショウも自宅の周囲では最も早く芽生えを見せる所です。生きものたちが隠れていそうな石を起こすと、サンショウウオやサワガニが次々と姿を見せ、稀にカエルとの出会いも。

昔、私らが童の頃は、食べる目的でこのサワガニを捕りに向かい、サンショウウオは「薬になる」などと、遊び心もあわせて生きたそのままを(いわばサンショウウオの踊り呑み)2匹も3匹も呑み込んだりしたもの。こういう清水の湧口にくると、雪解け始まりの3月の季節に自然と溶け込み戯れた童の頃に私の想いは返ります。

小沢の流れそばにはバッケ(フキノトウ)もいっぱい出ています。「これは、みんなへのお土産に」と、2人でおいしそうな若芽をたっぷりと摘みました。

歩きの途中、杉林の雪上にリスの巣が落ちていました。杉の皮を薄く剥がしてフワフワふとんのような巣をリスはよくつくります。見上げたら、木の途中にも巣材のかけらが垂れ下がっていました。

今使っている巣なのか、使い捨ての巣なのか、はてまたどんなはずみで樹上から落ちてきたのか(天敵に襲われたのか、風か雪の影響か)はわかりませんが、雪の上では時々見かけること。こういう様子を童ははじめて目にしたようです。

3月定例会議はじまる

村議会3月定例会議がきのう始まり、施政方針、行政報告の後に提出議案の説明がされました。

ひきつづき開かれた常任委員会では、付託された3件の陳情が審査されました。

今日正午までには一般質問の通告が締め切られ、10日に質問が行われます。その後に、12日と13日には予算特別委員会の審議も行われ、補正予算案と当初予算案に対しての質疑応答が交わされます。

私も開会のあいさつで一言だけ触れましたが、学校のいっせい休校に関わることや、ホテルブランへの新型コロナウィルス感染症についての影響などが各行政報告でも述べられました。

科学的根拠が明確にされないままでの、全国的なあまりに唐突で一律いっせいの休校要請には、関係する諸々の現場や子どもをもつ家庭から、戸惑い、不安、不満、憤り、苦労の声が渦を巻いて出されており、私にもそうした声のいくつかが寄せられております。政治は、こういう声に真摯に向き合わなければならないと思います。

雪上にのこる弱肉強食の痕

雪の少ない冬だったので、いつもなら2㍍ほどの積雪に覆われている生活用水路も、今年は多くの箇所でもう水路が露出しています。そのため、風で落下した枯れ木や落ち葉が水路や取水口に詰まりやすく、頻繁な見回りが必要となっています。

29日、その見回りついでにそばの里山をカンジキ履きで3時間ほど歩きました。

生活用水路と同じように里山の小沢もほとんどが雪に覆われていないため、この春の雪上歩きはいちいち小沢を越えることが多くなります。雪解けの早い斜面にはいずこでも、豪雪の村では早すぎるバッケが見られます。

この日の雪は表面がパサパサしていて、キツネ、テン、リス、タヌキ、カモシカ、ヤマドリなど、夜に歩いた生きものたちの足跡が雪上によく残っています。ただ、3時間ほど歩いても、カメラにおさめようとした肝心のノウサギは見られず、動き回りもたった一匹がつけた足跡だけ。いつものことながら、ノウサギの激減には驚くばかりです。

杉の林の中を歩いていたら、杉に混じって植えられたトドマツの仲間の幹に大グマの爪跡があり、樹皮が大きく剥がされています。旧い爪跡もあれば、昨年につけられた爪跡もありますから、この松の木にはクマがよく通っているようです。彼らは、杉やホオノキ、ヒメマツなどの樹皮を剥がすことがありこのブログでも幾度か紹介しています。この松の皮は幾年かにわたって剥がされています。皮を剥がす主な目的は何か、諸説ありますが、正確なことは私にはわかりません。

山中の積雪は1㍍ほど。ブナ、ミズナラ、ホオノキなどの林では、それらの木にからまってのびるヤマブドウの太い蔦にたくましさを感じます。雪が少ないのでユキツバキがもう雪上に出て、濃い緑を風に揺らしています。クリの木には、昨年秋にクマが実を食べようと枝を折り溜めた跡も。

視界のひらけるブナ、ミズナラの林を歩いていたら、キツネの足跡が集中してみられる箇所があります。立ち止まったら、雪上の一地点に広く血の滲んだ痕があります。確かめたら、オスヤマドリの尾羽の跡が軟らかな雪に残っています。それはオスヤマドリが飛翔してきて雪上に下りる時に尾羽が雪に触れてつく特有の跡です。

推測するに、これは雪上に下りたヤマドリが、下りてすぐにキツネに襲われた痕と考えられます。ヤマドリにとっては最大の不運、キツネにとっては、そうはない偶然の獲物とのうれしい出会いだったのでしょう。山を歩けば、このような命をめぐる自然界の厳しい生態のあれこれを知る場面がよくあるのです。

健康で百寿のお祝い

きのうは伯父の百寿のお祝いがあり、ホテルブランへ。

伯父が人生100年を歩まれたなかには、その時々で記憶に濃く刻まれる出来事がたくさんあったでしょう。なかでも戦争は、忘れられない体験の筆頭にやはり入るようです。

大陸の戦地から終戦間際にそのまま南方のニューギニア戦線に移り、ニューギニア西部のサルミで終戦をむかえた伯父上。戦後は木材運送・素材生産に関わる事業をはじめ、県南雄平地区の素材生産事業協同組合の組合長などを経ています。経営は息子さん(村の教育委員)が引き継ぎ今日に至っております。

主な仕事は山や木材搬出に関わる分野でしたが、若い頃に鍛えられた農業の技にも伯父はよく通じています。たとえば村の仙人修行につきものの滝行に用いられる「わらじ造り」では、参加者への教え役を長年つとめ、昨年もほかの長老のみなさんと共に手ほどきの役割を果たされました。

熱帯地方に多かったマラリアをはじめ、戦線に多かった病気から身をまもるため、衛生への心がけに伯父は徹底してつとめたようです。おだやかな心持ちと合わせて百歳までの健康長寿が保たれている秘訣はそこらあたりにあるようです。

100歳に達するだけでも願ってもない慶びですが、健康でしかもこうした内容で百寿のお祝いができることはなおさらおめでたいこと。なので、この先「日本一、世界一の『健康長寿』到達」への願いを込めつつお祝いを申し上げました。

当初予算案など説明の全員協議会

3月定例会議を前にして、きのう議会運営委員会と全員協議会が開かれました。

運営委員会では、定例会の日程を3月3日~18日までと決めました。一般質問は10日に行われる予定です。全員協議会では、令和2年度予算案をはじめとする提出予定議案の説明が詳しく行われました。

令和2年度の一般会計当初予算案は32億9,700万円。特養施設幸寿苑への村職員派遣は今年度限りでゼロとなり、介護サービス事業は特別会計としては2年度からなくなります。ほかの特別会計予算案は、国保事業勘定が2億7,792万円、直営診療所が⒏,746万円、後期高齢者医療が約2,808万円、介護保険事業勘定が約3億7,082万円、簡易水道事業が約7億4,420万円、下水道事業が約9,618万円となり、一般会計と特別会計を合わせた村予算案の総額は約49億円となります。

保育所の民営化移行、地域への各種補助金の統合、コンビニでの住民票など各種証明書交付実施、循環拠点システム(くん炭製造施設)の指定管理移行、学校給食センターをこれまでの業務委託から直営に移行、4つの農村公園のトイレ管理を各自治会、部落に業務委託、基金からの少なくない繰り入れによる予算編成等々、一般会計の特徴点やこれまでより変化のあったことなどもいくつか説明されました。

特別会計では、簡易水道事業のうち施設の更新統合による中部地区の工事費(一部に南部地区約1千万円含む)と委託費などを主にして約5億8,400万円となります。

▼新型コロナ関連による全国や県内などの行事動向への対応などが考慮されたのでしょう、3月1日に予定されていた岩井川地区恒例のコミュニティ文化祭は急きょ延期される旨の連絡が入りました。

その連絡を受ける前には、3月2日から春休みまで、小中高、特別支援学校のすべてを臨時休校とすることで国から各都道府県教育委員会へ要請されることもきのう突然発表されました。危機管理の在り方を問う見解が連日報道され、国会でも同じような質問がされています。

世界人口80億人ほどといわれるわれわれの社会は、経済をはじめ様々な分野で地球規模の大きなつながりをもつまでに発展してきました。地球にはやがて100億人台の人々が暮らすようになるようです。その時代には地球規模の人の移動やつながりはもっと大きくなり、あらゆる面で及ぼし合う範囲はさらに広がるはず。新型コロナは、そういう社会に沿ったあらゆる面での危機管理の在り方で我々に警告を発しているのでしょうか。

郷愁にかられるバス車庫

まもなく3月。わらし(童)だった頃のこちらにとっては、春休みが早く来ることを待つはじまりの3月でした。

集落では、それぞれの部落ごとにわれわれ童どもの集まり場所(遊び場)があり、春が近づいたわが集落では、たとえば城下の我が家そばにある「三吉様」と呼ぶ小高い神社の境内はその一つ。我々にとってはめったにないことでしたが、それからちょっと遠くまで遠征すれば合居の羽後交通バスの車庫も大切な春の遊び場でした。

とくにバスの車庫は雪がありませんから、バスが駐まるようになってからの合居の童たちにとっては冬から春にかけての絶好の遊び場だったと思われます。城下からも稀に我々が遠征したのですから、上野、東村までをふくめそこには集落の童どもがこぞって集まったのでしょう。

そこでの主な遊びはコマ回しとパッタブヂ(メンコ打ち)。コマ回しでは、曲芸師のような技でコマをあやつる凄腕の先輩が必ずいて、そういう先輩が手にしている歴戦のコマはどっしりとしていて、コマ木も鉄の軸も風格がほかより違うように見えたものです。

コマとは違いパッタ(メンコ)は、新しくて大きなのが童たちのあこがれの的。そういうパッタを買ってもらえる童はごく限られていました。刷られた表絵の紙がぶさぶさになってわずかの絵が残り、少しの風であおられれば裏返しされたり飛んだりするような薄いパッタで厚く新しいパッタを手にした時は実にうれしかったもの。そういう勝負の場にめぐりあえる機会も実際はそんなになかったのですが。

年代もののバスの車庫は、そんな遊び場だっただけにガキの頃の郷愁を誘う建物なのです。合居に最初あったバスの車庫は1台のバスしか駐められない造りだったようです。元バス運転手のSさんは「バス2台を駐車できる今の車庫は、確か『旧大森町にある車庫をここに移したもの』と聞いた。昭和43年で現在の車庫があったから、移し建てられたのはその何年か前だろう」と語ります。

我々が遊んだバス車庫は、今ある車庫なのか、それともその前の車庫なのか、ちょうど境目の年代あたりなので私にはわかりません。ただ、やや傾き古びた車庫の柱や板を見る度に、いつかも書きましたが昭和30年~40年頃の郷愁に私はかられるのです。

真白き嶺が目立つ季節

所用で湯沢へ向かったきのう午後。吉野でまた田んぼの土がほとんど出ていました。

例年、高校の卒業式がはじまる3月1日には、早い年であれば「真人へぐり」にまんさくの花が見られます。それで「今年なら、もう咲き始めたかな?」と車窓からながめましたが、走る車の中からは花の確認はできませんでした。開花はまだなのかな。

日向斜面では、岩井川集落の里山でさえ雪のない箇所が広がっています。増田、十文字地区の田んぼには北帰行途中の白鳥たちが舞い下り、2月なのにモミなどを食べているほど。

白鳥たちは「秋田市方面まで行かなくても、増田、十文字あたりで2月に田んぼで食事ができるのは初めて」と助かっているでしょう。今冬の渡り鳥たちは、中継地で餌のとれる範囲があまりにも多くありますから、秋田県南の食味特A級のお米「あきたこまち」のたっぷりの栄養をとって大陸へ帰れるはず。

村も平野部も土肌の占める黒い範囲がそれだけ多くなっているので、西の鳥海山や東の焼石連峰の真白き山容がひときわ目立ちます。こちらがながめた昨日午後は残念ながら曇り空を背景の山体でした。これが午前のような晴れ空に浮き立つなら、白雪を抱く見事な美の景観となります。その景観は横手盆地に春が来たことを感ずるひとつの季節指標ともなります。

もっとも早いフクジュソウ紹介

このブログを書き始めたのが2007年。 それからずうっと村の四季だよりを記してきていて、フクジュソウは春告げ花として真っ先に群生地の様子をご紹介してきました。

今年は、そのフクジュソウが、書き始めて10年以上経つ間では最も早く花を見せ始めています。写真に切り撮ったのは過ぎた22日ですから、おそらくその何日か前から花は咲き始めていたものと思われます。村では記録ものとなるフクジュソウの早咲きです。

そばには、おそらく村内ではここだけの植生かと推測される常緑のセキショウが少ない株で見られ、バッケもどんどん顔を出し続けています。23日の吹雪で花もセキショウも10㌢ほどの新雪に覆われましたが、その新雪は昨夜の雨でほぼなくなりました。

集落入り口の我が家の田んぼも20日前には畦をまた出していました。80歳代、90歳代のお年寄りの方々も「こただに雪のびゃっこだ(少ない)冬は初めでだ」と言います。記憶だけではなく科学的な統計でももしそうだとしたら、10年間ほどどころでない、およそ一世紀間隔でみても異常な冬を我々は過ごしたということになります。なにしろ世界有数のこの豪雪の村で、雪下ろしを一度も無しで済ませた方々もいた冬でしたから。

村内集落の里山に見られるこの季節特有のヒラ(底雪崩)も、今年は斜面の積雪が少なく規模の大きなものはほとんど見られません。これもめずらしいことで、今春は、雪崩の箇所に発生する山菜の発生時期にも一定の影響が及ぶでしょう。

桜の開花予想がされる時期となり、例年よりかなり早い開花予想日が報道されています。桜より早い梅の花は、やはり例年よりはるかに早く咲き始めているようです。豪雪のために遅すぎる春も困りものですが、雪が少なくて早すぎる春のおとずれも農家にとっては不安です。農作物、とりわけ果樹などに影響(萌芽や開花が早すぎるための霜害など)が及ばねばよいのですが。

▼毎年この季節になると、若い頃お世話になった相模原市のSさんから、お知り合いの方が作られている小田原産のミカンがとどきます。農薬をセーブして栽培されているミカンで、今の時期のミカンですからもっとも晩生の種なのでしょう、味は、晩生ですから格別。

こちらが二十歳の頃に過ごした神奈川の台地。そこでの冬を過ごしてみて、雪国との違い、うらやましさをまず感じたのは冬でも露地の畑で育っていた緑あざやかなホウレンソウでした。この季節になるとあのホウレンソウの緑が連なる畑を今も時々思い出します。それから50年近く経ち、今は村でも冬のビニルハウスでホウレンソウが栽培されます。時代はほんとに変わったものです。

▼発達した低気圧による台風並みの強風はこの季節のつきもの。23日は前が見えなくなるほどの吹雪が時折荒れ狂いました。でも気温はそれほど下がらず降る雪も少なく、南極のブリザードのような寒中の猛吹雪を何度も知る村人にとって、寒気の緩いこの程度の吹雪は幕下クラス。ただ、ビニルハウスや、雪がなくなったトタン屋根の風害はさすがに気にはなりました。その荒れ空も一日で去り、新たに積もった少しの雪も昨夜の雨でほぼ消え、今日はまた朝からおだやかな陽射しを受けています。

2月下旬前で土肌がこんなに

2月6日に降った50㌢ほどのドカ雪もどんどん解け、我が家の屋根雪もほとんどがなくなってしまいました。これで「2度目の雪下ろしはせず」の判断は良と出たわけですが、なんと雪解けは予想より進んでしまい、屋根の風害防止としての重し役をする雪もなくなってしまったというわけです。

いったんは新雪に覆われた地面がまたまた現れ、土肌の範囲が広がり、季節にしては早すぎるバッケの顔も目につく場所が増えています。

きのうも春のようなおだやかな晴れ空。その青い空にさそわれ川辺のネコヤナギにもまた立ち寄ってみました。

▼県町村議会議長会の理事会がきのう開かれ、来年度の事業計画と予算を決めました。

県内では先日記したように町議会の3月改選が多くあります。すでに立候補予定者への説明会も開かれているようで、激戦が予想されるところの話題なども交わし合われました。