先日の通りすがり、なんとなく肴沢の二つの神社が気になり境内に足を向けました。
そばにありながら「彫りものの飾りがなかなかのもの」というその実物をながめたことが一度もなく、いつか立ち寄ってみたいと思っていたからです。ところが、その時写したカードをどこかにしまい忘れ、「もう一度」と今朝また立ち寄ったらもう社は固く冬囲いされ彫刻は見えません。春の芽吹きのときにでも、見事な中身をご紹介いたします。
そんなに大きな集落ではないのですが、見事な飾り彫りで造られた社を二つももつ肴沢集落。村郷土誌によれば、この地区の南方前山沢、元山沢目一帯は、県内有数の金、銀、重晶石のやま(戦後バリュウムの需要増で重晶石は昭和25年頃国内最大のやま)として藩政時代から戦後まで時々の閉・休山をはさみながらも栄え、多いときには600人(大正年代)もの人々が働いたと記します。肴沢はその前山や元山鉱山の根城となった集落。だからでしょう、八坂神社と山神社は、そういう特異な歴史をうかがわせるつくりです。
本題からはなれますが、肴沢については村郷土誌がつたえるなかに私の興味を引いた別のことも記されています。それは鉱山の精錬に用いた動力源のこと。
郷土誌は「用水について、選鉱に供する水は選鉱所を遡ること三0間の渓谷から木樋を以て之を導き、また精錬用水は南方五町余の渓谷から山腹に沿い、木樋を以て導き、供用した。」と記します。私が注目したのはそれに続く以下の部分「さらにこの用水を利用して上射水車二台を設置した。一は径二三尺七馬力、他は径一八尺五馬力で、鉱業所内の諸器械を運転する原動力となった。」これで一日三千貫(約11㌧)の鉱石を選鉱したというのです。上射水車とはどういうものかわかりませんが、小型水力発電で必要な動力をまかなったということに注目です。
境内に立てば、やまが盛りだった往時の人々の声と姿が、すぐそばに聞こえ、見えるような覚えにとらわれます。当方の亡き祖父の日記にも、昭和の頃、自分や家族が肴沢の鉱山(カネやま)で鉱石運びや木炭扱いの作業などにあたったことが記されています。亡き父も若い頃、部落の人々と同じようにカネやまに働いたことがあると聞きました。
▼村のパンフレットでも紹介されていますが、ほかにも、平良や下田の部落の社など、飾り彫り物で名の通った社が村にはまだまだあります。