花の百名山・焼石岳(その5)

下りてきたら青空の範囲が多くなったので、朝とはちがった焼石沼風景を眺める。30㌢クラスのイワナもふくめ次から次へと岸辺にも寄る。越冬でおなかを相当空かしているのだろう。エサをもとめて必死の様子だ。

今から30年ほど前の1990年9月2日の山行の際、この沼で釣りをしていたある青年がいた。当時の沼にもイワナとともにニジマスが見られ、むしろ釣れるのはイワナよりもニジマスのほうが多い年が長く続いた。その青年は、古来から沼に棲息のイワナではなく、放たれたニジマス釣りをめざして来たのだ。ニジマスは短角牛の放牧に関係する方々が稚魚を放しそれが自然孵化して増え続けたもの。我々が子供の頃、昭和の時代のことである。青年はその日62㌢のニジマスを釣り上げ岸辺で泳がせていた。写真はその時の記念の1枚で、新聞記事に載せたものである。青年は「刺身が最高だろう!」とこちらに語った。

放流されて以後のニジマスは自然孵化を長く続けていた。沼のほとりに建つ赤ベゴ(短角牛)放牧組合の監視小屋では、沼や沢で獲れるイワナよりも多く小屋泊りの方々の貴重なおかず、晩酌の肴として利用された。子供たちの竿でもいいかたちのニジマスがよく釣れ、夏休み、小学生だけでの焼石キャンプでも、焼いたイワナとニジマスをよく食べた。

そのニジマスの子孫は現在も棲息している。イワナは大小泳ぐ姿がとても多く目に入るが、ニジマスはなかなか岸辺では目につかない。数は少ないだろうが30年前のような60㌢を越える大物がいるかもしれない。こうなれば、漫画の世界に出てくるような高原の沼に棲む「幻のニジマス」と言いたくもなる。イワナは水面にうかぶ何かを食べるのだろう、時々水を緩く跳ねる音がし、所々でその波紋も広がる。

沼の分岐には先に記した4人の登山者がいる。こちらと同じ年代ほどの方々とみえる。昼食をとったらしく、これから上をめざすようだ。岩手からの方々だという。男性3人、女性1人のグループで、「林道の方から入ってきた」と告げた。焼石には通い慣れた方々のようだ。こちらのように早朝に来た時間とちがい、除雪作業などのための「立ち入り禁止」の閉鎖が解けた後で、三合目登山口の駐車場(ンバシトゴロ・姥懐)まで車で上がってこられたのだろう。

少々の会話の後に下り、雪に覆われているタゲのすゞ(湧水)の流れから大小のペットボトル2本に水を詰める。焼石山行恒例の妻への清水のお土産だ。昔は妻や子たちとの家族連れ、友人一行の家族連れでよく泊り通いした焼石だが、いまの妻にこれだけの距離を歩くのはムリ。土産の湧水はいつも妻のコーヒーで飲まれる。

なごり惜しくキヌガサソウをまたしばらく眺めてサヨウナラをし、ブナ林に入ってすぐにムラサキヤシオツツジの素敵な花びらの前でも立ち止まる。

と、そのすぐ後のことであ る。残雪のある登山道から三界山に目をうつしたら、斜面の濃い緑の中に妙に黒い一塊の色がある。長年のクマ狩り体験と勘から「おかしいな?」を直感。三界山頂上直下の濃い緑は主にサグ(エゾニュウ・ミヤマシシウド)で、茶色がかった薄い緑はネマガリタケノコの出るチシマザサ。いずれもこの季節のクマの大好きな食べ物のある斜面だ。「黒い一点は、クマだ!」とにらんだ直後にその黒い塊がブワーと大きく横に拡がった。まちがいなくそれはクマ。エゾニュウの茎を食べながら斜面をゆっくりと横切り東へ移動中だ。大きいクマだ。

雪崩れて雪解けの早い斜面のサグは草丈がかなりのびている。クマの全体像はそれに隠されよくとらえられず、手持ちの望遠でなんとかその一部の姿を写真におさめた。4年前の6月にもこの斜面下の雪渓で大きなクマを目撃し写真にしているが、それとさほど変わらぬ手足や首の太さ、風格ある胴体周りの大熊だ。

見ていたら下山してきた岩手の方々とまた居合わせたのでクマの存在を知らせた。彼らもカメラを向けている。クマがどんな動きをするか「ほおーッ、ほおーッ」と大声を何度もたてて叫んだが、クマはその瞬間こちらを振り向いただけ。クマがこちらを向いている写真はその時の一枚である。後はいくら叫んでも平気の平左で食事に専念している。声は届いているのでこちらをわかっているが、人など完全に無視だ。こういうことはよくある。長年、世間を渡り歩き生き抜いてきたそうとう図太いクマなのだろう。

動画も撮りながらしばらく眺めるが、いつまでもこうしてはいられない。この日の最後の目的であった湿地のミズバショウとリュウキンカの素敵な群落を眺める楽しみが残っている。

後のイワナ釣りもある。クマのおかげで時間を要してしまったのでやや急ぎ足で下ったら、単独で登ってくる女性の方と行き会った。あいさつを交わし合ったら、仙台の方だという。5月末、国道397号が開通したのにあわせて林道側から焼石へ登ろうとしたら雪と倒木などがまだあり車が駐車場まで入れなかったらしい。それで今回はこちらと同じで「すずこやの森」側から入ってきたという。ということで彼女は今春2度目の焼石入りらしい。

「すずこやの森側からだともう少し早くなければダメと思った。入山時刻が遅かった。時間を要したので、これから頂上まではムリ。焼石神社までは行きたいが、それもムリのようなので焼石沼で折り返す予定……」という旨を彼女は語った。

彼女はその後に「途中に、ミズバショウとリュウキンカの美しい『秘密の花園』というところがあるそうですが、そこがどこかわからなくて…?」という旨も遠慮がちに語った。花の百名山・焼石岳の魅力を紹介し村への来訪を望んでいる者として、たずねられたそういうご希望に応えないではいられない。今年は雪が多くまだヤブ漕ぎせずに雪の上だけを歩いてそこまで行ける。ちょうどこちらもそこに寄る予定だったので、「雪に、こちらの足跡をつけておきますから、それに沿って歩いて来てください!」と伝え、とりあえず彼女とは離れその「花園」をめざした。残雪の季節、そこには今日最後の絶景が待っている。