還暦を過ぎる頃になると、この先健康寿命を刻める自分の余生年を考えるからだろうか、「とし(齢)とれば、しとづぎも(ひと月も)、えぢねんも(1年も)、たづなぁ(経つのが)、はゃー(早い)」となる。
そんなわけで1~3月はあっという間に過ぎた。昨日は、村が直営で除雪路線を確保するため冬期だけ除雪活動に勤める方々が、「今期は今日で終わりです」と一同であいさつに来られた。冬期除雪を終えた4月からは、県から委託されている国道342号の春山除雪に入り、須川温泉・栗駒山荘の開業に備える。国道397号の春山除雪も彼らが担う。
年度入れ替わりもあるが、議会の任期も今月29日まで、早改選の月入り。そういうことがある中、わが議会事務局長が先の異動で総務財政課長に就くこととなった。こちらも、任期内になんだかんだと締めくくりをつけておかねばならぬことがあり、二人であれこれの整理に時間を割く時が続いている。さすがに、入園式以外は公務の会議は今週はない。
きのう、カトリノ(川通野)のわがたんぼそばにある国道沿いの小高い地にゆるりとあがった。平安の古代から江戸を経てその後いつの頃までだろうか、この小高い地は仙北街道や椿川、桧山台方面にむかう古の道として永く歩かれたところだろう。たんぼ脇の道はただの農道ではなく今も旧村道で「赤道(アガミヂ)」となっている。
この地のすぐ先にはジュネス栗駒スキー場から落ちる柳沢がある。成瀬川沿いは今は国道やたんぼ、家屋もあるが、昔のそこは本流が大きく蛇行し断崖の下にはいくつもの大淵があったのだろう。だから、昔の道は、合居川を越えるとまずはカトリノに上がり、柳沢の出口方面に向かったようで、断崖の上には、数十年前まで歴史をしのぶ旧家があった。村の郷土誌が記す藩政時代の手倉川原村地図の最北をみれば、当時の成瀬川蛇行の様子がしのばれる。もしかしたら洪水の時以外は断崖をへぐるようにして崖下を歩いたのだろうか。
つまり、この地は、何百年間も村や奥州の人々が踏んだところ。奥六郡を支配した平泉藤原氏の祖、藤原清衡は、後三年の役で仙北街道(手倉越・中山越)を往復したと郷土誌は記す。晩年、都から平泉をめざした逃避行の義経も、成瀬川を右手にみながらこの地を通り、ブナの森の手倉越を経て平泉に一時の安堵を得たのかもしれない、などと私は勝手なロマンをこの地に描く。147年前の戊辰戦争でも「水沢藩兵は手倉越(中山越)を経て退却しているがその人数は文書にはない。おそらく数百人と思われる。」と村郷土誌は記す。仙台藩、南部藩の襲撃や退散もふくめ、維新の歴史の踏み跡もこの小高い地にはある。
その崖地はブナ、ミズナラ、カタスミなど、300年近いのだろうか最高樹齢を数える木々が、春の萌え、秋の紅葉を彩る景勝の地。藩政の人々、戊辰の役の人々の息づかいと往来、騒ぎをも知っている木々である。この断崖の地の下は硯滝(すずり滝)。滝の上には小さな窪地が見え、そこは、むかし私の生家のたんぼがあった所で、往時をしのぶ跡が今もある。眼下の成瀬川を眺めていたら、頭上にタカのつがいがいて鳴きを交わしていた。