平成最後の年を振り返って(その2)

花の百名山として知られる焼石連峰。毎年、初夏の花々が盛りとなる6月10日頃に私は山をめざします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村の直売所に春の山菜たちがそろそろ終わりを告げる頃、店のお客さんが「こんなキノコあったよ」と、普段は見かけないかたちのキノコを置いていったそうです。しらべてみたらそれは「チョレイマイタケ」というキノコ。マイタケほどではありませんが、立派な食茸です。めずらしいキノコなので、記録しておきました。

 

7月、春の山菜が顔をひそめたこの季節になると、山菜の主役はミズ(ウワバミソウ)にとって代わられます。味にクセがなく、しかも適度の粘りもあるミズはどんな料理にも向きのすぐれもの山菜。春から秋まで利用できて、しかも里山から深山とどこでも手軽に採取できる山菜なので、山ぐらしの人々にとってはとってもありがたい野の菜です。そのミズを背負うのは、88歳になる私の母です。

新じゃが芋が食べられるようになるのもこの頃。芋掘りは、農家の出身ならたいていの方々が子どもの頃の思い出をお持ちでしょう。我が家では、一年中食べるそのじゃが芋つくりも主に母の仕事です。

 

雪解け水も終わり、川の水もぬるむ季節となる7月は童と川辺を散策。カジカ捕りが始まるのもこの頃からです。夏の空にはカンゾウの花もお似合いです。

 

 

 

 

 

市町村の6月議会が終わる頃から、村への教育行政視察で各地の議会の方々がお越しになります。今年7月には、秋田の伝統ある地方出版社無明舎の代表、あんばいこう氏による「学力日本一の村」という著書も発行されました。売れ行きも好評のようです。それもあり、来年も多くの視察の方々が村をおとずれるでしょう。

 

春、初夏、夏、初秋と焼石連峰の花にはいくつものピークがあります。8月初めからお盆前頃は夏の花が盛り。大きなサグ(エゾニュウの仲間)と小さなミヤマリンドウ、それにハクサンフウロ、ハクサンシャジン、トウゲブキなどがこの山ではよく目立ちます。今年は、空高く舞う猛禽類も目に止まりました。羽の内側にある左右黒い2つの模様が特徴です。これはなんというタカの仲間でしょうね。

 

7月末から8月はじめ、稲田の緑がぐんと増した田んぼでボンアゲズ(盆秋津・アキアカネ)の羽化がはじまります。先に羽化したオニヤンマも動きを激しくしていて、飛び疲れた体を一休みさせていました。

 

盛夏は童たちとの川遊びの季節。年々、童たちが成長してゆきますから、こんなことがいっしょにできるのもあとわずかでしょう。

 

 

 

 

 

7月の暦をはがす頃になれば、キノコだよりのはじまりです。今年は、まず仙北街道の踏査で、栃川をのぼる途中にヒラタケ(ウスヒラタケ?)大群生のブナの立ち枯れと出会いました。群生が特徴のキノコですが、これだけの姿はなかなかお目にかかれないほどのお見事さでした。

8月も半ばとなれば、ピンク色のハギモダシ(ハナホウキタケ?それともベニホウキタケ?)が真っ盛り。このキノコは、食べられると記す図鑑がありながらも、結論はどのガイド本でも毒種、または食不適とされています。村のキノコ通の人々はごく普通の食茸として遠い昔から親しんできました。食べた方の体質や生育環境によって毒作用があらわれるともいわれますが、我が家の家系筋では一度もそういうことがありません。不思議といえば不思議なきのこです。ガイド本によって現物と名前が違って記されることの多いキノコでもあります。もっと科学的な統一された見解がほしいものです。

 

河岸段丘のわが田んぼが実り色に輝く頃の9月半ばには、ネズミハギモダシ(ウスムラサキホウキタケ)、ハタケシメジ、アガキノゴ(サクラシメジ)と、名を上げられる食茸の仲間が急に増え始めます。毒種?の真っ白なシロオニタケの芸術的な風貌とも出会いましたので記録しておきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼岸の入りからは、マイタケをはじめ、もうキノコずくめの便りが続きます。今年は、真っ白で柄の長いヒラタケや、自宅周りのクリの木やミズナラでマイタケと出会うなどめずらしいこともありました。童がかかえているのは栗の木に出ていたそのマイタケです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深山ではオオワライタケ(毒種)の幼菌がいいかたちで出ていたので、しばらく眺め続けました。食べる楽しみのきのこ、採る楽しみのきのこ、見て楽しみのきのこ、それぞれの趣があってうれしいのも、キノコに私が惹かれる理由でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔から、狩猟、きのこ採りと私が通った明通の沢。ここには断崖絶壁の難所をきり砕いて通された間木集落の命をささえ続けた間木堰と呼ばれる水路があります。その取水口に立てば、大正のはじめ、前後5カ年を要して完成したという堰づくりに精を尽くした人々の苦労がしのばれます。

この地の開拓を提唱した高橋佐吉氏を讃え、集落には報徳碑が建立されています。村の郷土誌は、(高橋佐吉翁伝より)として、佐吉翁の風懐をあらわした「間木の野に 田畑ひらきて 家建てて 無くて叶わぬ 水の神様」「その昔 きつねの住みし 間木の野も 今朝は九軒の村となりけり」の歌を引用し紹介しています。

今年は、成瀬ダムの本体工事着工式で小学生を代表して高橋杏翼さんが期待の言葉をのべました。間木集落に住んでおられる高橋さんは「九軒の村」のうちの末裔のお一人です。その彼が先の「歌」にふれながら水不足解消に苦労した先人の努力に学ぶことの大切さを語りました。歴史の不思議な偶然でしょうが、一年を振り返りながら、そのときの様子を今私は思い浮かべております。