村内各集落のくらしをささえる用水路は、先達の苦労をしのぶうえで「生活遺産」とよびたいほどに貴重なものです。
それら数ある用水路のなかでも、椿川間木集落の開拓とむすびついた「間木堰」は、最も困難な山ひだと崖を堀り通してつくられた「堰(用水路)」で、村人の苦労を知る上で欠かせぬ歴史構造物です。
先年、機械力により大幅改良工事が施されていますが、堰そのもののコースはほとんどむかしと同じです。その間木堰を、去る11日に取水口まで訪れ、そばの滝にも下りてみました。深山でありながら里からすぐに行ける明通沢は、沢の景観も伐り残されたブナの森も素敵なところ。合居川、北ノ俣沢、赤川とならび魅力あふれる渓谷美がいっぱいです。
さて、間木堰が完成したのはいまから101年前。前後5年の歳月をかけて約3.6㌔㍍の堰が大正6年(1917年)5月26日に竣工したと村の郷土誌は記します。
明通沢から初の水が引かれたときの喜びはいかばかりだったでしょうか。もちろん当時は機械力はなし、ほとんど手掘りだけでの作業だったのでしょう。垂直どころか、逆にかぶさるような堅い崖をタガネで堀り、いくつもの小沢を横切りこれほどに見事な水路を掘削した当時の人々の、生きるための堅い意志にはただただ敬服するばかりです。
それは、困難の大小にかかわらず、ほかの村内各集落の用水路掘削の歴史にもいえることです。ただ、間木堰はやはり掘削の困難さでは特別だったことが、この水路を歩いてみればよくわかります。堰の延長と構造の条件をみれば、掘削後の維持管理にも想像をこえた難儀さがあったことを推し量ることができます。
こういう苦労を体験した方々ですから、その後の時代変化の荒波も「これぐれぇの難儀など、なったごどねェ(どうってことない)」と越えられることができたのでしょう。「若い時の苦労は、必ずためになる」といわれてきましたが、苦労の体験があるとないでは、人の器にも、地域の文化にもそうとうのちがいがでてくることは今も同じようです。
古代の歴史を探り知ることも大事です。同時に、水を引き田を拓いた近世の歴史もすぐそばに堰という「くらしの遺産」があり私たちは学べます。生きた証人が幾人もおられる戦争をはさんだ苦労の歴史も、今なら直接学ぶこともできます。ひろく先達の苦労の歴史をみんなで語り伝えていきたいものです。