▼父が亡くなって100日目となるきのう、百ヶ日法要(卒哭忌)をごくごく身内でおこなった。
人生には、よろこびや悲しみがつきもの。哭(な)くという字をあてられる悲しみは100日ほども経たないとなかなか消えてくれないということから、儒教や仏教はこうした区切りを考えたようだ。
ただ、朝、昼、夕と、幾度も仏壇にむかい父の遺影に話しかけている母には、100日で涙から卒することは、やはりまだできないようである。
妻は、仏前にそえる毎朝のお膳に、きのうはいつものご飯に加え、納豆汁といくらかの菜ものなどを添え、小皿には、しょうゆをそっとさした。その時の妻のしぐさを見て、家族としてはあたりまえのことかもしれぬが、私は「しょうゆまでさしてもらって、仏様は、幸せだなぁ」と、なんだか、胸にじんときた。
人の命が亡くなることに比較などはもちろんできないし、同じ法要でも、長寿で大往生され、天寿を全うされた方の百ヶ日と、事故や災害、あるいは夭折、ましてや殺められて亡くなられた方の百ヶ日では、哭くことから卒する心置きにはそうとうのちがいがあることは否めないだろう。
戦争しかり、大震災しかり、津波被災しかり、土砂・洪水災害しかり、交通事故や病魔の蝕みしかり、そして、殺められての悲業しかり、100日どころか、何年たっても、その悲しみ、悔やみ、怒り、憤りの消えぬ人々の別れがあることに寄せる心を持ち続けたい。
▼今日から3月定例会議がはじまるので、きのう、税の申告を済ませた。毎年同じことをのべていると思うが、わが家は、経営規模にふさわしくない機械や施設をなんだかんだと揃えているので、農業部門の赤字はほぼ固定状態。
それでもなんとか稲作りをつづけているのは、「自分のつくったおいしさ抜群のあきたこまちをたべたいから、それを待っている縁者に食べさせたいから」。体がつづく限り、赤字覚悟で私はたんぼに向かい続けるだろう。