ブナの芽吹きはじまる

土、日曜と西日本や東日本で時ならぬ真夏日となり、わが集落も26度℃の夏日。河畔林のヤナギとともに木々の中では芽吹きが一番早いブナの芽吹きが、先週末から里山で次々とみられるようになりました。

 

芽吹きのいちばん早いブナの葉のこの様子をわたしたちは「木の葉ホゲダ」といいます。芽吹きを「ホゲル」の言葉で表すのです。さらに村のマタギたちは昔から「ブナのホゲざげさ、クマえる(ブナの葉の芽吹きはじめた境のところに、クマがいる)」とみてきました。クマは、芽吹く寸前で膨らみきったブナの芽や芽吹きはじめの芽が大好物だからです。ブナは、実だけでなく芽もクマにとって大切な栄養源の樹なのです。

▼童を連れていつもの河川敷を散歩したら、コゴミも芽を出し始め、ユギノシタキノゴ(エノキタケ)もいっしょに摘み採り、待っていた初物をごちそうになりました。ほかの山菜も次々と芽を出すこれからは、初物ごちそうをいただける日々が続きます。

 

 

 

 

 

 

▼里に近い沼又沢へも道路沿いに少し歩いてみました。

豪雪の冬でしたから雪崩によって落ち運ばれた雪の量も今年は多く、渓谷をふさぐ雪の橋はいつもの年より規模が大きく見えます。深山の川を渡る生きものたちも、登山や釣り、山菜採りで渓谷に入る人々も、今年はかなり遅くまで雪の橋を渡り続けることができそうです。

雪解けが早く進んだ雪崩跡の日向斜面や川の岸辺には、サグ(エゾニュウの仲間)の新芽が勢いよく伸びつづけています。この野草が大好きなクマやカモシカたちは、食を求めてこうした場所の近くでこれからの日々を過ごすようになります。

川沿いには、ここでもエノキタケやコゴミが、瀬の流れからはじける水しぶきを時に受けながら暖かすぎる春の陽ざしを浴びています。


 

 

 

 

 

 

 

そばの土手にはチャワンバナコ(キクザキイチゲの仲間)やカダゴ(カタクリ)、バッケ(フキノトウ)たちが花の競演で、ヒロッコ(ノビル)もおいしそうな新芽を残雪の中からいっぱい突きだしていました。

夫婦?で羽繕い

家の中から勝手口の外をながめたら二羽のカラスが地上に並んでいます。

それだけならどこにでも見られる姿です。ところがこの二羽のうごきは普通見られる様子とは少し違います。しばらく見つめていたら、一羽のカラスがとなりのカラスの羽繕いをしはじめたのです。

ははあ、今は彼らの繁殖期。すでに巣作りを終えてこれから卵を産みつける頃。これはきっとカラスの夫婦で、オスがメスの羽繕いでもしてくれていたのでしょうか。

たかがカラスといえど、こんな仲むつまじい姿を目にすると、心ほんわか温かくなるものですね。

▼チャワンバナコ(キクザキイチゲの仲間)に続きカダゴ(カタクリ)も咲き始めた村です。冬ごもりしていた生きものたちの多くが半年間の眠りから覚め、ツバメも先頃目に入りました。地肌の面積も日毎に増えて、ウドザグ(ハナウドの仲間)やサグ(エゾニュウの仲間)、ヘリザグ(セリサク・シャク)の緑が急速に広がっています。このもえぎの緑葉、森の生きものたちは、新しい命の糧を口に出来て大喜びでしょう。

 

 

 

 

まだウグイスの初鳴きを聴いていませんが、成瀬川が雪解け本番の流れになりましたから、オオルリやキビタキもふくめ、彼らもまもなく姿を見せてくれる頃です。

沢沿い急斜面のヤマモミジも、豪雪の地方ならではのしなやかな樹姿をいっそうひきたて、枝先を空に向け張り始めました。

米政策の大転換はじまる

48年前にはじまった米の生産調整(減反)にともない、水稲が作付けされない水田の有効活用をはかるなどを目的として様々に名をかえ組織されてきた協議会(村、議会、農業団体、農家などで構成)の総会がきのう開かれました。

現在のその協議会の名称は村農業再生協議会。平成29年産までの米の生産については、国からの生産数量が県を通じて村に配分されていました。しかし、今年産からは配分というしくみを廃止、国が適正な生産量をしめし、それをみて県が生産の目安を各市町村に設定、村の協議会がそれに基づき生産の目安を農家に通知するということに変わりました。

「配分」がなくなったことにともない、生産者同士の間で水稲の作付け過不足を調整し合い、配分より多く減反をした農家に一定の補償金が支払われた「とも補償制度」も、今年産から廃止となります。

配分から目安へ。これは1970年(昭和45年)に減反が始まって以来約半世紀に及んだ米政策の大きな転換です。これにより当面この先数年、各都道府県ごとの主食用米作付け面積の推移がどうなるか、なによりも米価がどう動くかに関係者は大きな注意と関心をはらっています。こちらも、村農業の振興に責任のある一人として、また一農家として、やはり最終的には「米価がなんとなるのか」に思案が行き着きます。

米のことになればいつも記しますが、藩政時代などに遡る飢饉時だけでなく、第二次世界大戦後の山村の家々の中にも「満足にご飯を食べられない時」がありました。「明日の飯米」確保で、近所などにお米を借りに歩くなどは当時の村内でもざらにあったことです。

そういう台所をあずかる家々の「母」たち「女」たちは、米びつが空になると、明日の糧メシを得るためお隣などの家に「はあーえ、なんとが、米っこ、貸してけれ」と歩いたのです。子供がその「貸してけれ」の使いに歩いた家々の事例もあります。我が家もお米を借りに歩いた時が母にあり、多くの子供の腹を満たすため「ニドエモで、我慢さへだごどもある(ジャガイモを食わせて、我慢させたこともある)」と母はたまに語ります。

そういう体験を知り、またもつだけに、先人たちが糊の汗を流し苦労して開墾したたんぼの荒れた様子と、充分に食べられなかった時代との米をめぐる価値のちがいをみて、誰にいうでもなく私は「これなば、バヂあだる」と思えてきます。

ご飯を食べようとしない幼子に「ちゃんと食べなさい」となんとかして食べてもらうための苦労もみられる、今はそんな飽食の時代です。それなのに、やはり一方には、国内でも食に事欠く家庭や子供たちもいて、それを支援する「子供食堂」も全国津々浦々に。国内でも、世界規模でも、飢餓・貧困と飽食が併存します。人間社会、ほんとうに複雑です。

のどかな春のひととき

このところしばらく雨天や曇りが多く、晴れでも風がつめたかったりでしたが、きのうは久しぶりに春らしいおだやかな日和となりました。

いつものようにまずは朝一で役場に向かって書類の決済をし、今後の活動予定などを打ち合わせ。帰宅してからは突然舞い込んできていた童の子守役にひととき加わりました。温かなので、「外で雪の上を歩こう」と童と約束していた堅雪渡りの河川敷散策です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我が家は畑も田んぼもまだ雪が多く、そこに向かう農道も厚い雪で車が通れませんから農作業はできず。妻も月末連休から今シーズンの村の直売所のしごとが始まります。なので、雪が解けてからの繁忙の春、二人そろって童と過ごせるこうしたゆるやかなひとときはつかの間の今だけ。

きのうは雪の締まりがほんとうではなく少し足が雪に沈みました。でも、河川敷の散歩程度ならだいじょうぶ。久しぶりに童と3人そろいでのどかな春の自然にふれあいました。

バッケをながめ、童の大好きなキノコ(ユギノシタキノゴ・エノキタケ)をいっぱい採り、アザミやヒロッコを摘み、湧水から流れる清水のそばで花(キクザキイチゲの仲間)やワサビ、クレソンを愛で、雪解けの瀬音さやかな小川や成瀬川の水辺に戯れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬眠から覚めたばかりのヘビ3匹が残雪そばの日向で体をあたためていた姿ともばったりの出会い。ハ虫類は苦手で歓迎しないこちらですが、童は「しっぽをプルプルさせていたね」と初鳴きならぬヘビの「初見」を体験してニコニコとおもしろそう。

夕餉には、みんなで「その日の春の楽しい出来事」を語り合い、エノキタケもいっしょにしたヒロッコのかやぎ汁をいただきました。

為政者に求められる条件

ちょっとの言葉を書き連ねるだけでも、ほかの書物・書類の応援を得なければならないことが多くあるこちら。みな若い頃の基礎学びがまったく不足しているためです。

それら書物・書類のなかでもそばにおいて最も多く使うのは広辞苑(岩波書店)と類語大辞典(講談社)、スーパー実用ことわざ辞典(東京書店)、樹木、野草、キノコなどの各種図鑑やガイド本、地理名を正確に記すための村と周辺の地図、それになんといっても欠かせぬのがわが村の「郷土誌」です。

実は、そのわが村の郷土誌は、藩政時代の「村」のしくみをくわしく述べ、そのなかで当時の「公務職」として配置された「村の長」といえる「肝煎(きもいり)」役にはどんな資質の人間がふさわしいか、当時の秋田奉行所が管内にしめした内容を載せています。

少し乱暴かもしれませんが、肝煎の言葉をたとえば当時の藩主や将軍とおきかえてもいいでしょう。約400年前の肝煎という公務職を、今時の国政や県政、全国の地方自治体で政務を執る為政者すべてにそれをあてはめて考えてもいいでしょう。

時代が変わっても、我々の社会に求められる指導者像、公職トップ像というものがここから浮かび上がります。肝煎にはどんな条件の方がふさわしいとされたのか、約400年前も、今も、為政者の資質として求められる条件はほぼ同じであることに少々驚きます。これら条件の多くは、大小の権力というものをもつ人間に、あるいは諸々の組織の先に立つ人間に課される永遠に変わらぬひとつの規範ともいえるのでしょうか。

それでは奉行所が肝煎に求めた資質の条件とは何か、村郷土誌は次のように記します。

一、第一貧ならず、正直にして心広く、質朴にして貪(むさぼ)らず。
二、慈悲あって贔屓(ひいき)なく、分別あって奢(おご)らず。
三、また、身上余慶も在り、頼もしげありて気長く、偏屈ならず。
四、大酒を好まず、好色のくせなく、芸能の癖のないもの。

ということです。

質朴で貪らず、慈悲あり、贔屓なく、奢らず、頼もしく、気は長く、偏屈ならず、好色の癖なし。昨今、国政や地方政治で問題になっている諸々の事例の当事者の方々は、胸に手をあててこの肝煎選任の条件を一度読んでみてほしいものです。わずか4つながら、なんと教訓的な言葉が多くちりばめられているではありませんか。こういう指導者たちが率いる政治なら、世界のどの国でも、わが国政でも、国内どの地方政治でも、真に民のための政が行われるでしょう。

ミュージカル「ブッダ」の再公演

14日、一年ぶりに妻と二人、仙北市田沢湖のわらび劇場に向かいました。

毎年4月に行われる初日公演にご案内をいただいていて、今年の演目「ブッダ」は2年前だったか一度観ていたのですが、「もう一度あの演技、彼の演技をみてみたい」と向かったものです。

その彼とは、劇中で、人間と狼の血を引くとされる奴隷役「タッタ」を演ずる三重野葵さんのこと。主人公「ブッダ」役の戎本みろさんの名演技もさることながら、初演のときの三重野さんの演技が二人とも強烈な記憶として刻まれていたからです。

「生きるとは」、「どんな生き方をするのか」を問いかけるのがこの劇の主題のようで、原作を描いた手塚治虫氏が我々に届けようとした思い、人間社会が背負う重い課題を考える2時間ほどとなりました。2回目の「ブッダ」観劇、三重野さん、戎本さんをはじめ、みなさんのさらに円熟した演技を堪能できました。

この日は、僧侶で音楽家の渡邊英心さんのトークショーもありました。渡邊さんは、マスコミなどでもよく紹介されますが、三種町松庵寺(曹洞宗)の副住職。東京学芸大在学中にラテン音楽サークルに所属、海外での活動を経て秋田に戻り、副住職をされながらパーカッショニスト、5人組バンドのボーカリストとして、またDJなどで幅広く活動中の方です。

トークの演題は「アートと仏教」。渡邊氏は響きのいい声音で「仏教は他を認めるもの」という旨をふくめ語られました。それは己と違う存在を認める、寛容の精神ということでもあるのでしょうか。世上には「人の道」に背く出来事が政界をはじめ絶えません。そういう時世だけに、ミュージカル「ブッダ」も、「アートと仏教」のトークショーも、今の時代を見すえた「人はいかに生きるか」の命題で、一条の光として心に響くものがありました。

なお、わらび劇場では8月5日から北前船をテーマにしたミュージカル「北前 ザンブリコ」を公演予定のようで、その主演に三重野葵さんが決まっています。どんなミュージカルになるのか、三重野さんが今度はどんな演技をみせてくれるのか、そちらも楽しみです。

 

野の新芽が次々に

木々の芽吹きにはもう少しの日数がほしいわが集落。私の仕事部屋からは、おかげでまだ葉っぱに視界をさえぎられずに、冬の眠りから覚めた豊かな流れの成瀬川が望めます。

 

我が家の前には成瀬川と小さな清水、後ろにも小沢二つとその水源となる豊富な湧水の清水に恵まれ、山と水辺で親しめる環境がまわりぐるっといずこにも。

堅雪の今の季節は、30分ほどの散策がてらに「はしり」の山菜と出会うのが楽しみです。

 

 

すでにバッケ(フキノトウ)はいただいていて、これは一度だけ旬の香りを楽しめばよし。今は、水辺で早く顔をだしたアザミをめざします。清水の流れる堰(水路)は雪の庇やトンネルになっていて、雪で日光がさえぎられている間に芽をだしたアザミはまだ本来の緑色にならず軟らかな色のまま。やわらかなこの新芽を、朝餉の味噌汁でごちそうになるのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清水の湧口のミズバショウも、固まっていた新芽をようやく解きほぐして苞の白さを見せるようになっています。いかにもミズバショウらしいもっと美しい装いになるのは一週間ほど先でしょうか。


 

 

 

 

 

 

 

野草たちの芽出しは、水辺、日向急斜面、雪崩跡から先に次々始まります。最も早く芽をだすウドザグ(ハナウドの仲間・食べられない)はだいぶ草丈を高くし、ミズ(ウワバミソウ)やハンゴンソウ、各種シダ類たちも新芽を見せていますから、山菜の「はしり」で人気のコゴミもまもなく顔をだすでしょう。

きのう妻は、わざと少し緑になったヒロッコ(アサツキの仲間)を摘んできて、サバの缶詰やユギノシタキノゴ(エノキタケ)をいっしょにしてカヤギ汁にしました。ヒロッコ、コゴミ、ウルイ、アザミの茎、ウド、タケノコ、ミズ等々、サバ缶の出汁は山菜鍋には最高ですね。


 

 

 

半年ぶりにユギノシタキノゴ

キャンジギ(カンジキ)を履かなくても雪原を歩けるようになって久しい堅雪の村となりました。

こちらが子供の頃から、野山や川辺の散策(堅雪渡り)が自由にできる残雪の4月は、一年の中でも最も心がおどる季節のひとつでした。

残雪のある野山は道なしでも雪上をどこにでも向かえますから、子供たちの行動範囲がとっても広かったのです。

堅雪渡りでバッケやセリを摘み、男女児混じり合いで若草を献立にままごとをしたり、柴木を切って釣り糸を結わえイワナ釣りをしたり、同じように柴木で木刀をつくり「真空切りの赤胴鈴の助」だ、「月形半平太」だ、「月形龍之介」だ、「東千代助」だなどと正義の味方の名乗り争いをしてチャンバラをしたのもこの季節です。悪者役はできればなりたくなかったので、たいがいは正義の味方同士の「戦い」です。

毎年今の季節になると、そんな子供の時を思いながら川辺を散策。今は半年ぶりに顔を出している黄金色のユギノシタキノゴ(雪の下キノコ・エノキタケ)との出会いを楽しみ始めています。

このキノコは初冬と早春に発生。冬と春、いずれの季節にも我が家の味噌汁の具として、旬の香りと味覚を伝えてくれるありがたい菌類です。

君たちはどう生きるか を読んで

「君たちはどう生きるか(吉野源三郎著 マガジンハウス刊)」と、同じ著者の原作を漫画(正確にいえば漫画だけでない)で著した同社刊行の「漫画 君たちはどう生きるか(羽賀翔一著 )」の二つの著書への反応の大きさを率直にうれしく思っている一人である。

人の道のあるべき姿を真剣にとらえ生きようとしている人々がこれだけ多くいることを知り、少し大げさかもしれないが、「わが国も、こういう著書に共感する人々がたくさんいるなら、将来は明るいだろう」などとも感じている。

「あまのじゃく」というほどではないが、世の中の「はやり」というものにはまるで無頓着なこちら。たとえば本などを買い求めるにしても、芥川賞や直木賞などと名のつく作品というものが発表された数年間はそのほとんどを読んだことがなく、それが文庫出版される頃になってまれに手にするようなものである。図書館にゆけば二つの新受賞作品ならすぐ借りられるだろうが、そういう流行ものにどうしてか心が動かないのである。

そんな私が、めずらしく「はやり」といってもよいだろう前述の本二つにこのほど手をだした。こういうことは、山崎豊子氏の諸々の著書が発行された時以来のことであろうか。

小学生の頃は、学校図書もふくめ本を読むなどということとはまったく無縁の暮らしで、貧困きわまりない家庭にも本などほとんどなし。雑誌漫画さえ買ってもらえるのは一年にいくらもなく、同級生から借りてたまに読むだけ。だから、おのずと日々のうごきは、川と山とたんぼと畑を駆け回ることだけが多く、そういう暮らしは中学を終わる頃までほぼ同じ。学校の教科書以外で文学本を読んだことなど、おそらくほとんどなかっただろう。

そういう自分の生い立ちがあるからよけい強く感ずるのかもしれないが、こういう著書と小中学の時代に誰でも易く触れることができる今の子たちはほんとうに幸せものと思う。

合わせて200万部以上の発行をこえるといわれるこの二著作。マンガでも、原作でも、もっともっと読み手の輪はひろがってゆくだろう。なぜなら、この著書は、大人から子供まで、その琴線に響く永久に変わらぬ「人の道のあるべき姿」を問い語りかけているから。

こういう著書を読み感銘をうけた子たちなら、今のように国政を揺るがすような大事から世間万般の悪事を含めて、あのような卑怯な生き方は決してしないだろう。彼ら国の為政者にこそ、たとえば仏教の言葉を引けば忘己利他の心がより求められるのに。彼の為政者の方々はそういう徳や人の道を教える著書に子供の頃から多く触れられる環境にあっただろうが、果たして「君たちはどう生きるか」など徳を育む本を読まれた方々なのだろうか。

さて、村の図書館にもこの著書はおかれてある。近場の書店にも売れ行きが好調なのだろう、いっぱい積まれている。まだお読みでない方へは中学生も含め是非おすすめしたい。漫画(文章もある)もとてもいいが、原作はやはりより深く著者の心を理解できると思う。

久方ぶりに津波被災地へ

東日本大震災で津波に襲われた大船渡市。あの時、大船渡湾すぐ近くに住んでいた親戚筋の家にお見舞いを兼ねてたずねた始終を幾度かお伝えしたことがある。

そこで目にした被災直後2011年4月1日の大船渡湾に接する街と、ズダズタに切断された鉄道。それから南下しての陸前高田市、街全体が壊滅、山際に押し流された住宅やガレキのそばで消防団員などのみなさんが行方不明の方の捜索をしていたのだろう、懸命の活動をしていたあの日の人々の姿が私の記憶に深く刻まれている。

被災から丸7年たったその大船渡と陸前高田へ、遠野の里経由で向かい、二つの街の今の様子を目にする機会が去る8日にあった。震災後に幾度かこれらの被災地を訪れ、大船渡には村議会でガレキ撤去などのボランティア活動にもでかけている。当時のあの日も思い起こし、時折車を止め、湾の北岸になるその作業した場所方面も見つめた。


大船渡は、震災のことを知らない方がこの街を訪れたら「ここが津波で被災した街」とは考えられないほどに津波の爪跡を直接感ずる景観はほとんどなく、新しい街となっている。

あの時初めて被災現場を目にし、惨状に息をのんだ破壊された建物と車はもうとっくに片付けられていたのだが、ズダズタになっていた鉄道も今はなくなり、そこは舗装道路になっていた。これが鉄道に代替えするJRの「バス専用道」というものだろう。被災跡にもすべて道路がつくられ、新たな各種の建築物も建ち、湾に隣接していて大打撃をうけたであろういくつかの水産加工場なども、新たな装いとなり稼働しているように見えた。

湾のそばの山岸ではヤマザクラがこの日満開で、ソメイヨシノも咲き始めていた。湾に接していて整備された新しい公園風土地の一画では、日曜日とあってイベントが開催されていた。市内の水産加工場ではたらいているのだろうか、買い物がてら街を散策しているように思われる外国人労働者(中国の女性たちか?)らしい方々の姿も歩道に見られた。

一方の陸前高田市は、街中心部全体が津波にのみ込まれただけに復旧に要するあらゆる計画規模がケタ違いのようで、盛り土による街の土地全体のかさ上げが終わり、そこにはまだ新たな建物はごくわずかの様子。津波の爪跡こそ見えなくなったものの、旧市街地は地盤かさ上げ盛り土整備されての更地状態なので、津波で街がすべて消えてしまった被害規模の大きさがすぐに想像できる。復旧も、復興も、要する力と年数がここは並でないのだ。

被災地から離れた気仙川上流域などにはまだ被災者の仮設住宅が並ぶ。復旧・復興がより困難な原発事故被災地もそうだろうが、7年経ってなお、三陸でもまだ「元のくらしはこれから」の方多しなのである。被災から7年目の三陸に、早めのソメイヨシノが今週には満開となるだろうか。緯度はほぼ同じなのに雪などまったくないうららかな北上山地と海沿いの春の風に触れて後の夕刻、奥羽の山なみに入ったら淡雪が舞い、雷鳴がとどろいていた。▼津波被災の写真は、2011年、4月1日午後の大船渡市と陸前高田市の一部。

 

▼津波被災地のことを記していたきのう、島根で震度5強の地震発生が報じられた。被災地のみなさんへお見舞い申し上げるとともに、これ以上被害の拡大がないよう祈りたい。

地震列島、火山列島、豪雨列島、台風列島の今世紀は、忘れる時などないほどに災害が頻発している。とりわけ、地震と、豪雨による土砂災害への備えはわが村の最大防災課題。家々や集落の自主防災へのつとめは当然として、行政としての防災、災害時対応にぬかりのないよう万全を期さねばとの思いを強くしている。それとともに、関東圏や太平洋沿岸部を襲うとされる大地震の際、全国の農山村、地方が果たすことになるだろう支援と存在そのものの役割も想定しながら、だからこそ、国政は国土の均衡ある発展をはかってほしいものだとも思っている。大地震はいつ起きても不思議でないとされているのだから。