道跡から歴史をしのぶ

土曜日、物置小屋の雪下ろしついでにわがたんぼ脇の里山にあがってみました。

ここは積雪が1㍍を優に超えています。たんぼがあるカドリノ(川通野)の台地は古来から椿川・手倉地区と結ぶ道があったところ。その台地より先の大部分はいま杉の林になっていますが、道筋跡は冬になると藪が雪に押さえられますからこのようによくわかります。

今のように道路が川のすぐ脇を通るようになったのはいつの頃なのか私にはわかりません。村の郷土誌には、明治12年(1879年)1月に調べられた地図が記載され、明治24年に椿川村が豊ヶ沢の弘法下を七拾円で売り、その代金で新道を開削したらしい旨は記されています。新道が通れるようになったのがその年なのかはわからないのです。

ともあれその旧道、村道55番目の指定とされている柳沢線は、大部分が山道のままで、手倉越(仙北道)をのぞけば昔の人々の踏み跡がすぐ近くで偲べるところ。

源義家、義経、そして平泉藤原三代の礎を気づいた清衡、さらに高野長英、禁令の頃のキリシタン、戊辰戦争に関わった藩兵たち、蓑虫山人等々、この道を通った、あるいは通ったであろう人々の踏み跡にまつわる私のロマンはどんどんふくらみます。ここで、一服しただろう、ここの水で喉をうるおしただろう、義経主従はそのときどんな会話を交わしただろうなどと。

さて、話題は少し脇へとびます。その踏み跡近くの平たい峰一帯は、石のほとんどない赤土の厚い層です。そこは土が軟らかくて掘りやすいものですから、アナグマのつくった巣穴が集中して見られます。このことは毎年お伝えしていますが、アナグマは現在冬眠中のはず。ということは、厳冬の季節にも厚い雪に穴を通し土穴から出入りしている生きものの跡は、アナグマの穴を間借りしているムジナ(タヌキ)ということになります。

種の違う同士ながらアナグマの掘った見事な地下すみかの一部をタヌキが使わせてもらっているのはよくあること。今度、足跡を正確に観て、現在の穴の主を定めようと思います。

写真の集落はわが地元部落の遠景です。一番近くでほぼ集落全体を見渡せる場所でもあるので、毎冬一度はここに立ちます。

▼この日、家の玄関から向かいの山を眺めたら、雨天のなかで立ち止まったままのアオシシ(カモシカ)が目に入りました。600㍍ほど前方ですが、老眼のこちらも遠くへはまだ目が利きます。

双眼鏡でのぞいたら木の芽か常緑の草を食べている様子で、1時間近く同じ場所に立ったまま。はんすうなどのために長時間座って休むことはよくあるのですが、立ち姿で一点に長くとどまるのはめずらしいこと。きっと、よっぽどおいしい食べ物があったのでしょう。