歴史を偲ぶ赤滝神社の奉納物

村の郷土誌は、わが村に人々がくらしていた歴史の証としての石器や土器などから、岩井川矢櫃に旧石器時代の後期、約一万年前(それは約1万3千年前らしい)の人々のくらしの痕があることを記している。約8千年前にさかのぼるとされる北ノ俣沢入り口のトクラ遺跡は成瀬ダムに沈むが、このほど考古学に造詣の深いS氏からお聴きしたら「県内で最も標高の高いところで発見された遺跡」ということである。

「世界最大級」といわれる縄文時代の大型磨製石斧が発見された上掵遺跡のあるわが村も郷土誌はロマンを込めつつ重厚に記す。さらに歴史をもっと下って江戸になれば、村内にも様々な神社が建立されたことを郷土誌は記す。

とりわけ歴史の重みと文化・芸術性で私たちの目を引き、このブログでも度々ご紹介してきた社は、下田の志茂田神社、田子内の天神社、平良の山神社、肴沢の八坂神社と山神社で、それら神社の彫り物「すまっこしょい(隅っこ背負い)」とよばれる力士像や下田神社の雅やかな彫り物などは、貴重な文化財ともいえるものであろう。

村はそれほどに、歴史の宝が多く遺されているところで、それらの中には、成瀬ダム建設事業により先般「遷座」が行われた仁郷台地の「赤滝神社(安永7年建立と棟札は記すとされる)」も加えられる。今からおよそ240年前に建立されたとみられる社である。現在の社はかなり改築が重ねられた後のもの。

先月にご神体が「遷座」されたその赤滝神社にきのうまた向かう機会があった。いつもの赤滝の写真撮影とちがい、目的は神社のなかに遺されている人々の奉納や参詣などの証痕を知るためである。元神社は今月中に解体される予定。なので、社のなかにあるそれら納め物を一時保管し、神社にちなむ人々の歴史をより深く知るために一回目の観察が「神社を保存する会」の会長さんらによっておこなわれたのである。

小さな社(ご神体がすでに遷座しているので、正確には社であった建物)の扉が開けられ、ご神体が鎮座していた本殿の奥所には、江戸の文化年間を記して奉納されたと思われる木彫りのキツネ像や、年代不明のやはり石彫りのキツネらしい(お稲荷さんの狐か、すぐそばに狐狼化という名の山もあるから狼像か?)像、彩色がほどこされている龍らしい木彫り像、小さな石彫りの像、幾本かの掛け軸や幟らしいもの、祭祀の際に用いられたのだろうか、江戸の弘化二年の文字が書かれている木札など年代モノがたくさん納められていた。

社の中には、「赤滝」や、右から読むようにして「社神滝赤」と書かれ、あるいは彫られた奉納の額や見事な彩色の絵馬額も何枚かあり、それらからも、この社がもつ歴史の重みを偲ぶことができた。

そして、「えっ、これは!」と一瞬驚いたのは、古びた木箱に入れられていた木彫りの女性像。それもやはり彩色されていて、お姫様が身につけるような雅やかな着物をまとっている像なのである。その像を目にしたら、どなたでも伝説の能恵姫を想像するだろう、そういう木彫像も出てきたのである。

小さな社だが、あんな狭い空間から出てきた出てきた人々の多くの生きた奉納・参詣の証。今回は一度目の観察だが、解体前にまた歴史の証の観察は行われる。そして最後の解体時にも、それら小さな遺産はていねいに観察される予定である。

いつか、それらがみなさんの眼に直接ふれられる時がくるだろう。お楽しみに。

▼しばらくは来れないだろうと、滝壺脇の発電所跡の構造物(林業労働者で仁郷の集落がにぎやかだった頃使われたのだろうか)や9月初めの赤滝の流れにもカメラを向けた。伝説では、昔の人々は参詣の際、滝壺にもひねり初穂やお供えの餅を投じたと郷土誌は記す。
今は、滝壺に向かって御神酒や賽銭を献げ礼拝する参詣者の跡があり、それにもカメラを向けた。

滝壺脇の左岸には、何百年もの間の流れや洪水で河岸がえぐり取られ、根を河床にかぶさるように空にさらしていたミズナラの樹があった。

この十数年間、滝に通い写真を撮る度にその根が「いつ崩れるだろう」と見つめていた。それが、今年ついに根から幹まで全体が崩れ落ちて川原に横たわっている。神社はいま解体されるが、おそらく神社の建立時あたりから滝とともに時代をきざみ続けてきたであろう古木だ。ミズナラは自然によって倒れたのだが、神社の遷座とともに命を終えたこと、ひとつの不思議な偶然を感じ、横たわる古木を写した。

社のまわりや赤川沿い一帯はブナやミズナラの宝庫。秋になればそこらはマイタケやナメコなどをふくめキノコの楽園となる。境内にも毎年「アカヤマドリ」という大型のイグチ科のキノコが顔を見せる。きのうも、大きくなりきっていた老菌から、食べ頃の幼菌が鳥居のまわりで見られた。ここでのアカヤマドリとの濃い思い出も、私の記憶の隅にあるのです。