国道342号の開通式へ向かいます

役場前のソメイヨシノも昨日で花満開に近くなり、開発センター玄関前に掲げられ最近塗り替えられた「非核平和宣言の村」看板が背景にくっきりです。

成瀬川を遡ること一集落ごとに標高も上がり、役場前で9分咲きほどとなったソメイヨシノもわが岩井川集落ではやっと開花はじめ。集落のまわりではそれに先立つタネマギザクラ(ベニヤマザクラ)が満開です。ブナの芽吹きもきのうで標高600~700㍍ラインまでいっきに上がりました。

 

いよいよ深山の雪解けも加わり、成瀬川は連日小規模洪水なみの勢いに変わってきました。

急速に進んだ雪消えですが、わが家のたんぼはまだ畦畔に吹きだまりの残雪があります。きのうはスコップを手にあちこちをまわり、まずはたんぼ初しごとの雪解け水切り作業です。水の多いたんぼ窪地には、毎年のことのようにカエルがいち早く卵を産みつけ、小さなオタマジャクシたちが卵の中で成長を続けています。

 

 

 

 

そばの土手はチャワンバナコとカタクリがちょうど花盛り。お天気も良さそうな連休は、人里近くでいっせいに開いたこれら春の野の花とともに、須川温泉栗駒山荘周辺の見事な雪景色、やや手前では雪原に映えるブナの芽吹き、イタヤやヤマザクラの花々、地にはイワウチワ、ショウジョウバカマ、エンゴサクの仲間などで、花と芽吹きの春黄紅葉がまことに美しい楽園のような山谷の村となるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

今日は、その須川高原に通ずる国道342号の開通式に向かいます。式は11時50分に開かれる運びで、正午には、閉鎖されていた土ヨロゲート前で開通宣言のテープカットが行われます。

開通に合わせて、これも今日から営業再開の高原の栗駒山荘露天風呂などにつかっていただけたら、毎分6000㍑(春はもっと多いでしょう)の湧出といわれる源泉で、なんぼみなさんの心と体がよく休まるでしょうか。

今連休は久しぶりに好天続きの予報です。芽吹きと花の村、標高1000㍍を越える地での豪雪のわが村ならではの別世界の春の雪景色、広大な高原の雪渓歩きと雪上のブナの森散策もたっぷりと楽しめる絶景の須川温泉へ是非お出でください。

花と萌葱の緑をひろう

人里も野山も、お隣町の果樹地帯も、いずこを見ても今は花*花✾花、萌葱、緑、萌葱です。

中学校東側には体育館屋根から滑り落ちた残雪がまだ見られ、豪雪の村のそこに咲くソメイヨシノは雪のそばでの開花です。校舎背後の山にはタネマギザクラ(種まき桜・ベニヤマザクラ)が咲きはじめ、ブナや柳の緑と春景色の共演です。

 

 

 

 

野山は萌葱色のブナに続きそれよりもっと黄色みを帯びたイダヤ(イタヤカエデ)の花が真っ盛り。イタヤカエデは秋の黄葉もひときわ美しい樹ですが、春紅葉でもブナと同じように、やわらかい輝きを見せてくれます。

成瀬川の岸辺ではコブシも花開き、イタヤカエデの花と見頃の色対称を見せてくれています。

所用で下る途中の真人公園入り口のソメイヨシノ老樹も花満開です。この老樹は、昭和から平成の時代に生きたわが村人たちをふくめ、近隣一帯市町村の老若男女、多くの家庭や会社、団体、なかには恋人同士の人々を見つめ、彼らの「花見」を楽しませてくれた木々たちでしょう。


 

 

 

そばの果樹園では、開花の早いさくらんぼ、ももなど果樹の花々も開き始めています。もう少したったらこの地の名産りんごの花もいっせいに咲き始めます。

 

 

 

 

わが集落では、ショウジョウバカマも花が見られるようになり、残雪のそばでは野のヒロッコ(ノビル)が、旬の色合いであっちにもこっちにもと、真っ盛りです。

味噌仕込み

雪解けの春は、毎年のようにめぐってくる我が家の自家用味噌仕込みのとき。

昔は、屋外に据えた煮豆専用の黒い大釜で豆を煮る。手回しの豆つぶし機械で煮豆をつぶす。つぶした練り豆を手で持てる大きさ程度の塊(これを味噌玉という)にする。今度は大きなはんぞう(半挿・木をくりぬいて製造のタライ)にねりつぶした味噌玉を崩して入れる。それに塩と麹と、豆を煮た汁を混ぜて味噌の元をつくる。の作業を経て、最終の仕込み作業は大きな桶にその味噌の元を詰め込むという手順で味噌仕込みが行われました。

そういう当時に比べ、今は、食生活の変化(とくに冬期間)や自宅での各種宴会や慶弔催事などの減少もともない総じて味噌の使用量も少なくなりました。したがって仕込む味噌の量も激減。自家用味噌も麹屋さんなどプロのつくった味噌の元を購入し、自宅の桶に詰め込むだけという家庭がほとんどです。仕込みを止めて、味噌そのものを購入している家庭も今は少なくないようで、これも時代を反映したくらしの変化のひとつです。

わが家も、かっては毎年この大きな味噌桶いっぱいに仕込み、その桶を3つ備え順繰りに利用していましたが、今は大きな桶に3分の1ほど仕込めば足りるようになっています。ただ代々使われてきた3つの大桶はそのままで、量は少ないもののやはり昔と同じようにそれぞれの桶に味噌が仕込まれ中です。

よくここで記すように、山村の農家は、米も味噌も一年分以上の蓄えがあり、水もすぐそばに飲める湧水や沢水があり、少々の難事にも耐えられるというのはこういうことです。

わが家の場合は、仕込む味噌の量が少なくなったとはいえ平均の家庭よりやや多いかもしれません。それは、食べる味噌だけでなく、キノコを主にして、野菜や山菜の味噌漬もよくつくるからです。とくにキノコのノギウヂ(エゾハリタケ)とトビダゲ(トンビマイタケ)の味噌漬けはかなり大きな桶にぎっしりと漬け込みますから、漬け物用の味噌も「ほほう」と思うほど使えるのです。

▼きのうは広域消防分署職員の歓送迎会へ出席。広域管内のなかで居住圏域の多くが横手・平鹿に隣接、管内では半ば飛び地のように位置しているわが村です。雄勝管内でありながら警察の管轄は横手署、経済・生活圏もかなりの部分が横手平鹿とつながり、救急時もふくめた医療機関の利用も横手平鹿地域が相当数あります。

村は、このように管内ほかの地域とは様々な面で社会的な背景に異なりをもちます。さらに岩手県境と接する広大な栗駒山国定公園や全国有数の森林生態系保護地域の脊梁山脈、そして国直轄の成瀬ダム建設の本体工事着手など、特有の環境下にも村はおかれています。転出された方々へはそうした条件下で活動に励んでいただいたことへ感謝し、転入された方々へは、村の防災計画やハザードマップに基づいた現実対応にむけ啓発活動によく励んでいただきたい旨を思いながらあいさつとしました。

ブナの花が多し

今年はブナの実が豊作となる兆しがみられます。

わが家前、城下公園に植えられているブナの芽吹きも始まりました。近づいて萌え出た葉っぱを見つめたら、大方の樹に花がいっぱいついています。例年どおりこのまま花芽が受粉し結実したならば、花数の多さからして「これはブナの実が豊作」と予感したところです。

そうなればクマをはじめブナの森の生きものたちは、久しぶりに食べきれないほどのおいしく栄養源たっぷりの実をごちそうになることができるはず。それが食物連鎖に名のあがるすべての生きものたちの生態系に恩恵の役割を果たすことになるでしょう。

 

世の中の関心をあつめているクマも、ブナの実の栄養でこの秋には多くの子供が母の体に宿り、来年と再来年はまた子グマの多い年となることも今から予想されます。

ブナの芽吹きはじまる

土、日曜と西日本や東日本で時ならぬ真夏日となり、わが集落も26度℃の夏日。河畔林のヤナギとともに木々の中では芽吹きが一番早いブナの芽吹きが、先週末から里山で次々とみられるようになりました。

 

芽吹きのいちばん早いブナの葉のこの様子をわたしたちは「木の葉ホゲダ」といいます。芽吹きを「ホゲル」の言葉で表すのです。さらに村のマタギたちは昔から「ブナのホゲざげさ、クマえる(ブナの葉の芽吹きはじめた境のところに、クマがいる)」とみてきました。クマは、芽吹く寸前で膨らみきったブナの芽や芽吹きはじめの芽が大好物だからです。ブナは、実だけでなく芽もクマにとって大切な栄養源の樹なのです。

▼童を連れていつもの河川敷を散歩したら、コゴミも芽を出し始め、ユギノシタキノゴ(エノキタケ)もいっしょに摘み採り、待っていた初物をごちそうになりました。ほかの山菜も次々と芽を出すこれからは、初物ごちそうをいただける日々が続きます。

 

 

 

 

 

 

▼里に近い沼又沢へも道路沿いに少し歩いてみました。

豪雪の冬でしたから雪崩によって落ち運ばれた雪の量も今年は多く、渓谷をふさぐ雪の橋はいつもの年より規模が大きく見えます。深山の川を渡る生きものたちも、登山や釣り、山菜採りで渓谷に入る人々も、今年はかなり遅くまで雪の橋を渡り続けることができそうです。

雪解けが早く進んだ雪崩跡の日向斜面や川の岸辺には、サグ(エゾニュウの仲間)の新芽が勢いよく伸びつづけています。この野草が大好きなクマやカモシカたちは、食を求めてこうした場所の近くでこれからの日々を過ごすようになります。

川沿いには、ここでもエノキタケやコゴミが、瀬の流れからはじける水しぶきを時に受けながら暖かすぎる春の陽ざしを浴びています。


 

 

 

 

 

 

 

そばの土手にはチャワンバナコ(キクザキイチゲの仲間)やカダゴ(カタクリ)、バッケ(フキノトウ)たちが花の競演で、ヒロッコ(ノビル)もおいしそうな新芽を残雪の中からいっぱい突きだしていました。

夫婦?で羽繕い

家の中から勝手口の外をながめたら二羽のカラスが地上に並んでいます。

それだけならどこにでも見られる姿です。ところがこの二羽のうごきは普通見られる様子とは少し違います。しばらく見つめていたら、一羽のカラスがとなりのカラスの羽繕いをしはじめたのです。

ははあ、今は彼らの繁殖期。すでに巣作りを終えてこれから卵を産みつける頃。これはきっとカラスの夫婦で、オスがメスの羽繕いでもしてくれていたのでしょうか。

たかがカラスといえど、こんな仲むつまじい姿を目にすると、心ほんわか温かくなるものですね。

▼チャワンバナコ(キクザキイチゲの仲間)に続きカダゴ(カタクリ)も咲き始めた村です。冬ごもりしていた生きものたちの多くが半年間の眠りから覚め、ツバメも先頃目に入りました。地肌の面積も日毎に増えて、ウドザグ(ハナウドの仲間)やサグ(エゾニュウの仲間)、ヘリザグ(セリサク・シャク)の緑が急速に広がっています。このもえぎの緑葉、森の生きものたちは、新しい命の糧を口に出来て大喜びでしょう。

 

 

 

 

まだウグイスの初鳴きを聴いていませんが、成瀬川が雪解け本番の流れになりましたから、オオルリやキビタキもふくめ、彼らもまもなく姿を見せてくれる頃です。

沢沿い急斜面のヤマモミジも、豪雪の地方ならではのしなやかな樹姿をいっそうひきたて、枝先を空に向け張り始めました。

米政策の大転換はじまる

48年前にはじまった米の生産調整(減反)にともない、水稲が作付けされない水田の有効活用をはかるなどを目的として様々に名をかえ組織されてきた協議会(村、議会、農業団体、農家などで構成)の総会がきのう開かれました。

現在のその協議会の名称は村農業再生協議会。平成29年産までの米の生産については、国からの生産数量が県を通じて村に配分されていました。しかし、今年産からは配分というしくみを廃止、国が適正な生産量をしめし、それをみて県が生産の目安を各市町村に設定、村の協議会がそれに基づき生産の目安を農家に通知するということに変わりました。

「配分」がなくなったことにともない、生産者同士の間で水稲の作付け過不足を調整し合い、配分より多く減反をした農家に一定の補償金が支払われた「とも補償制度」も、今年産から廃止となります。

配分から目安へ。これは1970年(昭和45年)に減反が始まって以来約半世紀に及んだ米政策の大きな転換です。これにより当面この先数年、各都道府県ごとの主食用米作付け面積の推移がどうなるか、なによりも米価がどう動くかに関係者は大きな注意と関心をはらっています。こちらも、村農業の振興に責任のある一人として、また一農家として、やはり最終的には「米価がなんとなるのか」に思案が行き着きます。

米のことになればいつも記しますが、藩政時代などに遡る飢饉時だけでなく、第二次世界大戦後の山村の家々の中にも「満足にご飯を食べられない時」がありました。「明日の飯米」確保で、近所などにお米を借りに歩くなどは当時の村内でもざらにあったことです。

そういう台所をあずかる家々の「母」たち「女」たちは、米びつが空になると、明日の糧メシを得るためお隣などの家に「はあーえ、なんとが、米っこ、貸してけれ」と歩いたのです。子供がその「貸してけれ」の使いに歩いた家々の事例もあります。我が家もお米を借りに歩いた時が母にあり、多くの子供の腹を満たすため「ニドエモで、我慢さへだごどもある(ジャガイモを食わせて、我慢させたこともある)」と母はたまに語ります。

そういう体験を知り、またもつだけに、先人たちが糊の汗を流し苦労して開墾したたんぼの荒れた様子と、充分に食べられなかった時代との米をめぐる価値のちがいをみて、誰にいうでもなく私は「これなば、バヂあだる」と思えてきます。

ご飯を食べようとしない幼子に「ちゃんと食べなさい」となんとかして食べてもらうための苦労もみられる、今はそんな飽食の時代です。それなのに、やはり一方には、国内でも食に事欠く家庭や子供たちもいて、それを支援する「子供食堂」も全国津々浦々に。国内でも、世界規模でも、飢餓・貧困と飽食が併存します。人間社会、ほんとうに複雑です。

のどかな春のひととき

このところしばらく雨天や曇りが多く、晴れでも風がつめたかったりでしたが、きのうは久しぶりに春らしいおだやかな日和となりました。

いつものようにまずは朝一で役場に向かって書類の決済をし、今後の活動予定などを打ち合わせ。帰宅してからは突然舞い込んできていた童の子守役にひととき加わりました。温かなので、「外で雪の上を歩こう」と童と約束していた堅雪渡りの河川敷散策です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

我が家は畑も田んぼもまだ雪が多く、そこに向かう農道も厚い雪で車が通れませんから農作業はできず。妻も月末連休から今シーズンの村の直売所のしごとが始まります。なので、雪が解けてからの繁忙の春、二人そろって童と過ごせるこうしたゆるやかなひとときはつかの間の今だけ。

きのうは雪の締まりがほんとうではなく少し足が雪に沈みました。でも、河川敷の散歩程度ならだいじょうぶ。久しぶりに童と3人そろいでのどかな春の自然にふれあいました。

バッケをながめ、童の大好きなキノコ(ユギノシタキノゴ・エノキタケ)をいっぱい採り、アザミやヒロッコを摘み、湧水から流れる清水のそばで花(キクザキイチゲの仲間)やワサビ、クレソンを愛で、雪解けの瀬音さやかな小川や成瀬川の水辺に戯れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬眠から覚めたばかりのヘビ3匹が残雪そばの日向で体をあたためていた姿ともばったりの出会い。ハ虫類は苦手で歓迎しないこちらですが、童は「しっぽをプルプルさせていたね」と初鳴きならぬヘビの「初見」を体験してニコニコとおもしろそう。

夕餉には、みんなで「その日の春の楽しい出来事」を語り合い、エノキタケもいっしょにしたヒロッコのかやぎ汁をいただきました。

為政者に求められる条件

ちょっとの言葉を書き連ねるだけでも、ほかの書物・書類の応援を得なければならないことが多くあるこちら。みな若い頃の基礎学びがまったく不足しているためです。

それら書物・書類のなかでもそばにおいて最も多く使うのは広辞苑(岩波書店)と類語大辞典(講談社)、スーパー実用ことわざ辞典(東京書店)、樹木、野草、キノコなどの各種図鑑やガイド本、地理名を正確に記すための村と周辺の地図、それになんといっても欠かせぬのがわが村の「郷土誌」です。

実は、そのわが村の郷土誌は、藩政時代の「村」のしくみをくわしく述べ、そのなかで当時の「公務職」として配置された「村の長」といえる「肝煎(きもいり)」役にはどんな資質の人間がふさわしいか、当時の秋田奉行所が管内にしめした内容を載せています。

少し乱暴かもしれませんが、肝煎の言葉をたとえば当時の藩主や将軍とおきかえてもいいでしょう。約400年前の肝煎という公務職を、今時の国政や県政、全国の地方自治体で政務を執る為政者すべてにそれをあてはめて考えてもいいでしょう。

時代が変わっても、我々の社会に求められる指導者像、公職トップ像というものがここから浮かび上がります。肝煎にはどんな条件の方がふさわしいとされたのか、約400年前も、今も、為政者の資質として求められる条件はほぼ同じであることに少々驚きます。これら条件の多くは、大小の権力というものをもつ人間に、あるいは諸々の組織の先に立つ人間に課される永遠に変わらぬひとつの規範ともいえるのでしょうか。

それでは奉行所が肝煎に求めた資質の条件とは何か、村郷土誌は次のように記します。

一、第一貧ならず、正直にして心広く、質朴にして貪(むさぼ)らず。
二、慈悲あって贔屓(ひいき)なく、分別あって奢(おご)らず。
三、また、身上余慶も在り、頼もしげありて気長く、偏屈ならず。
四、大酒を好まず、好色のくせなく、芸能の癖のないもの。

ということです。

質朴で貪らず、慈悲あり、贔屓なく、奢らず、頼もしく、気は長く、偏屈ならず、好色の癖なし。昨今、国政や地方政治で問題になっている諸々の事例の当事者の方々は、胸に手をあててこの肝煎選任の条件を一度読んでみてほしいものです。わずか4つながら、なんと教訓的な言葉が多くちりばめられているではありませんか。こういう指導者たちが率いる政治なら、世界のどの国でも、わが国政でも、国内どの地方政治でも、真に民のための政が行われるでしょう。

ミュージカル「ブッダ」の再公演

14日、一年ぶりに妻と二人、仙北市田沢湖のわらび劇場に向かいました。

毎年4月に行われる初日公演にご案内をいただいていて、今年の演目「ブッダ」は2年前だったか一度観ていたのですが、「もう一度あの演技、彼の演技をみてみたい」と向かったものです。

その彼とは、劇中で、人間と狼の血を引くとされる奴隷役「タッタ」を演ずる三重野葵さんのこと。主人公「ブッダ」役の戎本みろさんの名演技もさることながら、初演のときの三重野さんの演技が二人とも強烈な記憶として刻まれていたからです。

「生きるとは」、「どんな生き方をするのか」を問いかけるのがこの劇の主題のようで、原作を描いた手塚治虫氏が我々に届けようとした思い、人間社会が背負う重い課題を考える2時間ほどとなりました。2回目の「ブッダ」観劇、三重野さん、戎本さんをはじめ、みなさんのさらに円熟した演技を堪能できました。

この日は、僧侶で音楽家の渡邊英心さんのトークショーもありました。渡邊さんは、マスコミなどでもよく紹介されますが、三種町松庵寺(曹洞宗)の副住職。東京学芸大在学中にラテン音楽サークルに所属、海外での活動を経て秋田に戻り、副住職をされながらパーカッショニスト、5人組バンドのボーカリストとして、またDJなどで幅広く活動中の方です。

トークの演題は「アートと仏教」。渡邊氏は響きのいい声音で「仏教は他を認めるもの」という旨をふくめ語られました。それは己と違う存在を認める、寛容の精神ということでもあるのでしょうか。世上には「人の道」に背く出来事が政界をはじめ絶えません。そういう時世だけに、ミュージカル「ブッダ」も、「アートと仏教」のトークショーも、今の時代を見すえた「人はいかに生きるか」の命題で、一条の光として心に響くものがありました。

なお、わらび劇場では8月5日から北前船をテーマにしたミュージカル「北前 ザンブリコ」を公演予定のようで、その主演に三重野葵さんが決まっています。どんなミュージカルになるのか、三重野さんが今度はどんな演技をみせてくれるのか、そちらも楽しみです。