米政策の大転換はじまる

48年前にはじまった米の生産調整(減反)にともない、水稲が作付けされない水田の有効活用をはかるなどを目的として様々に名をかえ組織されてきた協議会(村、議会、農業団体、農家などで構成)の総会がきのう開かれました。

現在のその協議会の名称は村農業再生協議会。平成29年産までの米の生産については、国からの生産数量が県を通じて村に配分されていました。しかし、今年産からは配分というしくみを廃止、国が適正な生産量をしめし、それをみて県が生産の目安を各市町村に設定、村の協議会がそれに基づき生産の目安を農家に通知するということに変わりました。

「配分」がなくなったことにともない、生産者同士の間で水稲の作付け過不足を調整し合い、配分より多く減反をした農家に一定の補償金が支払われた「とも補償制度」も、今年産から廃止となります。

配分から目安へ。これは1970年(昭和45年)に減反が始まって以来約半世紀に及んだ米政策の大きな転換です。これにより当面この先数年、各都道府県ごとの主食用米作付け面積の推移がどうなるか、なによりも米価がどう動くかに関係者は大きな注意と関心をはらっています。こちらも、村農業の振興に責任のある一人として、また一農家として、やはり最終的には「米価がなんとなるのか」に思案が行き着きます。

米のことになればいつも記しますが、藩政時代などに遡る飢饉時だけでなく、第二次世界大戦後の山村の家々の中にも「満足にご飯を食べられない時」がありました。「明日の飯米」確保で、近所などにお米を借りに歩くなどは当時の村内でもざらにあったことです。

そういう台所をあずかる家々の「母」たち「女」たちは、米びつが空になると、明日の糧メシを得るためお隣などの家に「はあーえ、なんとが、米っこ、貸してけれ」と歩いたのです。子供がその「貸してけれ」の使いに歩いた家々の事例もあります。我が家もお米を借りに歩いた時が母にあり、多くの子供の腹を満たすため「ニドエモで、我慢さへだごどもある(ジャガイモを食わせて、我慢させたこともある)」と母はたまに語ります。

そういう体験を知り、またもつだけに、先人たちが糊の汗を流し苦労して開墾したたんぼの荒れた様子と、充分に食べられなかった時代との米をめぐる価値のちがいをみて、誰にいうでもなく私は「これなば、バヂあだる」と思えてきます。

ご飯を食べようとしない幼子に「ちゃんと食べなさい」となんとかして食べてもらうための苦労もみられる、今はそんな飽食の時代です。それなのに、やはり一方には、国内でも食に事欠く家庭や子供たちもいて、それを支援する「子供食堂」も全国津々浦々に。国内でも、世界規模でも、飢餓・貧困と飽食が併存します。人間社会、ほんとうに複雑です。