「ポスト真実」

ある発言や出来事、政策をとらえ、それを事実としてメディアや対立する陣営が伝えたかと思えば、当事者である一方はそれを「ウソ」だという。内外を問わずリーダーと呼ばれる方々の発言と報道をめぐって「それでは真実はどうなのか」ということで疑問の湧く日々が昨年あたりからとくに多い。

事実でない偽りの発言、主張、あるいは報道をどちらかがしているわけであり、こういう偽りの積み重ねは、偽りを繰り返した側に反省をしなければならないかたちで重い負荷となって戻ってくる時がいつかあるのだろう。

昨年、世界で一番注目を集めた言葉として、オックスフォード大学出版局の辞典部門は「post-truth(ポスト真実)」を選んだという。その意味は、「世論の形成において、客観的真実が感情や個人的な信念への訴えかけよりも影響力に欠けている状況、またはそれに関連した状況を表す言葉」と定義されているそうだ。

つまり我々の感覚でいえば、事実、真実でなくても、世論うけした言葉を発して支持を集める、あるいは偽りで世論誘導するというぐらいの理解でよいのだろうか。「ポスト真実」は、イギリスのEU離脱や米大統領選などでの現象をとくにとらえてのことのようだが、似たような現象は現世界に多くあるし、実は過去の世界にも多くあったのではないか。

「ポスト真実」の言葉で考える世界の歴史。その代表的な現象は、世界の現代史に深く刻まれる政治による国民の大量虐殺を為した、あるいは現在も為している事例であり、もう1つは外国への侵略によって他国民を虐殺した戦争の歴史であろう。政治の偽りはやがて強権(弾圧法)とセットされ、究極の行き着く先は反対者への殺戮として歴史に刻まれた。

「ポスト真実」、このこととの関連で考えさせられた著書がある。もちろん「ポスト真実」という言葉などまだ流行でない平成21年に著された書だが、それは昨年文庫版として再び世に出た東大教授・加藤陽子氏の著書「それでも、日本人は「戦争」を選んだ(新潮社発行)」である。

著者の加藤氏は、文庫版の前に著した「もとの本(朝日出版社刊)」のおわりで記述した言葉を文庫版のあとがきでも引き次のように記している。一部を太字で引用してみたい。
もとの本の「おわりに」で、私はおおよそ次のようなことを書いています。いわく、私たちは、現在の社会状況に対して判断を下すとき、あるいは未来を予想するとき、無意識に過去の事例を思い出し、それとの対比を行っています。その際、そこで想起され対比される歴史的な事例をどれだけ豊かに頭のなかに蓄積できているか、これが決定的に重要です、と。今の時点から振り返ってみても、この「おわり」に記した認識に基本的に変わりはありません。むしろ、日本という国が歩んできた過去の歴史、また国と国とがぶつかり合った戦争の歴史を、中高などの年齢が若い世代、中高年などの気持ちが若い世代に、ますます広く知ってもらう必要があると感じるようになりました。真実を知らねば、です。