新型コロナウィルス感染症禍で考えること

小中学校の入学式も、児童生徒、教職員、在校生と保護者のみなさんだけで行われることになり、その旨のご連絡をすでにいただきました。

この時期恒例のお寺の「涅槃会」も急きょ中止となり、山門にそれを知らせる張り紙がされております。飲食をともなう集いの計画は、多くが中止・延期を迫られ、人のあらゆる動きに制約がかかり、新型コロナウィルスの猛威が日を重ねるにつれ増え続けています。

資源や利潤をもとめて、あるいは宗教の違いなどで、あるいは他国からの不当な侵略に抗するために、膨大な軍事や防衛に人類は費用をかけてきました。しかし、最も大きな人の命をまもるということで、それらの投資金額からすればはるかにケタが少なくて済む医療態勢の構築は、驚くほど脆弱であったことに驚いています。

一部の国をのぞいて、この発達したといわれる国々で「マスクがない、消毒液がない」「人工呼吸器、心肺装置が足りない」「必要な病床が不足」などということが現実に起きていることに、「国家は何をやっていたのだろう」という思いが今もはなれません。

そういう医療体制構築や新型ウィルスへの備えなどは、歴史の教訓からしても、グローバルとなっている世界の現状からしても危機管理の常套だと思われるのですが、そういうことを専門の仕事としている「発達した」世界の国々は、こういう事態を想定できなかったのでしょうか、まことに不思議です。

来日したこともある南米ウルグアイの元大統領ホセ.ムヒカ氏は「……私たちがグローバル化をコントロールしているのでしょうか、それともグローバル化が私たちをコントロールしているのでしょうか……」という旨を「国連持続可能な開発会議」でのべています。(ホセ・ムヒカ 日本人に伝えたい本当のメッセージ。萩一晶著・朝日新書)新型コロナ禍の世界の国々の動きをみればなんと含蓄に富んだ言葉ではないでしょうか。

よくいわれるように食料と安全保障は密接不可分の課題ですが、必要な医療を人的にも物的にも自国でまかなえる体制構築がもとめられていることを私は新型コロナ禍で教えられました。発達した国といわれるところで「たかがマスク程度、されど要のマスクを、他国に頼らなければ必要量が確保できない」というなんとも情けない現実をみてです。

グローバル社会になればなるほど、国民の命のカナメとなる「食料」「エネルギー」そして、「万全な医療体制の構築と備え」を自国でまかなえるしくみがもとめられていると思います。物づくり産業でくらしに必須の分野も「自国でまかなえる」は同じでしょう。

それとともに、人のくらしと命をまもる分野に格差なく国家の財政を厚く注ぐ必要があり、新型コロナウィルスは、そういう意味でもっとも大切なところをおろそかにしてきたグローバル社会における人類への、大きな警告と受けとめるべきではないでしょうか。