子どもの時分をしのぶ3月

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▼同じことを幾度も記す。わが家の前後ろはむかしの子どもたちの小さな天地だった。

前には、成瀬の本流(むかしは、流れが大きく二つに分かれていた。)があり、合居川の大きな支流と二つの小川が合流。そこには昔は農地であった広い河川敷がひろがる。方を変えれば、東の小高い森には時々紹介する二つの小さな祠があって、社地はむかしの子たちが遊びでたむろしたところ。

社の一つは今も「三吉様」として祀られ、B家が永年にわたってまもりつづけているが、写真奥の上方にあるもう一つの社は守り役が絶えて久しく、荒れたまま。むかし、その祠には、奉納されたのか獅子踊りでつかう獅子の頭(かしら)が置かれていて、祠の戸を開けると、うす暗がりの中で獅子頭の光る目は子供らをグィとにらみつけた。懐かしいそんな思い出があるだけに、荒れたままの祠を見るのはしのびない。

CIMG9967-1昔の子たちが二つの祠を根城にわけて、そばの柴木からつくった「木の刀」で果たし合い、殺陣遊びを演じたのもこの小高い社地。そしてその遊びの始まりが、3月の今の頃から。

演ずる斬り合い遊び(チャンバラごっこ)を、子たちは「ただがいっこ(戦いっこ)」と呼んだ。「名をなのれ」「あかどう・すずのすけ、だ」「月形半平太、だ」。二つの刀をもてば「みやもとむさし、だ」。長い刀をもてば「佐々木小次郎、だ」。「斬り合い」の末、二つに分かれた敵味方集団のうちの誰かにたまたま「刀」が強くあたるもので、最後にはその誰かの痛みの大泣きで遊びの楽しさがしぼみ「ただがいっこ」はいつもそこで終わり。

もちろん保育所など村のどこにもなかった時だから、山の子たちは自分で野の遊びをつくりだした。それからおよそ60年近い。祠のそばには私が毎年おいしさをいただく実をつけるシラグヂ(さるなし)の蔦がある。

CIMG9965-1幹回りおよそ50㌢。村のあちこち(赤滝の周囲はとりわけ多い)にはそれよりさらに太いシラグヂがいっぱいあるが、人家のすぐそばでこんなに太い蔦はそうは見られないだろう。このシラグヂは、まだ幼い頃に、そばの社地からきこえる子たちの声を聞き、動きをみながら大きくなったのかもしれない。もしかして、先日64の齢となった私と同じほどの戦後の年を生きてきた蔦樹なのだろうか。

CIMG9963-1▼きのう、所用で横手に下った通りすがり、よく目につくようになった真人山のマンサク花が咲く柴木に立ち寄りました。花のそばには小さな石塔があります。昔、真人へぐりの難所にむかうひとびとを見守りつづけた塔なのでしょうか、土地の人々の手で大切に安置されている跡がしのばれました。

 

 

CIMG9959-1桜の開花予想は並よりやや早めを告げられています。ここのマンサク花がいま満開ということは、並の年なら3月1日頃だった開花が今年はやや早めだったのかもしれません。